2020.3.30

小学生のときの記憶を2つほど書いてみる。

2年生だったか3年生だったか、体育の授業で逆上がりを教わっていたときのこと。はじめに先生がデモンストレーションをして、あとは各々で練習して、できた人から先生に報告して確認してもらう。私ははじめ、友達数人でひとつの鉄棒を使って、しゃべりながら練習していた。
しかし、あーだこーだ話しながら代わる代わるに試してみても、あまり上達しない。時間だけが過ぎていく。私は思い切って、遠くの鉄棒でひとりで練習することにした。逆上がりのために設置された、足で駆け上がる板のようなもの、その中でも人気のなかったタイプを独占させていただき、自分の感覚に向き合って、ストイックに何度も何度もやってみた。すると、数十回目でくるっと回れた。
そのとき、

・新しい技術を習得したり、成長するためには、友達と話しながら片手間でやるんじゃなくて、ひとりで向き合って鍛錬したほうがいい

みたいなことを感覚でわかった気がする。ほんとうに大事なことはひとりでやる、それはこのときからずっと続けている。


4年生のとき、ある日登校して教室のドアを開けると、一斉にこちらを向いてみんながざわついた。どうしたの、どうしたのと聞いても数人は何も教えてくれず、数人目でやっと誰かが「あなたの机の上に、手紙が置いてあったのが見つかって、先生に見せて大変なことになった」と教えてくれた。手紙はノートの切れ端のようなもので、鉛筆で紙いっぱいに「殺す殺す殺す」と書いてあったのだった。
私はまるで気にしなかった。殺せるもんなら殺してみろ、くらいに思った。でも先生たちは大騒ぎし(当時、教育大附属池田の殺傷事件があったりしたので、『殺す』というキーワードに教育者は敏感になっていた)、すぐさま学年集会が行われた。当時の担任のおばさん先生は壇上で大泣きし、こんなの許せません、と熱弁していた。私はそれを冷静に見ていたのを覚えている。
そしてどうやら、その手紙には「運動場に出たら殺す」という内容も書かれていたらしかったのだが、集会後の10分休みに、友達2人が私のところへやってきて、「そんなの気にせずにさ、ブランコ乗ろうよ」と言って3人でブランコに乗った。「ほら、殺しに来ないじゃん、大丈夫だよ」ふたりはそんなことを言って笑い飛ばしてくれた。その2人とは、今でもとても仲良しだ。
私は犯人探しをする気はなかったので、その後も特に気にせずいつも通りに過ごしていたのだが、何ヶ月か経ったある日、とつぜん犯人が名乗り出た。クラスのみんながドッヂボールをしよう、と運動場に出ていて、私はその途中で呼び止められたのをはっきりと覚えている。「犯人」は事件の直前にやってきた、あまり話したことのない転校生だった。彼女は勉強ができると評判の子で、やけに淡々と私に伝えてきた。
そのとき私はなんて返したか覚えていないんだけど、その数日後に先生に呼び出され、空き教室へ連れて行かれると別のクラスの先生と「犯人」と名乗ったその子が大泣きしながらなにやら話し込んでいた。
彼女は手紙を書いた理由として「転校する前の学校では私が勉強も人気も一番だったのに、こっちに来たら○○さん(私)が一番で、悔しかった」という意のことをえずきながら語った。お、おもしろい、、、。私はひどく冷静に、そして単純に感動したのを覚えている。許してくれる?みたいなことを言われたが、許すも何もそもそもあんまりなんとも思ってないよ、と言った気がする。私は彼女が犯人だったことを誰にも言わないことを約束した。そして卒業まではおろか、あれから20年近く経った最近になって、やっと友達に話したのだった。法律的にも時効だし、彼女との接点は今は一切ないのでまあいいだろう、とやっと思えた。
そしてこれには後日談があって、事件後、まったく関係のなかったKちゃんが転校していったのだった。Kちゃんは「手紙」の第一発見者で、それもたまたま早く学校に来ていただけだったのだが、担任にひどく疑われたらしかった。後で聞いた話だと、親に電話までしてきて、不快な思いをたくさんしたという。Kちゃん親子は私が疑ったと思ったのか、転校先の小学校では私の実名を出して悪口をばら撒いていたようだった(それは中学生になって、塾で親しくなった子づたいに偶然知ったのだった)。
アホか!それを知ったとき、ただアホらしいなあとだけ思った。この一連の騒動を経て、

・人は嫉妬に駆られると大変なことをしでかすこと
・人は正義感が高じると大変なことをしでかすこと

を感覚的に学んだな、と思う。それから、嫉妬心と正義感が異常に強い人間には、あまり近づかないようにしている。

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