令和の時代の絶望を考える

昨日の記事が妙にリアクションを集めた。

骨子は「なろう系」が描く異世界転生は現代の能力主義と関わっているのではないか……という内容だが、考えるほどに暗澹たる気持ちになってくる。

今日は現代文化まっただ中の学生とも意見交換をしたのだが、異世界転生と親和性の強い要素は美人の女性キャラクターらしく、確かにどのような作品を見てみても主人公と美女は切り離せない(まあこのジャンルに限った話ではないが)。現在の「持たざるもの」が異世界において夢想するのが、現状と異なる能力主義社会における成功であり、美女の獲得であることが暗に示されている。このような欲望が実現不可能なものとして喚起されるゆえに、フィクションの世界の基本的な表象として機能している。

「なろう系」異世界転生はファンタジーではなく、倒錯したリアリズムなのではないか。

ネオリベ(新自由主義)において「コスパ」なる概念が浸透した。より低コストで高いリターンを欲しがる発想は、テクノロジーを発展させ、現在において商品が均質な消費社会が到来した。他方でこれは「規格外」による排除を前提とする。この比喩を人間に投影するならば、能力により役に立つ人間と役に立たない人間が振り分けられ、性愛は利益に紐付けられることを意味する。そういえばSNSは「使えない夫」への呪詛で溢れている。自己存在が能力に紐付けられる構造を歪とすら感じず、能力獲得が社会で生きることの条件と見做される風習は、ここに書くほど奇異なことではない。そもそも我々の書くシラバスも「この講義を受けた学生はどのような能力を獲得するか」との目的に紐付けて書かれるのだ。そのようなシラバスをチェックするのは教務委員の僕の役割であり、能力主義批判は自分の仕事の否定に繋がる。

このような尺度が当たり前となり、ことさらに違和感を覚えずにそれなりの社会的安定で日々を生きることは「幸福」ではあるが、他方でこの価値観は角度を変えると「絶望」にも繋がっている。

令和の時代、そして我々の転生先の異世界は、ともに能力主義という同じ尺度で繋がっている。ここには住んでいる人種の差があるだけで、文化の特性は繋がっている。ファンタジー世界の読書が表面的な空想性を身にまとう同一文化圏であるという矛盾が我々に突きつけられている。

そのような中で我々が読むべき異質な文化の物語はどこにあるのだろうか。そういえば「なろう系」の背後には、高い能力を身につけた人間たちが(疑似)家族を構成する物語が存在している。それらの作品は能力があるゆえに家族を構成するのか、それとも疑似家族が表象するものは能力主義のアンチテーゼなのだろうか。キャラクター各人が諜報能力や超能力などの高い能力を抱え、あるいは非凡なミステリの知識を実の家族を守るために発揮する物語は、家族コミュニティがネオリベ的発想に抗うものか否かを図る試金石なのではないだろうか。経済力、容姿、家事スキルを持たざる夫への怨嗟が吹き荒れるのは、家族すらも能力主義によって構成されるとみなす絶望だ。

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