母性的なるものを巡って

遠藤周作は『沈黙』で日本におけるキリスト教の変質を描いており、文化触変を考える上で極めてわかりやすい。いわく、父なる神の厳しさが日本の精神的土壌に根付くことは難しく、許してくれる「母」のイメージが浸透する。そのイメージは聖母マリアが観音と融合する文化(マリア観音)によって推察することが可能だ。この例の妥当性はともかくとして、日本における母の表象は興味深い。

アニメや漫画などの現代的メディアに目を向けると、登場人物の過去探究は母を巡るものであることが多い。エヴァンゲリオンなどもその類いかもしれない(あの作品はむしろ父ゲンドウによる妻の母性の渇望が少々気味悪いが)。幼少期の母との確執や負の感情が現在の主人公の闇に深く関わっており、精神世界における母との和解によって殻を打ち破るような物語は数多く見られる。そして大半の作品において、母の表象はとても美しい。とても若々しく美しいキャラクターが多いのだ。

行き詰まり、他者とのコミュニケーション不全を起こし、世界に受け入れられない主人公にとって、記憶の中の母は美しく、精神的なねじれの原因となっており、母との和解が物語を漸進させる。まるで殺伐とした現状を改善する都合の良い愛を求めるかのように、作品では優しく美しい母が繰り返し描かれては、主人公の過去を読み替え、リアルタイムの主人公は涙を流す。

僕はここに物語の力を垣間見る。自分の物語を「都合良く」ねじ曲げられる。自分を現状へといざなう失敗の物語は、許しを受けて「母=都合のよい他者」に理解してもらう物語に塗り替えられる。しかし元々の自己の物語も、新たに生まれる物語も、すべてある一点の視点から人為的に作成されたフィクションだ。

個人が寄って立つ物語を否定することはできない。だが同時に余りにも多く算出される「記憶の中の母の許しの物語」に警戒する必要がある。僕らの存在は過去の許しを必要とするのだろうか。現在自分が立つ地点と、周囲の人とのコミュニティが紡ぐ物語に、あえて過去を繋ぐ必要はあるのだろうか。解釈で塗り固めた過去はフィクションである事実を僕らは忘れてはいけない。

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