非知性的な夢想の対象がファンタジー世界であること

ダルコ・スーヴィン『SFの変容』において、文芸作品は四象限に分類された。分類の軸は「自然主義的/異化的」と「認識的/非認識的」となる。

自然主義的とは、すなわちこの現実を舞台としていることだ。対して異化的は現実外世界を意味する。認識的とは確固とした学問体系に基づき新たな知見を獲得できるものを指し、非認識的は習得から遠ざかるものであろう。この図式に当てはめると、現実において新たな知見を得られるものは文学作品であり、現実外世界において認識を新たにできるものがSFだと言える。SFは科学知識に基づくものであり、不可思議な世界が科学的に説明される。もちろんこの区分は大枠のイメージに関連しており、すべてが当てはまるわけではない。

このように整理すると、自然主義的な現実世界からの夢想がファンタジー世界であることの理由が見えてくる。現実世界とは異なる世界であり、かつその世界の構成に科学的な根拠が必要とされない、極めて自由な夢想だ。現在のジャンル化されたファンタジーには「お約束」があるが、物理学や生物学の基礎を学ぶよりは簡単に世界観を理解できる。

以上はあくまでもジャンルの「ガワ」についての整理であり、作品の質に関する話ではない。非認識的でありながら、現実を舞台に繰り広げられる興味深いフィクションは存在するし、ファンタジー作品の傑作も枚挙に暇がない。ただ我々はファンタジー世界を夢想することに関してはさほどの制約がないことをあらかじめ理解しておいた方がよい。自分に都合のよい仮想世界の空想は、自由な創作が可能なファンタジー世界と相性が良い。理由は身も蓋もないのだ。

科学的根拠がなく成立する現実外世界に厳密な物理学や生物学を反映させるとどうなるか。僕らはそのおかしさを90年代後期に流行った『空想科学読本』で学んでいる。ゴジラが本当にいたら地中に埋もれ、スペシウム光線を撃つにはどら焼きのような体系になるしかなく、ガマクジラが泳ぐとアジアが壊滅する——この思考実験はスーヴィンの四象限の確かさを教えてくれる。

ファンタジー世界を現実に置き直すことで生じるおかしみ——ある種のデマゴーグの問題は、異化的・非認識的な物語を自然主義的世界に置き直すことで生じる。本人が認識的だと思っていることが非認識的なフィクションに過ぎず、しかし本人は自身が四象限のどこにいるか理解できず、空想科学を科学として信じている。空想科学の正義のヒーローは、現実世界においては世界の破滅をもたらす存在かもしれないのである。

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