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望んでいる結果へ踏み出したい

いつもそう考えて行動しているわけじゃないけれど、最近いろんな人が望んでいる結末、結果に注目している。

人って自分も含めて誰しも、望んでいる結果へ向かって行動するし言動する。
望んでいる結果っていうのは、別に普段から明確に意識しているわけじゃないけれど、あやふやなようでいて、やっぱり存在している。

自分をまるで王侯貴族のように扱ってほしい人は、もしかしたら他人に対して横柄な態度で挑む。かもしれない。
表現方法は人それぞれであるけれど、その先にはぼんやりとした「望んでいる結果」がある。

この行動様式はプラトンのイデア論で説明できる。
プラトンのイデア論は「イデア」という理想の形を現象界=現実は影のように表しているという考え。

望んでいる結果=イデア
行動・言動=イデアの現れ(イデアの影)
とすると、少しわかりやすいかもしれない。

たとえば、人生の目標のひとつが甲子園出場だとしよう。
超単純にするとこうなる
甲子園出場=望んでいる結果=イデア
日々の練習=行動=イデアの現れ(イデアの影)

当然、毎日キャチボールだけしていても甲子園出場はできない。
本当にその人の望んでいる結果が「甲子園出場」であるなら、甲子園に出場するための行動をおこす。

たとえば自分の野球の実力、そして学力、自分が住んでいる地域で甲子園出場に一番近い学校の調査・・・などなど調べるだろう。
自分の実力や学力などから、なにが甲子園出場のために必要かを考え実行する。

もし、実行しないなら、その人の望んでいる結果は「甲子園を目指す自分であること」なのかもしれない。
世の中、自分が口にした目標を必ず望んでいるわけではなかったりする。だから、口で目標を唱えた、目標を書き出して見えるところに貼ったとしても、本当にその人が望んでいるのかは別だったりする。

今のところ、ぼくが考えているそれぞれの人間がもっている「望んでいる結果」は単純にひとつだけというわけではなく、いくつかの「望んでいる結果」が組み合わさったものなのではないかと考えている。
その中で優先順位が強いものがより行動に影響を与えるのではないかと思う。

「甲子園出場」と「のんびりしたい」両方とも「望んでいる結果」なら、そのどちらかが優先される。のんびりしたいが優先度が高いとなると、甲子園出場を目指すための行動は少なくなる。
どちらも望んでいる結果であるかもしれないが、のんびりが優先されればされるほど、甲子園出場の可能性は低くなる。

望んでいる結果を実現するには、実現にむけての行動をより多く、より精度をたかくしないといけない。当然、どれだけ多く行動しても、行動の精度を上げても実現しないかもしれない。しかし、行動の精度を上げつつ行動を多くおこさないと、望んでいる結果の実現には近づかない。

これは、確率の問題だとぼくは考えている。。
「望んでいる結果」を実現するには、実現する確率を上げる行動をするかしない。どれだけ確率を上げる行動をしても100%にはならないし、ほとんど確率を上げる行動をしなくてもうまく行くこともある。けれど、次元確率を上げる行動を続けなければ、1回目や2回目はうまくいっても、継続してうまくいくことはそうそうない。

繰り返し繰り返しチャレンジして、失敗と成功から学び続け、いろんな知識や情報と触れれば「望んでいる結果」に近づく確率があがる。
確率を上げるためには、最初に「望んでいる結果」を知り、現在の自分を知り、「望んでいる結果」にたどり着くまでの道のりを測って、進みながら道のりを修正していくことが大事だ。

今、自分が思っている「望んでいる結果」は本当に自分が望んでいることなのだろうか? とぼくは少し考えている。
答えはぼんやりとしている。
勇気を持って、もう一歩踏み出すしかないなあと思っている。

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