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ゴミ処理の歴史(ではない)

東京蚤の市に行く。なぜ蚤の市場という言葉になったのか気になって調べてみると、ノミがわくような古物を売るところから来ていて、19世紀末ごろからそう呼ばれているらしい。ひぇーっ! ノミがわくような古物! 確かにノミとまではいかずともちょっと古過ぎるものや服も売っていた。だけどそれを蚤の市場と名付けた人ちょっと辛辣すぎない? そして「蚤の市」というフレーズがおしゃれ言葉になってる現代。売っているもの、使うものはこうやって受け継がれていくけど、言葉とか解釈は時代によって大きく変わるんだな。

ノミと言えば今日ずっと目が痒かった。ノミは関係ないか。なぜか地味に続いている花粉症のせい。つらいなあ。

やっぱり楽しかったのは本の交換。ラッピングをしてコメントを書いた本を1冊置いて、他の人がラッピングした本をもらう。なんだけど、自宅から本を持ってくるのを忘れてしまったので、もるちゃんの家にあった中村文則の本でコメント書いて置いてきた。いやーよくない。よくないよ。でももるちゃんの感想を援用して書いたから、純度80%くらいの嘘なのでまだセーフ。ハハハ。こりゃあ東京蚤の市のハッシュタグつけられないや。

交換で手に取った本は、まるで大学の宗教概論の講義とかで教科書になるような解説本。おいおい30歳を前にまた一般教養(ぱんきょう)かよ。しかし大学の講義はなんだかんだぱんきょう系のやつが好きだったから、それなりに楽しく読めそうではある。ただ、コメントを書いてあった人の理論では、理解できない他人のことを宗教的考え方で理解しようとするのもいいんじゃない? って感じだったけど、それは面白い提案に見えて問題があると思う。だって宗教問題なんて千年以上かけて悪化しかしてないんだから。とりあえず一緒に下北で飲もうか。

最近物忘れが多い気がする。物忘れというか、記憶が飛んでる。いや辛辣な感じに捉えないでほしいのだが、ぼーっと過ごしている時間などは本当に一瞬で忘れてしまう。そういえば編集の仕事を始めたとき、情報量が多すぎて毎日頭にゴミが溜まってるような感覚だった。最近はそんなことなかったから処理できるようになったのだと思ってたけど、これは単に麻痺してるだけ説が出てきた。転職の時、キラキラ編集者のキラキラ1週間紹介で土日はヨガでデトックス! って書いてあって、そんなわけねえだろと思ってたけど、本当に脳のゴミ処理は切実な問題なのかもしれない。でもゴミの中に企画の種や秀逸なフレーズが混ざってるような気はしていて、ゴミの日にまとめてポイができないのが弱小編集者の苦しみなのかもしれない。いやそんなポエムっぽいことはいいからさっさと企画を考えなさい。

さて、消えてしまう記憶問題。どれだけいい企画が思い浮かんでも、素敵なことがあっても、忘れてしまうことからは逃れられない。それを対処するのがこうした日記をはじめとした何かのモノの形にすることだ。記憶→記録ということ。世の中のコンテンツはすべからく誰かの記憶の結晶ともいえる。そう考えれば、コンテンツ=記録物の素晴らしさはその作家の感性=記憶に依るわけだ。日記について考えてみれば、これは超個人的なものであるため、個人の記憶=記録となる。これは直感的に正しそう。じゃあ雑誌の場合はどうか。何十人という書き手の記憶=記録がまとめられている記録物。これは誰の記憶を表しているのだろうか? そこに編集者の記憶はどれだけ混ざっているのだろうか? 編集していて、たまに自分も直接的な表現をしたくなる瞬間はある。でもそれと同時に、自分の記憶を混ぜ混ぜしている瞬間を楽しんでいることにも最近気づいた。

「歴史」の厳密な定義はきっと文字で記録された範囲の人類の営みのこと。文字にされなかった人々の記憶は記録されず、受け継がれることはない。でも、美味いラーメンは記憶に残るし、本当に感動したラーメンの味は人類の遺伝子の余白に幸せな記憶として刻まれるのだろう。

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