音楽と人生のオーバーラップ vol.2

新世紀 ミレニアル!未来を目指してドロップアウト。グルーヴィジョンズにあこがれて。

京都市役所前で京大テクノ部の年越しカウントダウンイベントで2000年を迎えた。この頃は京都はダンスミュージックが強く(大阪はパンクやヒップホップイベントが目立っていた。)GROOVISIONなんかのVJ集団がではじめ、音楽とアニメの融合なんて言うのも広がり、攻殻機動隊やルパン三世などがクラブリミックスされていたり、イベントも沢山あった。ピチカート・ファイヴの小西さんのYMOやルパンリミックスが流行っていた。

4月一年浪人して大学へ行った。

どの授業を一緒に取るかとか、みんなが一緒に動くさまが嫌で一人受けたい授業を受けていた。やれ合コンだ、飲み会だ。そして卒業する頃にはなんとなくの企業に行くだけ。そんな事にお金と時間を使うことに疑問を感じてしまった。大学の友人にもあまり魅力を感じなかった。音楽的な刺激もなく。もんもんと一年の前期を終えた。

浪人組でお祝いに8月小学校から仲の良かった友達とタイへ旅行へいった。一人は音楽聞かない子。一人は電気グルーヴを教えてくれた、音楽を幅広く聞く友人。その旅行中はGROOVISIONSが手掛けた今で言うバーチャルアーティストChappieをヘビーローテでかけていた。クリエイティブな世界感に悦に入って聞いていた。

クラブでのVJでモーショングラフィックが流行っていた。PCだけで映像が作れる環境がやってきていた。2000年の3月にはプレイステーション2が発売されDVDが一気に普及した。そしてその頃には10年後日本中に高速インターネットが広がり、映像が爆発する未来は予想されていたこともあり。なんとなく、そういう道に進みたいと思い。夏休みの終わりとともに大学をあとにした。

電気グルーヴとジャミロクワイと新しい人生

大学を辞めて新しい人生を歩む9月 ZeppにやってきたDENKIGROOVEと初対面。「VOXXX」の全国ツアー。CDの音源とは違いライブ用にミックスされた楽曲と映像、照明に彼女を横目にピエール瀧のダンスに洗脳されていた。「NIJI」を聞きながら絶頂を迎えたそのライブは予定時間より大きく遅れ、多くのお客さんが舞洲から脱出できなかったようだ。

11月 コンビニのバイト先の先輩が彼女と行くはずだったジャミロクワイに彼女がいけなくなったので行かないか?と誘われた。高校生の時、virtual insanityが流行っていたがその時はポップスとしてサラッと聞き流していたが、今回はCaned Heartがクラブでヘビーに流れていたこともあり、是非にと。大阪城ホールでのライブは座先指定。ロックライブのノリなのか先輩含めみんな手拍子しているだけ。僕と斜め前にいた外国人の女性だけが踊っていた。みんな何が楽しくてライブに来ているのだろうか?と感じてしまった。

音楽と映像と一緒に生きる事に憧れと決意をもって。

東京へつながる田舎の工場とアンダーカバー

大学は結局自分の心境もあるが、親も学費を払うのが大変だということもあり、やめる事になった。そのかわり自分でお金を貯めて映像の専門学校に行こうと決めて、夜の工場で携帯電話を作るアルバイトを初めた。

深夜の工場のアルバイトという事もあり、働いている人たちは癖の強いひとが多かったが、一人、レザーの細身のパンツに小柄の花がプリントされたシャツでタバコを吸っているかっこいい人がいた。田舎にはいないタイプの洗練さがあった。私は声をかけた。私より3つ上だった。

話を聞くと家族のお金の事情でで最近この街に引越してきたらしく、家計を助けるべく深夜の工場に来ていた。そんな彼はもともと東京でUNDERCOVERでパタンナーをしていた。東京ではDJ DRAGONやいしだ壱成といった当時のファッションでは人気のあった人たちと遊んでいたようで、ファッションだけでなく、音楽やカルチャーというものに造詣が深く当時の私にとってはとてもセンセーションな存在だった。男前でありながら思想もしっかりしていて硬派なところもとてもかっこよかった。

そんな人生ではじめてあにぃとして私は慕うようになった。毎日鬱蒼とした仕事がとても楽しく学びの時となった。

そこでは渋谷系といわれるラブ・タンバリンズや、Marlena shawなどのジャズ Aretha Flanklin ,Marvin Gayeなんかのフリーソウル、サバービア系など古い楽曲の中にとても心地よい、メロウなものがたくさんあることを知った。

そして、そうした70年代のソウルやファンクが、ダフト・パンクファットボーイ・スリムにサンプリングされ使われていることをしり興奮を覚えた。敬愛する電気グルーヴの唯一のオリコンチャート曲シャングリ・ラもBebu Silvetti の「Spring Rain」が元ネタという事を知り、ますますフリーソウルやモンド系などといった音楽を聞くようになるが、インターネッツもままならない時代。あにぃタワーレコードに言っては視聴しながら当たり外れを繰り返し購入していた。毎月1万円位をCD代で使うが3,4枚ずつなので、タワーレコードに行くと一日をかけて吟味しながら購入した。

そして、あにぃと共にバイトもしながら遊びながら学びながら。


初めての東京へ m−floも見に行く。

あにぃから教えられたMonday満ちるのユニットViva Unityの「Satarday Night」やPort of Notes「(You are) more than paradise」といった何かかしら東京というイメージをさせてくれる音楽とともに、「一度東京で暮らしたほうがいい」そう言われ、東京の専門学校を目指すこととなる。

そんなおり、m-floのPlanet Shningのリリースライブが東京であるので行かないか?と誘われた。「Chronopsychology」はとてもかっこよく即決でついていくと答えた。このあとcome againで爆発的な人気を得るが、その前に東京までわざわざライブを見に行けたとい事で、未だにご贔屓に応援してしまう。

初めての東京は夜行バスで向かい、原宿でサンドイッチを食べパルコであったKawsのExhibitionを見に行き、zeppでのライブを見に行った。

このあたりで小西康陽、須永辰緒といった裏渋谷系の「Technopolis」や「ルパン三世のテーマ」なんかを聞いたりストリートカルチャーの藤原ヒロシやNIGOといった人たちの感性や世界観もかっこよく感じた。80年代後半から90年代の東京のカルチャーシーンを作っていったツバキハウスとかを知りますます東京という場所に興味とあこがれを持った。関西から東京にいくと当時はなにか裏切り者という烙印があったが、そう思ったのだ。

最後の追い込み新聞配達

2001年の夏を少し前に、お金が溜まっていなかった。そこであにぃもお金がいりようで新聞配達しないか?と誘われた。20歳そこそこの私でも30万給料をくれるのだ。これもすぐにいった。

朝夕の新聞配達に、新聞広告の入れ込み、たまにに営業マンの案内など。新聞屋には訳ありな人たちがたくさんいて、もと犯罪者の人と働いたりお化けのようなものを見たりと色々な面白さはあった。配達中は音楽を聞きながらまわった。この時chapieなんかを良く聞いていた。

正月の三が日も地元の級友たちの集まりの中、私は新聞があるのでということで12時前には退散し、雨降るなか新聞を配った。友人たちは大変だなぁと車で送ってくれ何やら同情めいた視線をくれたが、私はやりたいことのステップだと思っていたので、恥ずかしさより誇らしさを感じていた。

なんとか、2月までに150万のお金をつくることができた。入学金と家を借りるお金がたまり願書と100万円を学校に送った。出発のギリギリ実家がお金がなく、東京のしばらくの生活費分の20万を貸して、東京へ旅立つ。

夜行バスで揺られ、別れた彼女のことなんかを思い出して、車窓からの景色が滲んでいきながらゆっくりと眠りにおちた。










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