音楽と人生のオーバーラップ vol.1

大人になるまでに熱中した音楽にまつわる人生をふりかえりつつ。

小さいときの音楽の記憶。。。"みんなのうた"の「メトロポリタン美術館」父のカーステレオで聞くカセットテープの井上陽水「なつまつり」「いつのまにか少女は」安全地帯「夏の終りのハーモニー」アリス「チャンピオン」沢田研二「時の過ぎゆくままに」なんかが幼心に残り未だに聴くことも。

ダウンタウンとLINDBIRG

小学生になってもアニメの歌なんてのは聞いてはいたが、音楽というものは興味がなかった。人と同じが嫌だとちょっと早い中二病みたいな感じでクラスの皆がきいていた、光GENJIやアイドルとかは毛嫌いしていた。小学5年生で初めて買った音楽のCDは、、ダウンタウンやウッチャンナンチャンが深夜にやっていた「夢で逢えたら」のOP曲 リンドバーグの「belive in love」だった。その前はユニコーンの「スターな男」なのだが、ギリギリ見れておらず、ユニコーンにはもう少し後でハマる。

そのオープニングがとても都会的なドラマ仕立てで何かとても大人染みて見えてかっこよく感じた。渡瀬マキも後々どんどん可愛くなるのだけれどもこの頃はすごいロッカーw。その後もアルバムを買った。やっぱりダウンタウンも初めて認識したこともあり衝撃的で、とっても印象深い。


海外の映画のワンシーンを見るような音楽に感じたCHAGE and ASKA

次は小学6年生 CHAGE and ASKAをSAY YESを聞いてレンタルCD屋さんなんかも近所にでき始めて、シングルをレンタルした。そしてスーパーベスト2が発売され購入「LOVE SONG」「walk」「太陽と誇りの中で」を聞いてよりドハマリした。ASKAにも大人の雰囲気を感じ、出るテレビ番組というテレビ番組にかじりついていた。受ける印象が子供が描く海外の都会がイメージされ、映画のワンシーンが頭に浮かぶようだった。

またパナソニックのCMで起用されたりしていて、影響をうけてpanasonicのミニコンポをお小遣いとお年玉をためて購入した。今調べてみるとSC-CH7というhalfコンポだったみたい。すごく大事にしていたなぁ。当時の歌ではないが「on your mark」が一番好きだ、ジブリのPVもとても良い。ASKAが覚せい剤で捕まったのは残念だけど、音楽はやっぱりいいので、是非にとも活動を続けて欲しい

ゆるい男の憧れUNICORN

中学生に入り、世間は小室ブームがやってくる。自分は遅れてTMNも少しハマった。深夜のテレビを見ることも多くなり、「VIDEO JAM」(ちょうど阿部義晴 さん& 井上睦都実さんがやっている頃だった。)で流れていたユニコーンのラストシングル「すばらしい日々」のPVを見てドキュンとやられた。これまでのバンドやミュージシャンがみんなカッコつけているなか、肩の力を抜いた自然体な姿に、ちょうど中2手前の荒ぶる子供にはかっこよく映った。「ええーこのバンドかっこいい!」とおもった矢先に解散という真実に驚愕する。そこから遡るように過去にリリースされた曲を聞いた。「おかしなふたり」と「自転車泥棒」が好きだった。

当時好きだった女の子もユニコーンが好きで共通の話題ができてとてもうれしかったのが更に熱中させたのだと思う。その後も奥田民生となって今も男の憧れるゆるーいおじさん代表として応援している。


未だにこの中二病が治らない 電気GROOVEには謝ってほしい

中学二年生の時、世間はミスチル、サザンとJPOPもミリオンが山のように量産されていくなか、一人の友だちが「これ聞いてみ、面白いよ」と一枚のCDを渡してくれた「電気グルーヴ?」「Flash papa Menthole」であった。当時テクノなんて言うものに触れたこともない中で、小室サウンドとは違う攻撃的な電子音となんの意味も持たない耳障りが良いからと羅列された日本語の歌詞で作られた変態的音楽の衝撃に、愛だ恋だとロマンスを歌うJPOPより、こういうロックしている音楽を愛してしまう中二病に蝕まれた思考は電気グルーヴの虜となってしまう。中2の誕生日にはアルバム「DRAGON」を買ってもらい、父と母に心配されたのは良い思い出。「DRAGON」のジャケットに写されたビザールギター teisco spectrum5も後々に購入することとなる。

地元の友だちには電気グルーヴを聞いているということは秘密にしていた。隠れキリシタンのようにひっそりとファンをしていた。本物の電気グルーヴにであったのは2000年「VOXXX」ツアーでベイサイドジェニーでご尊顔を拝見した。ピエール瀧も石野卓球も奥田民生と同じくゆるーい憧れる大人である。ASKAと同じくピエール瀧には早く復帰してもらいたいと願う。


逃げられなかったヴィジュアル系バンドブーム 失ったHIDEとSAKURA

深夜番組をよく見る中学生の頃に夜中にやっているPVにすごい美人が映った。hydeだった。死んだ。「Blurry Eyes」のPVを多感な思春期に魅せられた僕は、多分おかしな気分になったんだと思う。ちょうど同時期にでたX HIDEの「HIDE YOUR FACE」にもであう。他のバンドとは違い、故事成語やことわざを多用した歌詞にまたも中二病をくすぐられ、これもどっぷりハマる。

そして高校生になるとバンドブームがやってきた。それぞれにLuna seaだXだ、GLAYだ推しバンドがでだした中。ラルク派だった。みんなでバンドをしようと言うことになり、私はL'Arc-en-Cielのサクラがビジュアル系の中でも、ちょっと無骨な雰囲気とセブンスターを咥えながら叩く姿にかっこいいなと思いドラムを始める。

アルバイトでためたお金で親にだまってドラムセットを買ってやった。めちゃくちゃうるさかった。割と裕福な家庭で大きな家だったのでドラムも休日の昼間は雨戸をしめてなんとか叩けたと思うが、やはり近所迷惑だったかなと今になると申し訳ない気持ちになる。

高校2年生頃になるとライブハウスやクラブイベントなんかにドキドキしながら出かけるようになった。このタイミングでsakuraが薬物で脱退する。なかなかの打率で好きなアーティストが薬物に染まる。そしてこのタイミングでバブルが弾け、父の事業が失敗し、大きな家から引っ越しを余儀なくされドラムは続けることなく封印されることになった。

高2夏休みに夜逃げするように新しい住まいに転居した。このときはHIDEのPSYENCEが発売される前。人生の深さを感じながら、心のバランス崩し昼夜逆転生活の中、田舎に引っ越し、自分が見知らぬ遠くの山の朝焼けに「misery」の少しかすれた世界観と儚い希望のようなものが、不幸のどん底にいた自分には支えになり、衝動的に田舎の道路を原付きを疾走させていた。このままHIDEは好きでLIVEのビデオに感銘を受けこのあとのアルバムYaZOOの発売にはライブに行こう!と思うくらい、シングルシングルが出るたび出るたびに楽しみにしていたが、ever freeの発売を前にこの世をさった。これもまた、薬物ではないが自分の好きになったアーティストがいなくなってしまうことにまた、悲しい気持ちに包まれてしまった。

とにかく、音楽を楽しんでいる感じや、ファッション性、新しいテクノロジーなんかを取り入れる柔軟さにアーティストという言葉を強く感じた。イコン的な存在だと思う。

クラブ音楽 パンクからはじまるVIDEO KILL THE RADIO STAR

こうしているうちに友達のビジュアルバンドのライブハウスから、クラブのパンクイベントにも顔をだすようになり始める。家庭環境も悪くなり屈折した気持ちにメロコアやハードコアのモッシュする文化に随分と発散させてもらった。大好きな彼女もできた。高校2年生でクラブで知り合った他校の女子高生と付き合っていた。充分リア充でいれたのではいかと思う。

クラブではブルーハーツやHIスタンダード、 Mr Orange KEMURI,山嵐なんかが流れ、ストリートファッションブームもやってくる。引っ越しした先友達もいない中一人駐車場でスケボーしてたけど、近所のスケボーがめちゃくちゃうまい中学生に「一、二回は骨折れる覚悟でやらないとうまくなりませんよ」と言われ物置にスケボーはそっとしまった。やっぱりあんまりアウトローな世界は怖いなーという印象だった。

クラブイベントがパンクだけではなくオールジャンルだった時、buglesのVIDEO KILL THE RADIO STARを聞いた。オーワオーワでみんなで手を上げてハッピーな感じがして何だこの曲は!ってなった。 1979年に奇しくも自分が生まれた年にリリースされたこの曲がこんなにも新しく感じることに感動を覚え攻撃的なパンクよりも楽しいほうがいいなぁと。それまでの洋楽との接点は友達が聞いていたはBONJOVIとか、ガンズ・アンド・ローゼズなんかだったけど、あまりピンと来てなかった中、ダンスミュージックや、打ち込みとロックが融合したマンチェスターロック space monkes 「judge the crown」なんかにはまっていった。

仮面浪人 音が広がる 不良外国人と初めてのFUJI ROCK1999

1999年世紀末。高校を卒業し、家庭も貧しく大学入学費用も払えないということで仮面浪人をした。新しい土地で通い出した美容院で流れていた曲がすごくかっこよかった。美容師のお兄さんに教えてもらったCDはDaft Punkだった。「HOME WORK」の中で流れる70年代のソウル・ミュージックがアレンジさされとてもスタイリッシュで知的で情熱的で、また宇宙刑事ギャバンみたいなビジュアルにあっと言う間に虜になった。美容院に行くたびにアンダーワールドやケミカル・ブラザーズ、プロディジーなんかを教えてもらい、本格的なクラブイベントにも連れて行ってもらった。YOJI BIOMEHANIKAのハイエナジーのイベントはなかなかすごかった。今までのクラブは小さな箱だったのでとても衝撃的だった。当時も今もそうだが、お酒が全く飲めない自分ではあるが、音楽に身を任せて踊る事に快感を覚えていた。

ちょうどその頃深夜のコンビニでバイトしていた。今ではあまり無いが田舎ということもあり、深夜はワンオペだった。深夜12時をまわるとお客さんもいなくなるので、有線の音楽を勝手に好きなチャンネルにしていた。ちょうどその頃ドラムン・ベースなんかが流行り始めていて、有線はすごいもんでそんなチャンネルもあった。結構爆音でかけていて、お客さんがくると急いでボリュームを下げる。そんなある夜勤の時、当時は珍しい一人の外国人の美人なお姉さんがやってきた。ボリュームを下げる。お姉さんをよく見ると音楽にのって身体を揺らしている。ここぞとばかりにボリュームを上げてあげた。

お会計のときに「こういう音楽好きなの?」と声をかけられた。もちろん外国人と話したことなんて、教育実習生くらいしかなくてとても焦った。どうもその方も高校で英語の先生をしているようだった。「好きです」と答えると「今度イベントやるんだけど来る?」ってお誘いを受けた。

音楽も好きだし、きれいなお姉さんのお誘いに鼻の下も長くなっていたと思う。「いきたい!」淡い期待を込めて待ち合わせ場所に行くと、めっちゃマッチョなオーストラリア人が迎えにきた。電車でクラブのある街までむかった。声をかけてくれたお姉さんはイベントの準備で先にいっているので彼氏であるマッチョマンが迎えにきてくれたのだった。電車の横にすわるマッチョマンの丸太のような二の腕には漢字で「武蔵」とタトゥーが掘られていた。淡い期待は紙くずのように消えた。蒸し暑い梅雨の時期の電車にあまり日本語が得意じゃない彼の無言の圧力とで、息がつまりながら電車に揺られた。

現場につくとお姉さんは「ごめんねハニー」ととても僕をかわいがってもてなしてくれるのだが、二の腕武蔵がいるので、ヒヤヒヤした。お酒なんかも持ってきてくれるが未成年だし飲めないし。。。飲まない私にお姉さんが元気ないね?これ食べる?と何かを渡してきた。干し柿?ドライフルーツ?小さくかじって見たがなんだかよくわからなかったので全部は食べなかった。お姉さんがいなくなったので外国人が溢れるクラブの中を探してあるいていると入り口でお姉さんがすわっていた。マジックマッシュルームを絶賛販売していた。このときはまだ合法ではあったが、「!!!」これはいかんですぞ!とここでご縁は終わらそうと心のなかで思いながら、愛想笑いとともに始発の時までクラブの片隅で石のように息を潜めた。

始発の時間がきて帰るときには、お姉さんは「なんかごめんねー」と笑顔で話しかけてきてくれた。今思えば悪い人では無いんだと思うけど、19歳の私には未知の領域だったので、精一杯の「Thank you for your kindness」のカタコト英語とともに一人帰路についた。その後も度々バイト先に来るときにはイベントのフライヤーをもらったりしたが、ついぞ行くことはなかった。

いつものように美容院に向かった先で音楽を教えてもらっていた中でATARI TEEN NAGE RIOTを渡された。デジタルハードコアというBPMがアホのように早く、ガバともちょっと違うが、叫んでいる。今までの音楽とは違いその凶暴な音楽の中に、ドイツのネオナチ、ファシズムを批判する政治的なメッセージがあるアナーキーなユニットだった。ドイツ人の男性と日本人とドイツ人のハーフの女性、ドイツの黒人男性とその多様性(当時の私にはそう映った)過激なメッセージバンドに衝撃をうけた。そんなバンドがFUJIROCKに来るという。おそらく日本にもう来ないかも!そんな話で、美容師のお兄さんたちとFUJIROCKに行こうか!と言う話になった。FUJIROCK自体が三年目で初めての苗場開催の回だった。

当時高校生だった弟のチケット代と、ガソリン代を提供し、美容師のお兄さんとともに車で新潟苗場まで向かった。遠かった。当時はお金もないので、1日だけの参加。会場に到着したときは一日目のオオトリのレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの曲が山の上からみえた。レーザー照明がとびかい、見たこともない人数の人たちが蟻のようにうごめいていた。明日あの中に自分はいるんだと思うととても興奮した。

初めてのフジロック、フェスなんてもんは知らない。装備もろくになく、夏だと思って軽装できてしまった。夏だけど夜は10℃ほどになる。3つ下の弟もいて、なんとかしないといけなかった。美容師のお兄さんたちは用意万端で自分たちのテントをもっていた。なんで言ってくれないんだよ!って心のなかで苛立ちを隠せずに、会場で売られていた雨合羽を買い、キャンプサイトで弟と背中合わせで寒さに耐えながら夜が明けるのをまった。

太陽がでるとちゃんと夏がやってきた。雨合羽はいらなくなった。行き交うタイダイの服やドレッドヘア、シャボン玉を吹くボヘミアン女子。そこにまぎれるテクノボーイたち。客層がとても良かった。昼間太陽の下で聞くUAやボアダムスといったフェスらしいアーティストに自由な風を感じた。

夜になると会場中に趣向を凝らしたライティング。散策するだけでも楽しかった。夜はATARIとケミカル・ブラザーズがかぶっていた。ケミカル・ブラザーズはまた見れるかもしれないし、やっぱりATARIを見に行こうとステージに向かった。登場して数曲したら、早々に帰っていってしまった。会場からアンコールがかかり、再登場し規定の時間演奏をしてくれた。後に知るのだが、メインのアレック・エンパイアが風邪かインフルで高熱だったそうだ。一日会場にいて疲れも溜まっていたが、攻撃的なライブに興奮した。演奏が終わり急いでケミカル・ブラザーズのステージへ。会場スクリーンにはイカした映像とともにチルアウト的な「The Private Psychedelic Reel」のループが流れ、僕のFUJIROCKは最高潮に達した。その後はダンステントで元を取る気でケン・イシイなんかを意識朦朧としながら聞き初めてのFUJIROCKは終わった。


美容師のお兄さんのフジロックでの割と適当な対応にその後は親交がなくなった。俺未成年だよ!弟は高校生だよ!大人なのに!みたいな。。。今思うとそのお兄さんも22,3歳でそこまでケアできないよなとわかる。

フジロックの夏が終わり20歳を迎えた。









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