仮に人の繋がりが途絶えたとして

昨日の遠藤周作論から相変わらず人間の繋がりが欠落することについて考えている。

dアニメステーションで少し前に流行した『リゼロ』という作品を見た。

ラノベ黎明期(それがラノベと呼ばれる未来すら知らなかったが)の思春期を生きた僕らは、水野良や中村うさぎの小説を読みながら、ファンタジー世界に思いを馳せた。そういえばファンタジーを夢想する自分は、何もステイタスを持たない中学生であった。時を経て、現在はファンタジー世界へと転生する物語が流行している。そしてその転生する主人公たちは、思春期の自分と同じように何も持たないものであることが多い。

現代社会で他者との繋がりを喪失した人間が、ファンタジー的な異世界で新たな関係を紡ぎ直す。言い換えれば異世界に飛ぶことのない我々は、他者との繋がりを喪失したまま生きることを余儀なくされる。遠藤が憂うように、そこに信仰という規範を強く持たなければ、自己の世界に淫するように社会的規範から逸脱することもあり得るだろう。

『リゼロ』の主人公は資本主義の産物であるコンビニでの帰り道に異世界へ転生する。コンビニの店員は主人公にとって代替可能なものであり、違う店員であっても店内の交流は成立する。僕らが今日買い物した店のレジの店員を思い出せないように。他方でファンタジー世界で最初に出会う果物屋の店員は、主人公の存在に関心を持ち、無一文の主人公を邪険にしながらも言葉を交わし、会話に応じている。現実世界とファンタジー世界は、代替可能性と代替不可能性によって区別されるのだ。

リアルな社会を生きることを余儀なくされる僕らは、希薄な関係性の中で人間に依存し、その関係性の喪失に怯える。だが人との交流と直接関係のないところに、自らを支えるものは存在し亡いのだろうか。僕は文化が「生きるための工夫」である以上、個々人が寄りかからざるをえない文化が存在すると思っている。それは各人に与えられた「不変の与件」であり、自らが体内化する文化システムのコアとなるものだ。「不変の与件」によりかかり、我々は何かを判断し、行動する。むろんそれは時として人間の発想を呪縛し、自由な精神の飛躍を妨げるものだ。それにより僕らは自らを安定させ、社会規範からの逸脱を免れている。

仮に、あくまでも仮に僕らがファンタジー世界へ転生したとして、果たしてラノベの主人公のようにファンタジー世界の文化システムにすんなりと順応できるのだろうか。僕はそこにはかなり懐疑的だ。フィクションにおいて僕らは自らの依存する「不変の与件」と合致しつつ、なお自分に都合のよい文化を想像し、それをファンタジー世界に投影しているのかもしれない。とすれば人間関係を喪失し、救いのない現代社会こそ、自らを安定させる文化システムによって構築されているものだ。他者からの疎外を実感する空虚な個人は、異世界を夢想する前に、その異世界が内包する文化システムと現実社会の同質性を理解し、目の前の世界と自らの関係を紡ぎ直すことが必要なのかもしれない。

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