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スポーツから普遍性を考える

自分にはいくつか「幸運」があると思っていますが、その一つが近畿大学法学部のスポーツ推薦生を対象とした基礎ゼミを担当していることです。フランス語、文学、文化論を担当している人は数多いですが、「スポーツ基礎ゼミ」にはあまり縁がないでしょう。僕には「前任者がたまたまスポーツ基礎ゼミの担当だった」という幸運がありました。「運」です。

スポーツ基礎ゼミの担当は、純然たる「運」であり、自分がスポーツをしていたわけではありません。むしろスポーツには極度に苦手意識を感じており、絶対にスポーツをやらないと決意していたほどです(そのような屈折を抱えた理由は本題ではないので省きます)。

基礎ゼミを通じてスポーツ生が与えてくれる驚きの数々はここで紹介しきれるものではありません。その中でもっとも大きかったのは「学び」の捉え直しです。一級の学生アスリートである彼らにとって、講義室での時間は時として副次的なものになります。むろん勉強を大切にするスポーツ生も多いですが、どちらかと言えばスポーツが彼らの日々のメインとなっています。そして学生たちはスポーツを主に置きつつ、基礎ゼミで勉強をすることにより、両者を興味深く一体化させていきます。試合のようにリーダーシップを発揮し、役どころを押さえ、プレイを応用するように課題に向かうことで、レポートやプレゼンは一般の学生とは異なる独特な「凄み」を抱えるのです。

この姿を見たときに、自分にとっての学び(研究、勉強)の捉え直しが始まりました。自分という人間の日々のメインである「勉強」の裏側で何かを始め、それを勉強に還元してみよう、と思い立ったのです。僕にとってそれは「ランニング」でした。スポーツ生の背中を見て、40近くでランニングを始めたことになります。

1分走るだけで限界を感じたランニングは、継続しているうちに5㎞ほどに距離を延ばせるようになりました。これでスポーツへの苦手意識が払拭され、ジムでトレーニングを始めるようになり、トレーナーさんに誘われるままにヨガを始める……といった感じです。

スポーツ生と僕の大きな違いは、当然ながらスポーツを副次的なものとしている点です。僕はアスリートではないので、試合に出たり、大会にエントリーしたり、といったことはしません。日々にスポーツの断片を入れ、それを勉強に還元する……というイメージです。ランニングやスポーツをする研究者は少なくないので、「行為」を見ると別に珍しいことではありません。ただ、僕の前にはスポーツ生というモデルがあります。スポーツ生が講義からメインのスポーツへと気づきを展開させるように、自分も日常化したスポーツから勉強へと気づきを接続させることが可能です。

キーとなるのはスポーツによって意識せざるを得ない「身体」だと考えています。僕の研究課題は「国際文化学」であり、異なる文化と文化の接触や変容(文化触変)が関心の対象です。文化と文化の「差異」の中から、共通する普遍的なもの(普遍文化的特性)の抽出を試みているのですが、この考察の中で「身体」というキーワードが重要となります。いくぶん一般的な着想かもしれませんが、身体感覚というのは人間同士で大きく異なるものではありません。千年前の異文化圏の芸術作品を見て身体の内部が躍動するような感動を得ることもしばしばですが、この背景には身体が共通の基盤として存在している事実があるでしょう。

ヨガに取り組んでいると、トレーナーさんが「チャクラ」に言及することがあるのですが、それはオカルトのように聞こえつつ、そのチャクラを通じた心地よさに納得するケースもあるのです。神秘主義に肩入れするつもりはないのですが、ヨガも身体を舞台とする現象だと考えれば、人が感じる奇跡性・神秘性には何らかの共通点があるのかもしれません。

現在、文学作品を研究対象としながら、普遍文化的特性の抽出を一つずつ試みています。その困難な実践の傍らに「スポーツ」が存在しています。身体の爽快感と快楽を他者と共有し、スポーツを日々の習慣として楽しみつつ、それをヒントに文学作品を読み解いていきます。

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