見出し画像

弾けないギターを語ろう

たとえば、好きなバンドからギタリストが脱退したとき。

ツイッターで突然知らされる「大切なお知らせ」には、脱退するギタリストや他のメンバーが手書きで書いたメッセージが表示されている。ずっと応援してきたギタリストだからこそ、脱退するときもファンとして、これまでの活動に感謝の気持ちを表したいあなたは、そのツイートを引用RTし、自分の思いをそのギタリストに伝えようとするだろう。

しかしこの時、「リプライ」ではなく、「引用RT」を選んだあなたの行動は単にギタリストへの思いを伝えたいだけでなく、同時にこんな気持ちも反映している。

「他のファンとは違うところを見せたい」

「私が、あなたを一番理解していると見せつけたい」

「音楽にくわしい私を演出したい!!」

その気持ちは間違ってない。そういう「背伸び競争」も音楽好きの楽しみのひとつだ。あなたは自分のボキャブラリーを総動員して、自分の愛したギタリストがいかにすばらしい奏者だったかを表現しながら、かつ「耳の肥えた私」を演出するという難題に取りかかる。

しかしここで問題が生じる。ギターを弾いたことがなく、ギターに詳しくないあなたが精いっぱいして背伸びした結果でてくる言葉は、たいていこのようなものだ。

「〇〇にしか弾けないギターだった」「〇〇こそ、このバンドに最も合ったギターを弾いてくれた」「〇〇のギターが紡ぐこのバンドの世界観が」……云々。

そのたびに、僕は思う。

「〇〇にしか弾けないギター……そうか?」

確かに世の中には、この人しか弾けないだろうというギターを弾く人はいっぱいいるし、ギターに限らず楽器というのは弾く人によって、その演奏は千差万別だ。だけど、はっきり言ってそんなもんは、ある程度ギターを弾いてきた人間であったとしても聞き分けられないもんだ。堂々と「〇〇にしか弾けないギター」を評価できるはずがないのだ。

こんな風景を繰り返し見ていくうちに、僕はこう思うようになった。

「みんな、ギタリストのほめ方ってもっと自由だよ!」

ギタリストをほめたいからといって、「〇〇にしか出せない音」なんて大上段に振りかぶった表現はしなくていいはずだ。それはとても大事なことだけど、すっごく微妙なところで、誰にも彼にも分かるものじゃない。その言葉は、本当に「〇〇の音」が分かるようになったときに取っておいていいんじゃないのか。

それよりも、もっと素直に、例えばこうほめてやればいいのだ。

「〇〇はギターが似合ってた!」

「あのバンドのなかに〇〇がいると、ルックス的にバランスがよかった!!」

そう。ギターをほめるってことは、音とかテクニックをほめるだけのことじゃない。ルックスをほめるのだって立派な「ギタリストの評価」だし、はっきり言ってこれを言われるのがギタリスト的には一番うれしいのだ。

かつてCharは、BOΦWYでギターをひく若かりし頃の布袋寅泰をはじめてみたとき、こう思ったという。

「久々にギターが様になってるやつが現れたな」

これだ。これこそがギタリストに対する最大の賛辞なんだ。

そして、こういうやり方なら、たとえギターが弾けない人でも、ギターの話をすることができるはずなんだ。ギターに詳しくなくても、耳が肥えてなくても、いろんなやり方で、ギターの話はできるはずだ。

僕がこれからかく記事は、そういう「自由にギターを語る」ための様々な観点をみなさんに紹介するための記事だ。この記事を読んで、好きなギタリストの好きなところを、自由に語り合う、そんな輪が広がってくれれば、こんなにうれしいことはない。

電気グルーヴは「弾けないギターを弾くんだぜ」と言った。弾けないものを弾く、という矛盾を乗り越えるのはかなりハードな作業だけど、「語る」くらいならできるんじゃないだろうか。

みんな、弾けないギターを語ろうぜ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?