いろいろなものが始まる
昨日は研究仲間と今年の科研費の応募について打ち合わせをした。毎年この季節に研究計画をまとめ、文科省からの研究費の獲得を目指すのが研究者の風物詩なのだ。「科研」はそのうち季語になる。新しい研究計画を考え、友人たちに声をかけてZOOMで僕が今考えていることを共有した。
夜はママ友たちと「卒園文集会議」をした。気を抜くと、あっという間に三月になり、息子が卒園してしまう。一応、卒園文集のまとめ役なので、いろいろと計画を具体化させていく。
今日はRPK(関西フランス語教育研究会)の2021年度大会の運営会議だった。去年事務局長を務めたが、COVID-19のせいで大会が中止になった(COVID-19には恨みがあるので、コロナなんてかわいい名前で呼びたくはない)。会議の結果、今年も事務局長を務めさせていただくことになった。この状況下の大会ゆえ、いろいろ考えねばならないだろう。
いろんなところでリーダーをやらせてもらう機会が増えた。そして僕も他の人たちと同様に「自分がリーダーでいいのか」といつも思っている。しかも僕には「田舎者で劣等生の問題児」という圧倒的な「言い訳に使える過去の属性」がある。
人が「私には無理です」と言う程度には「無理」と感じているし、「そんな力はないです」と言う程度には力不足を感じている。自分に「人望がある」と感じている人はそうそういないだろうし、僕も人望のなさを実感している。ある意味で「自分ほど実力がなく、人望がなく、リーダーに相応しくない人間はいない」程度のことは考えているが、おそらく他のみんなも同じようなことを考えているだろう。その意味で、みんなと同じ程度にリーダー役は不向きと考えている。
とはいえ。
僕が他のリーダーを見て、その人が「自分にはリーダーは不向きだ」と思っていたとして、「はい、あなたには不向きですね」とは思わないだろう。
誰だってリーダーに不向きだ。そして「すべての人はリーダーに不向きだ」という命題は、リーダーが存在しないことを指し示す。リーダー不在の中にあって、それでもリーダーはいなければいけない。とすれば「すべての人はリーダーに不向きだ」という命題は、その命題自体を否定する。誰もリーダーに相応しくないのであれば、誰がリーダーになってもいいということだ。たまたま誰かがリーダーを務め、たまたま僕が任される。「リーダーに向いていない」と言いながら、それでもリーダーとしてどうにかこうにか振る舞っていく。実力も、人望も、統率力も欠きながら、同じようにいろいろな資質を欠いていると思っている人たちの前に立つ。資質なき人間と資質なき人間が前に行ったり後ろに退いたり怒って飛び出たりしながら、チームを前に進めていく。リーダー「に」すべての責任を持たせることも、リーダー「が」すべての責任を持たせることも、どちらも不正解だ。僕は少なくともそんな意識で前に立つ。
真ん中で赤いコスチュームを着ればリーダーっぽくなるかな?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?