「なろう系」と能力主義の関係

論文の暇つぶしに、今さら「なろう系」について考えている。

「なろう系」の起源はさておき、ジャンルとしての「なろう系」は異世界転生がメインだ。実生活で疎外された主人公がファンタジー世界に転生するパターンをベースとして、様々な作品が生み出された。このパターンにおける主人公の「現実世界」における属性については以前も少し触れた。つまるところ「何の能力も持たず、社会で居場所を喪失している」のだ。

他方でファンタジー世界はRPGに代表されるように、現実以上に能力主義である。キャラクターは属性によって基本的な能力が決まっている。主人公は当然ながらファンタジー界で必要とされるような剣術や魔術は持たない、あえて言えばファイナルファンタジーの「すっぴん」であるが、だいたい「転生によって能力を獲得する」「現実世界で軽んじられていた能力が役立つ」「やはり役立たずに邪険にされる(が、能力がないことが意外な展開を生み、状況を打開する)といったパターンに落ち着く。つまり「能力主義」に敗北した人間が、新たなフィールドで能力を認められる(あるいは認められない)のが「お約束」なのだ。

論文を書きながら見たせいか、かなり思い悩んでしまった。大学教員が論文を書く理由は、研究を追求するためである一方で、能力主義により論文執筆をこなせる人間が評価されるから定期的に執筆せねばならないという事情がある。おそらく我々現在の教員は、数十年前の教員よりも夥しい業績を持っているが、それは能力主義と関係する。言い換えればその闘争に敗れた人は研究ポストに就くこともできない。いわば「なろう系」の主人公と同様である。

2010年代後半から隆盛する「なろう系」は、社会のネオリベ的冷徹さと無関係ではない。現世で能力を持たざる人間にとって、別の尺度が存在する異世界に転生することの意義は決して小さくはないだろう。

能力を(少なくとも自己評価として)持たざるものが異世界を夢想する——作品の出来、不出来はさておき、その発想に居心地の悪さを感じるのは僕だけであろうか。「なろう系」に傑作も存在するし、プロットが秀逸であるものも少なくない。だが持たざるものの転生が一つのパターンになることに、能力主義の根深さを実感してしまう。「何かをできる」という裏で、「何かができない」ことが生む価値に僕らは気づいている。「何かをする」ということ(たとえばnoteを毎日書くといったことを含め)が意味を持つならば、逆説的ではあるが「何かをしない」行動も存在する。むろん「なろう系」の作品においては能力が低い人間も登場するが、都合良く美女が救いの手を差し伸べる。あたかもそれが能力のない(とされる)人間を補償する行為であるかのように。

「できる」「できない」の発想に呪縛され、持たざると思い込みながら異世界を夢想する虚無は誰が作ったものなのか。その虚無は本当に絶対的なものなのか——そんなことを考えながら論文を書き上げ、「できる」に浸り酩酊する自分がいる。

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