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ぎゅっ


「もっかい、よんで」
絵本を読み終えると、2歳の息子は待ち構えていた。もう6回目。僕は再び表紙をめくる。熊の子どもがスパゲティを食べる話。慣れないフォークに苦労する場面で、ふとよみがえってきた。30年前、10歳の誕生日の記憶が——。

「フランス料理を食べてみたい」
当時の僕の家では、誕生日には何でも好きなものを食べられた。回転すしや宅配ピザが定番だったけれど、テレビで知った一品ずつ味わうフランス料理を体験したくなったのだ。でも母さんは、ちょっぴり困った顔をした。

誕生日の夜、めったにおめかししない母さんは、緑のワンピースを着て赤い口紅をつけた。なんだか知らない人のような気がした。小さい子どもはお店に入れないらしく、弟2人は父さんと留守番だ。母さんの運転で向かう車の後部座席はがらんとしていた。

「ボンソワール」。ドアマンが重たそうな扉を開くと、シャンデリアが目に飛び込んできた。10個ほどのテーブルは、ジャケットやドレスがビシッと決まった大人ばかり。母さんは服に着られているみたいでブカブカしてる。

同い年くらいの女の子がアイスクリームをすくっていた。ほっとして見ると、襟のついたワンピースに先の丸いツヤツヤの靴。僕だって、いちおう襟つきのシャツだ。でも親戚のお古だし、母さんが穴を縫ったところもある。運動靴は砂で汚れていた。

「お待たせしました」。前菜、スープ、サラダ、魚と本当に一品ずつ出てきた。味つけは母さんのより濃くて美味しい。ぺろりとたいらげる。

すぐにウェイターが近づいてきた。ところが、チラッと見て向こうに行ってしまう。何回目かに「お済みですか?」とやっとお皿を持っていった。どうしてなんだ?

こっそり隣のテーブルを観察する。食べ終えたナイフとフォークをお皿の右側に揃えて置いた。するとウェイターが下げにくる。そうか、僕たちはお皿に八の字のままだったからだ!
向こうでウェイターたちがヒソヒソ笑っていた。それからステーキが出てきたけれど、胸がざわざわして何も味がわからなかった。デザートは? 紅茶は? 一品ずつ出てくるフランス料理にどんどん腹が立ってくる。早く家に帰りたい。母さんも同じじゃないかと思うと、悲しくてしかたなかった。

熊の子どもは、ついに手掴みで食べ始めた。ソースで顔をドロドロにしながら「おいしい、おいしい」と。それを真似してはしゃぐ息子に、思わず微笑んでしまう。

あれ、まてよ…。あの日、母さんも微笑んでいたような気がする。だって、子どもが喜ぶためなら、少しの恥なんてどうでもいい。親になった今、その気持ちがよくわかる。愛してくれていたのだなぁ。

今度会ったらお礼を言おう。なんて思い返していたら、もう絵本は最後のページ。すぐに振り返った息子は「もっかい」。もちろんだよ、と僕は表紙をめくる。さっきよりも体をぎゅっとくっつけて。

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