他者の物語と接続し、切り離す
息子の友達が遊びに来て、次男も混ざり、子供の自由さでそれぞれが好き放題やり出す。このカオスの中で凪良ゆう『汝、星のごとく』を読了した。
瀬戸内の島で暮らす高校生の男女が、それぞれ問題を抱えた親に翻弄される。主人公・櫂は母子家庭で、母親は男性への依存度が高く、新しい恋人ができるたびに櫂を振り回す。ヒロイン・暁海は父親が家を出て浮気相手のところで暮らし始め、残された母親は精神に病を抱える。この二人の家庭は島の人々の噂となり、物語は「島への埋没」と「島からの脱却」を両輪とするように展開していく。
先日批評した村上春樹の主人公は、高校時代の恋を忘れられず、40代で精神が作り上げた異世界に迷い込む。主人公は現実と異世界を往還しながら、個人的な課題の解決へと向かって進む。数人の個性的な登場人物が登場し、主人公との関係が構築されるものの、彼らの存在は主人公の選択に大きな影響を与えない。他方で凪良の物語は、親=他者、あるいは恋人=他者の思惑を背負うために、主人公は決して自由ではあり得ない。作中には暁海の父親を奪う瞳子、そして二人の人生の周辺を回りながらも決定的な関わりを持つに至る北原先生が、「自分の物語」を生き抜くカウンターパートを担う。その一方で若い主人公たちは他者の物語に従属する。島の共同体に埋没し、あるいは都会で自分の作り出したしがらみに囚われながら、二人の主人公は容易ならざる人生を送っていく。
デタッチメントを極め、地方都市の図書館に閉じこもり、精神世界を往還する村上型主人公は、「何も持たざる存在」ではあるが、それは同時に「何の負債もない存在」と言い換えられる。自分の責任ではあり得ない負債を引き受けるか、あるいは負債を脱するか−−凪良の主人公が直面するのは、他者関係の編み目が生み出した不条理の中での選択だ。現実の静かな生活の中で、高校時代の恋人に囚われる中年の「青春」は、どこまでも本人にとっての物語である。他方の凪良の世界において、若い主人公は不本意にも他者(=親)の依存によって生殺与奪の権利を与えられる。かくしてヤングケアラーは、自らの物語と他者の物語のあいだで引き裂かれ、自由な選択を妨げられるのだ。
この重苦しい物語を読む中で、僕の周囲では子供たちが部屋を駆け回る。日常的な読書体験ひとつとっても、他者=子供の物語が僕に接続され、自由な時間は妨げられる。子供を顧みず、個の世界を浮遊する−−凪良作品ではそのような親たちが主人公の苦痛の要因となる。現実世界から消失し、高校時代の恋人がそのままの姿で暮らす壁に囲まれた街で、図書館に閉じこもる−−そのような村上的世界観が、凪良作品の現実の中で徹底的に異化される。他者の物語との「接続」は、「切り離し」と一体を成す。現実を生きる僕らは他者の思惑の中への「埋没」と、他者の世界からの「脱却」を両輪とするかのように進んでいく。凪良の描く若者と現実の我々の差異はごくわずかなものだ。
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