サードプレイスに日常を接続させる

昨日は僕も運営に関わっているプロジェクト「フランス語大学」のミーティングで夜遅くまで話していた。これはフランス語学習をテーマにしたオンラインコミュニティであり、学校でも家庭でもない第三の場「サードプレイス」としてネット上に拠点を作ることを目的としている。

この企画自体はオープンにするものでもなく、授業を通じて細々と学生に宣伝し、気に入ってくれた人が繰り返しやってくるような空間である。サードプレイスは家(第一)、職場(第二)に続く第三の場所であり、インフォーマルでいて「とびきり居心地よい場所」である公共の集い場を意味する(レイ・オルデンバーグ『サードプレイス』(みすず書房、2013)。非常にざっくりとしたイメージだが、カフェや図書館といった落ち着ける場所がサードプレイスに相当するだろう。

ところで授業始めとなる昨日は、講義で遠藤周作のキリスト教的主題を扱った。周知の通り、遠藤周作の初期作品(『白い人・黄色い人』『海と毒薬』など)においては唯一神を信仰しない日本人の精神性が大きな問題となる。しかし日本人にとってキリスト教は到達できないものではなく、『沈黙』においてキリスト教が許しのイメージと繋がったように、日本の土着の文化と融合し、その土地独自の形に変質するのである。まさに文化触変の典型的な事例と言ってよい。

しかし少なくとも初期作品で遠藤が指摘したキリスト教の父性的側面、すなわち厳しく罰する神と対峙するイメージを理解するのは難しい。少なくとも僕自身は神に罰せられることが行動制限の理由とならない。その際に自分が気にするのは、網の目のように絡め取る人間関係だ。人にどう思われるか。自分のステークホルダーがどのような苦境に陥るか、そういった危惧により僕は極端な行動を自制している。

人間の活動は交流が基礎となる。サードプレイスの心地よさは、多くの場合において「落ち着ける人間関係を築くことができるか」という議論へ接続される。では他方で、厳しく罰する神のイメージを持てない僕らが、そのような人間の網の目を喪失したら、何が僕らの歯止めとなるのだろうか。そのようなコミュニティなき人間の孤独は、昨今様々なところで陰惨な事件に発展する。

たとえば「ほぼ日」で糸井重里がゆったりとした生活の楽しみを提示するように、あるいは「エンタメ研究所」で西野亮廣がオンラインサロンメンバー同士の繋がりを推奨するように、僕らはコミュニティと日常を接続して世界を生きる。他方でサードプレイスが提供する他者との日常からも遠ざかり、信仰を持てず、あらゆるものから隔絶された孤独な魂が現代社会を浮遊する。日常からもこぼれ落ちてしまう空虚な存在をつなぎ止めるものは何であるのか——その問いに対し、「フランス語」という学習目標を冠する本プロジェクトがどのような答えを提示できるのか。そこにこそコミュニケーションツールとしての言語を学ぶ意義が潜んでいるのかもしれない。

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