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「共同幻想論」を歩くー卑弥呼も遠野も在日も渋谷もみな幻想か

船大工の子、吉本隆明

  試しに「戦後最大の思想家」を検索してみたら、「吉本隆明」の名がずらりと並ぶ。私も大学時代に彼の本を手にしたことがあったが、ご多分にもれず歯が立たなかった。ただ、彼の本を持っているとインテリに思われるのではないかという浅はかな、誠に浅はかな理由からそれをキャンパスにもっていき、読むふりをしていた。巷では吉本ばななが大流行だった平成初期だが、彼女の父が隆明とは知らなかった。さらにいうなら吉本隆明を小脇に抱えたインテリはその20年前に絶滅していたこともしらなかった。

 1924年に東京の漁師町だった月島で生まれ、佃島の小学校に通った吉本隆明。下町育ちで理系、しかも山形県米沢の工業専門学校を卒業し、東京工業大学電気化学科に入学するも、間もなく勤労動員されていた富山県で敗戦を迎えた。戦後は町工場で働き、労組で戦いつつ詩文を書き連ねたたという「たたき上げ」の経歴が特徴である。

左派でありながら、常に「パンの問題」を考えてきた彼は、「一流大学」を出た文系のマルクス主義者にありがちな、イデオロギーを前面に出すインテリを批判したのも、天草出身の船大工の子であるという「階級的アイデンティティ」によるものだろうか。一方「庶民派」と思いきや、彼の本質は詩人であり、庶民とはかけ離れた思索をする。道理で文章が難解なわけだ。

 大学時代に吉本隆明を手に取ったものの、「積ん読」となって四半世紀が過ぎた。三十代後半にさしかかると、私も「古事記」や「遠野物語」等を読みつつ各地を歩くようになると、改めて吉本隆明の「共同幻想論」に出会うようになった。関連書籍を読むにあたって、しばしば吉本隆明の名が引用されたり話題になったりしたからだ。

それもそのはず、彼の代表作で1968年に書かれた「共同幻想論」は、日本人がいかにして国家の起源を想定するようになったかというテーマを、「古事記」や「遠野物語」を読み解きながら追い求めていくものなのだ。

「日本とは何か」を求めて旅してきた私ではあるが、今回は「日本人はどのようにして『日本』という国を想定するようになったか」を求め、大和と鶴橋、遠野、そして渋谷区を歩きながら吉本隆明の「共同幻想論」を考えてみたいと思う。

 

「桜井市出雲」の表示

 桜の咲き誇る季節に奈良に向かった。奈良市から南東に車を走らせると、桜井市である。左前に小高い山が見えてきた。全国各地にある神の降りる山を「神奈備(かんなび)の山」というが、大和の国を代表する神奈備の山が三輪山である。黒い大鳥居が門前にたっている。高さ32m以上のこの大鳥居は熊野本宮大社のものに次いで二番目の高さを誇る。しかしまず参拝はお預けにして、山の南側を大和川に沿って東進する。二車線道路をしばらく行くと歩道橋に書いてある地名に目を見張った。「桜井市出雲」。

 私がこの地に関心を持ったのは、歴史家梅原猛氏の「神々の流竄(るざん)」という本を読んでからだ。執筆当時の1970年以前は出雲から大規模な出土物がほとんどなかったことから、「出雲神話の舞台は大和である」と主張した。

しかしその後、現雲南市の神原(かんばら)神社古墳からは「景初三年」の号が彫られた三角縁神獣鏡が、現出雲市荒神谷遺跡からは358本の銅剣が、現雲南市加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸、そして出雲大社境内から巨大な柱が相次いで発見されると、さすがにこの界隈の「大御所」も前言を撤回せざるを得ず、「葬られた王朝」という著書を世に送った。

 

ヤマタノオロチは「ヤマトノオロチ」か?

 とはいえ三輪山の別名が三諸(みもろ)山だったこと、大神(おおみわ)神社の祭神、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は出雲の大国主命の幸魂(さきみたま)、幸魂(くしみたま)であるということ。ここが酒造発祥の地であり、酒の神を祭る神社でもあること、山全体に杉が生い茂っていること、山頂に磐座があるということなど、出雲、しかも私が生まれ育った現雲南市木次(きすき)町を思わせるものだらけなのはどうしたことか。そして何よりここの地名を無視することはできない。

 「三諸山」といえば、木次町日登(ひのぼり)にある室山の別名も「御室(みむろ)山」である。そして三輪神社の東には神が宿る磐座があるというが、日登の室山にも「釜石」という磐座がある。そしてその釜石はスサノオノミコトが八岐大蛇を退治するために酒を飲ませて酔わせたところを刀で斬りつけたときに酒を醸したところというが、大神神社では祭神の大物主大神を篤く奉った第十代崇神(すじん)天皇が神に捧げるために酒を醸したという。なお「三輪」の枕詞は(美酒(うまさけ))である。

さらにいうならばヤマタノオロチには体中に杉の木が生えていたという記述が「古事記」にあるが、雲南市のオロチの首塚は八本杉という杉が生えている。「ヤマタノオロチ」は「ヤマトノオロチ」だったのではという投げかけは、私には十分すぎるほど興味深い。

 このような三輪山であるから、たとえ「言い出しっぺ」の梅原猛が後に否定したとはいえども、ここが本来の出雲の「本丸」なのか、あるいは出雲から移住者たちがここに移り住んだのか、いずれにせよ気になる。ハンドルを握りしめて細い山道を登り、山頂の磐座を目指したが、表示がない。民家の方々に聞いても分からず、仕切りなおすことにした。

 

三輪山に祭られた出雲の神と「共同幻想」

 本殿はなく、山そのものを神としてあがめる大神神社を参拝しながら、改めて気づいたことがある。ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトは、元祖出雲の神でありながら、三輪山と深い関係はなさそうだということである。そもそもなぜスサノオは高天原から追放され、出雲に降り立ち、オロチ退治をすることになったのか。それは「天つ罪」、すなわち田畑を破壊し、動物の皮を生きたままはぎ、神聖なる場に糞尿をまきちらすという罪を犯したからである。これは農村社会においてあるまじき蛮行であったため、出雲に追放されたという。そしてその子孫たちが祭ったのがこの大神神社ということになる。これについて吉本隆明曰く、

「大和朝廷勢力以外にも、すでに出雲系のような未体制的な土着の勢力がいくつもわが列島に散在することはかれらにも知られていた。それだから大和朝廷勢力はかれらの〈共同幻想〉の担い手の一端を、すでに知られている出雲系のような有力な既存勢力とむすびつける必要があり、それがスサノオの〈天つ罪〉の侵犯とその受刑の挿話となってあらわれたのである。」

 ここでいう「共同幻想」というのは、「国家」そのものが幻想にすぎないというのが前提だが、それは人々がたとえ「個人の幻想」を犠牲にしても求めてしまうものだという。つまりヤマトを中心とした古代王権の配下にも各地方勢力がうごめいていた。その中で最大勢力だった出雲を取り込み、神奈備の山に祭ることによって、少なくとも南日本を除いた西日本を「ヤマト王権」とし、その他の勢力もヤマトに取り込もうとしたということだろう。しかし出雲を単に神聖なものとしておくのではなく、この世に降りてきた「罪びと」として描くことでこの王権の体面をはかった、というのが吉本の見方だ。

 

纏向(まきむく)遺跡と邪馬台国

 大神神社から北に2キロ余り走ると、丘のようなものが目に入ってきた。長さ280mもある箸墓古墳が、ため池にその木々をはやした墳丘の姿を映し出しているのだった。「卑弥呼の墓」と呼ばれるこの前方後円墳のある一帯は纏向遺跡となっており、「魏志倭人伝」に書かれている「邪馬台国の宮殿」候補とされる柱の跡などが発掘されている。

 「纏向遺跡」とカーナビに入力して着いたところは、どうやら宮殿の跡ではないらしい。通りすがりの住民に「纏向遺跡はどこですか?」と聞くと、「ここら辺一帯みんな纏向遺跡です。」とのこと。後で調べると東西2㎞、南北1,5㎞もあるという。車で住宅街と農地をぐるぐる周り、団地のすぐ横にあるお目当ての「辻地区」にたどりついた。広場に1mほどの柱が数十本、二棟分立っている。思わずその十数メートル虚空を見る。卑弥呼なのかなにかは分からないが、3世紀ごろここに建っていたはずの、出雲大社型のものが一棟、伊勢神宮型のものが一棟、私の脳内に「再建」された。

 果たして「魏志倭人伝」のなかの「邪馬台国」とはどこにあったのだろうか、というのは古代史最大にして、おそらく永遠の課題であろう。「ヤマタイ」=「ヤマト」とか、「ヒミコ」=「日の巫女」=天照大神などという、一見「語呂合わせ」に思えるのも興味深いが、吉本は「古事記」を分析しつつもそれらをとことん追求はせず、日本史上最初の人物名となる「卑弥呼」が女性で、巫女であることに着目した。

わたしのかんがえでは〈巫女〉は、共同幻想をじぶんの対なる幻想の対象にできるものを意味している。いいかえれば村落の共同幻想が、巫女にとっては〈性〉的な対象なのだ。巫女にとって〈性〉行為の対象は、共同幻想が凝集された象徴物である。

 

卑弥呼はしずかちゃん?

 これを私流に理解すれば、巫女とは男社会における「マドンナ」である。それは「聖なる」存在でありながら、「性的」な存在でもありえる。それを男社会でだれのものでもない存在として、言い換えれば「聖なる性的存在」を共同で奉ることによって、連帯を形成し、農耕社会における外敵を防ごうとしたと理解する。連れてきた七歳の息子が、「ドラえもん」のコミックをカバンから取り出したので、ふと思った。

 卑弥呼は「ドラえもん」におけるしずかちゃんである。それはしばしばシャワーシーンという「性的」な場面を見られつつも、優しく強く気高い「聖なる」存在である。そして腕力に訴える個人事業主の子、ジャイアンも、経済力を誇示する社長の子、スネ夫も、何もできなくてもドラえもんを有するサラリーマンの子、のび太も、しずかちゃんという「卑弥呼」に憧れはするるが「手を出す」ことははばかられる。

 そして腕力で、財力で、ドラえもんの道具で各々彼女を助けようとする。彼女を中心に様々な階層の人間が行動を一にするのだ。さらにいうなら少女キャラは実質彼女しかいない。卑弥呼は二人いてはならないのだ。そのことを吉村は多少難しい言葉で解説しているのだろう。

 

サホ姫とジャイアン

 纏向遺跡が卑弥呼の王宮であったかいなかとは別に、「古事記」によれば大神神社を創建したという第十代崇神天皇の皇子、第十一代垂仁(すいにん)天皇も纏向に王宮を置いていたともいう。史実であれば卑弥呼の時代以前の1世紀ごろとされる。皇妃のサホ姫が実家に戻った時、実の兄に自分と天皇とではどちらが好きかと問われたサホ姫は兄を選んだ。「近親相姦」というタブーが大陸から儒教を通して入る以前は何とも大らかだったのだろう。

 そして兄の指図で天皇を寝所で殺すように言われ、刀を握ったがどうしても振り下ろせず、夫である天皇に事情を打ち明け、兄のもとに逃げた。天皇は皇妃の兄を撃つべく兵を送ると、姫は胎内にいた天皇の子だけを城外に逃げさせ、兄とともに死を選んだ。それについて吉本はこう解釈する。

「『古事記』のかたる原始的な遺制では、サホ姫にとって〈夫〉の天皇は同族外の存在だが、兄サホ彦は同母の血縁だから、氏族的(前氏族的) 共同体での強い〈対幻想〉の対象である。そしてサホ姫は氏族的な〈対幻想〉の共同性が、部族的な〈共同幻想〉にとって代られる過渡期に、その断層にはさまれていわば〈倫理〉的に死ぬのである。」

 ここで彼のいう「対幻想」というのは、たとえばのび太が、スネ夫が、ジャイアンが、それぞれしずかちゃんと二人だけの世界を思い描くことである。みながそれぞれの「対幻想」を持ちつつ抑えることで、「みんな仲間」という「共同幻想」を描くことができたが、よく考えるとしずかちゃんは血のつながった姉妹ではない。登場人物の子どものうち姉妹がいるのはジャイアンのみである。

 ジャイアンは大の妹思いであるが、サホ姫が血族の兄を選んだのは、ジャイアンがしずかちゃんというみんなのマドンナとしての「共同幻想」以前の、血縁ある異性を重んじる「対幻想」を選ぶようなものなのかもしれない。吉本はこの兄弟姉妹の血縁関係に基づく「対幻想」が拡大し、コミュニティ内で血縁とは関係なくとも結びつく「共同幻想」に発展したと考えたのだ。

 

唐古・鍵遺跡の「呼び寄せパンダ」

 「古事記」によると、垂仁天皇とサホ姫の皇子は、大きくなっても話ができなかったという。そこで大国主命が夢枕に立った。以下は吉本の文の引用である。

 ここに天皇(垂仁) は心痛して、床について寝ると夢にあらわれたものがいうには、「わたしの神殿を天皇の住居とおなじように建立すれば、子はかならず言葉が喋言れるようになるだろう」とこういうので太卜(ふとまに)の占いによって「どこの神の意でしょうか」と探ってみると、ここでたたっているのは出雲の神の意であった。

 そしてできたのが出雲大社だというのだが、実は垂仁天皇は伊勢神宮を最初に建てさせたともいわれる。ただ、纏向には建物が復元されていない。この時代の高層建築とはどんなものだったのだろうかと気になる。そこで纏向から大和川を下ること約7㎞、田原本町の唐古・鍵遺跡に向かった。賛否両論だが、こちらには土器に描かれていた高床の楼閣が推定復元されている。

 二階建ての軒先にゼンマイのようにくるりと回転した装飾のある、なんとも不思議な楼閣だが、本当にここにあったのかどうかは定かではない。しかしここにいたであろう弥生人がその当時このような建物を描いたというのは事実である。

 これがあることで弥生時代の建造物の認識が固定されてしまうおそれはある。しかし隣接地に道の駅ができ、この公園で遊ぶ親子連れたちがたくさん訪れることで、まずは弥生時代の「奇妙な」建築から始まって、巨大な環濠の跡がそこここに見られるのを確認すれば、ここが佐賀の吉野ケ里と並ぶ倭国有数の「城郭都市」であり、そうなったのも蓄えのきく米をもつ豊かな土地柄だったため、外敵から村全体を守らねばならなかった必要性が見て取れる。考古学に対する関心を高めるきっかけの「呼び寄せパンダ」的役割を果たすのがこの楼閣であろう。

 

鳥に「扮する」弥生人

 唐古・鍵遺跡から少し離れた町役場に唐古・鍵ミュージアムがある。ここで最も印象深かったものは、鳥の羽やくちばし、爪のようなものをつけて踊る「鳥装のシャーマン」の再現である。吉本曰く、

 「魏志によれば、倭の漁夫たちは、水にもぐって魚や貝をとり、顔や躰にいれずみして魚や水鳥にたいする擬装とした。このいれずみはのちには装飾の意味をもつようになった。諸国によっていれずみの個処や大小がちがい、身分によってもちがっていた。」

 古代において鳥とは天地をつなぐ媒介と考えられた。それに扮して踊り、また、鳥や魚に扮するために刺青を入れたという。肉体に墨を入れ、「扮する」ことで人々は自分の現実の肉体から自由になることができ、それを見る人も超自然的な何かを感じることができたのかもしれない。そしてその「祭事」を分かち合うことで「共同幻想」を深めていったのだろう。

 このころの「マツリゴト」というのは「祭事」でもあり「政治」でもあった。政教一致である。しかし性別によって担当する内容が異なっていた。吉本は言う。

「高天が原」を統治するアマテラスが、神の託宣の世界を支配する〈姉〉という象徴であり、スサノオは農耕社会を現実的に支配する〈弟〉という象徴である。そしてこの形態は、おそらく神権の優位のもとで〈姉妹〉と〈兄弟〉が宗教的な権力と政治的な権力とを分治するという氏族(または前氏族) 的な段階での〈共同幻想〉の制度的な形態を語っている。そしてもうひとつ重要なのは、〈姉妹〉と〈兄弟〉とで〈共同幻想〉の天上的および現世的な分割支配がなされる形をかりて、大和朝廷勢力をわが列島の農耕的社会とむすびつけていることである。

 つまり、兄弟姉妹という異性の血族との間に生じる「対幻想」のうち、「神」につながるのが巫女をはじめとした女性、そして「民」につながるのが皇子を中心とした男性になったのだ。興味深いことに、「巫女」も「皇子」も「みこ」と読む。そしてその神と民、女と男を結ぶのが鳥だった。推定復元された楼閣の二階部分の手すりにも何羽かの鳥の彫刻が留まっているのもその象徴なのだろう。

 

牽午子塚(けんごしづか)古墳―飛鳥に現れた白亜のUFO?

 みこ(皇子/巫女)といえどもいつかは死ぬ。彼らの埋葬された墓が後に「古墳」と呼ばれることになる。時代下ってヤマト王権が確立し、飛鳥時代には女帝がしばしば出てきた。実在の可能性が高いとされる6世紀以降、約百代ある天皇のうち、十代(うち重祚(ちょうそ)、すなわち退位後改めて即位した天皇もあるので八名)が女帝である。そのうち推古天皇、皇極=斉明天皇、持統天皇、元明天皇と四代三名が飛鳥時代に即位し、元正天皇、孝謙=称徳天皇の三代二名が奈良時代に、後の二人は江戸時代に即位している。

 王権が本格化する七、八世紀はいかに女帝が多かったかが分かろうというものだが、そのうちでも飛鳥時代に重祚した皇極=斉明天皇の墳墓とされる牽牛子塚古墳が明日香村の山中に復元されたので、公開直後に行ってみた。

 駐車場から竹林や雑木林を十数分歩いていくと、突如白亜のUFOのような物体が山際に「着陸」しているかのような、何とも不思議な光景にであった。対角が20mあまりの八角形をした真新しい石造りの「物体」。丘の上から見ても下から見てもこの世のものを見せられているとは思えない。

 

西方浄土、二上山の石と八角形の謎

 石といえば、飛鳥には蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳、唐風の美人たちが描かれた高松塚古墳、極彩色の四神や星座が描かれたキトラ古墳など、立派な石室を持つ古墳が少なくない。斉明天皇が息子中大兄皇子による蘇我氏斬殺を期せずして見ることになった板葺宮(いたぶきのみや)も基礎はすべて石造りだ。しかしここの石造りは別格なほどに人工的かつ巨大である。

 聞くと、大和・河内境の二上山の石を使用しているという。二上山。奈良(大和)盆地の日出るところが三輪山ならば、日沈むところがここである。「日没」すなわちあの世を意味するこの山麓には、西方極楽浄土の様子を織って曼荼羅にしたことで知られる當麻寺(たいまでら)があり、また山上には壬申の乱で無念の死を遂げた大津皇子の陵もある。なるほど、冥界のシンボル、二上山の石を使ってこの「白亜の八角UFO」をつくったのにも意味があるのだろう。

 

「八角」のもつ意味

 古墳というと前方後円墳がメジャーだが、ここでは八角だ。中国思想でいう四方八方、すなわち全方位を表すからとか、法隆寺夢殿などにみられるような仏教的世界観からとか諸説あるが、七世紀のこのころにおいては八角形の陵墓は天皇陵に限られる。そういえば平城宮大極殿に再現されている高御座(たかみくら)も八角形だ。

 天智天皇、天武天皇の母としても知られる斉明天皇だが、女帝というのは性的には「巫女」でありながら社会的には「皇子」でもある、いわば「両性具有」とでもいうべき存在といえる。思うに、ここにいたって吉本のいう男女間の「対幻想」から、血族以外を含んだ「民族集団」に帰属意識を求める「共同幻想」が生まれたのかもしれない。「八角」の表す意味は、やはり国内の四方八方すみずみまで治めるという意思の表れではなかろうか。

 

死と生の間―崩御後に生まれた律令国家

 また、吉本は

「『古事記』には〈死〉と〈生誕〉が、それほどべつの概念でなかったことを暗示する説話が語られている。」

 というが、天皇も身は土に還ったとしても、その子中大兄皇子が大津に都を移して大化の改新を推し進め、弟の大海人皇子は飛鳥浄御原に都を移したことからもわかるように、「死」によって国家経営が途絶えたわけではない。むしろ二人の息子たちはそれぞれ新しい律令国家をつくっていったのだ。

 そして当時のグローバルスタンダードだった唐の律令制度に基づく新国家の成立こそ、自らを「天皇」と呼び、国家名を「日本」と改めた大海人皇子=天武天皇による「共同幻想」の新しい幕開けとなった。

 私たちは二上山南麓の、飛鳥時代に開かれ、遣隋使や遣唐使も歩いて新文明をもたらしたであろう竹内街道を通って大阪府に向かった。

 

富田林(とんだばやし)寺内町は要塞都市

 奈良から大阪府富田林に入った。大和川の支流、石川をこえ、北に進むと富田林寺内町である。寺内町とは「一向宗」と呼ばれた浄土真宗門徒たちが、戦国時代に自治を求めて領主を追い出し「門徒による門徒のための小政府」を成し遂げた場所であり、のちに大坂城となった石山本願寺をはじめとして、特に近畿地方や北陸地方各地に多い。中でも街並みが極めて良好に残っているのがここである。

石川の向こうに臨む寺内町は高さ十数メートルの小高い丘の上にある。川向うから見ても天然の堀と土塁で町を守っている要塞都市であることがわかる。16世紀半ばに築かれたこの町は、いつでも戦国大名と戦えるようにという臨戦態勢の要塞なのだ。

 丘の上は400m×350mほどの台地で、碁盤の目のように町が形成されている。そして興正寺別院という真宗寺院がその中心にある。注目すべきはその櫓である。防衛意識の高い真宗寺院にはよくあるが、まるで城郭の櫓そのものではないか。さらに町内に有力商人たちが軒を連ねた屋敷群は防火用の漆喰で覆われ、高い塀に槍の先のようなものがつけられており、敵を寄せ付けない。ここは親鸞の教えと極楽浄土への往生を信ずる人々が天然の要害に築いた小独立国なのだ。

 
吉本隆明と親鸞

 吉本家は浄土真宗本願寺派だった。そして親鸞に関する著書を幾冊も著している。なかでも「今に生きる親鸞」は新書版ということもあるが、「共同幻想論」の文体とは違い「です」「ます」調で親しみやすい。彼の親鸞観は以下のとおりである。

・親鸞は真宗の始祖ですが、信仰によって僧侶であったのではなく、理念と思想がたまたま宗教の形をとらざるを得ない時代だったから僧侶であったにすぎません。

・世界的な宗教者、思想家であると同時に、仏教の解体者、宗教の解体者であると言うこともできます。仏教を宗教として解体し、一種の思想運動にしてしまった人だと思います。ぼくは、だからこそ惹かれて、ずっと関心を持ってきました。

 また、彼が浄土思想を評価するのは、平たく言えば大衆的で平等な教えと考えたからだ。曰く、

・法然には生々しい現実社会の動きや変化の方向がよく洞察できていたのに比べ、叡山やその他の学僧たちは、自分たちをそんなこととかかわりない僧侶としての修行を志し、それを遂げればいいと考えていたにすぎない点だと思います。

・称名念仏は貧富にかかわりなく、誰でもがまったく平等に称えることができます。

 

「大衆の原像」とは

 こうした見方はしばしば難解な「吉本語」の代表としてあげられる「大衆の原像」という言葉を生み出すきっかけになったのではないかと思われる。たとえば「状況とは何か」という論説の中で、吉本は

「私たちは、ただ大衆の原像においてだけ現実的な思想をもちうる。」

と述べているが、彼のイメージする「大衆の原像」とは、このような町に集住し、あくせく働き、その日の稼ぎに一喜一憂する、日々仕事に追われて政治どころではない民衆であろう。この寺内町では信長が石山寺にこもる一向宗を責めたときにも中立を保った。真宗的視座に立てば他派とはいえ「同朋」すなわち門徒仲間の被害を見て見ぬふりした、となろうが、それによって信長の攻撃を避け、商業の活性化によって、江戸時代にはこの町は地域の中心都市にまでにまでなった。賛否両論あろうが門徒たちが「世の生業」にいそしむことを最優先した町でもあるのだ。

 しかし何よりも大切なのは、親鸞はあの時代にして「破戒僧」と呼ばれても妻帯することで、「男と女の問題」に正面から取り組み、庶民を導く僧という特権的立場を捨てて庶民とともに歩き、既成仏教を解体したという点にある。そこに、職業的知識人=大学教授であった1960年代において、大学教授としてではなく一思想家として「国家意識」は「幻想」だという一種の「意識解体」を試みた吉本隆明の姿をみるのは私だけではなかろう。

 

目の前で苦しむ人を助けないのか?

 親鸞の影響を受けたといえ、大衆による権力者への叫びでもある一向一揆そのものに対して彼はどう思っているのか気になる。なぜなら親鸞は目の前で苦しむ人を進んで助けることを積極的に評価しないと吉本は言うからだ。ただこれは誤解されやすい。吉本曰く、

「自分が言っているのは、目の前で困っている人を助けても、最も大切な救済の問題にはならないというだけで、自分の心が、どうしても助けざるをえなかったら助けなさい。それが自然ということだ。だけど、そんなことが第一義だと思ってもらっては困るというだけだ。」

つまり真宗門徒にとって大切なのは、自分が極楽に往生しても安穏と楽しむのではなく、極楽で修行し、この世に戻ってくればより多くの人が救うことではないか、ということなのだ。この考えを真宗では「還相(げんそう)」というが、世の人々を救うにはその都度苦しむ人々に救いの手を差し伸べるわけにはいかないので、まずは念仏を唱えて自分自身が極楽に往生せよ、という優先順位を述べているのだ。

 

「世の生業にいそしまん」

「共同幻想論」には数ある「吉本語」のなかでも名高い「沈黙の言語的意味性」というものがでてくる。吉本のいう「沈黙」とは単に黙っていることではない。大衆を扇動する者の口車には載らず、目の前の仕事を黙々とこなしはするが、いざ自分たちの日常のペースが乱されそうになったら、そのときは重い腰を上げる。このように、沈黙するに見せかけて腹の中にはマグマをため込み、爆発するまではお上に対して「腹芸」を決め込む大衆の在り方を「沈黙の言語的意味性」とよんでいるようだ。

 真宗寺院に行くとつい口ずさんでしまう歌がある。その名も「真宗宗歌」で、子供のころから佛教日曜学校に通っていたため、折に触れて歌う機会があった。その二番目の歌詞にこのようなものがある。

「六字のみ名を となえつつ 世の生業(なりわい)に いそしまん」

 「六字のみ名」=「南無阿弥陀佛」と唱えながら、きちんと自分の目の前の仕事に取り組め、という意味だ。おそらく民衆が熱に浮かされて大衆運動に参加することを吉本が評価しないのは、自分の日々の暮らしが脅かされるぎりぎりまでは気軽に動くものではないと考えるからである。言いかえれば「日常生活」を続けることの大切さと難しさを、吉本はいいたいのだろう。

 だから彼は当時隆盛を誇ったベトナム戦争反対運動にも、死去の一年前に起こった福島原発反対運動にも、周囲の空気に乗せられて直接の火の粉が降っていないのに「世の生業」をなげうってまで取り組もうとする人々に冷ややかだった。月島の船大工の子らしく「ぎりぎりのところまで黙々と目の前の仕事に取り組め。周りのペースにふらふら乗せられて本業をおろそかにするな」とでもいったほうがわかりやすいのだろうが、そこで沈黙の言語的意味性」「大衆の原像」などと、もったいぶった言い方をしてしまうのが吉本なのだ。

 

大衆運動から一歩引いてみる大衆の在り方

 「極楽浄土に往生できる」ことを信じ、いっせいに寺内町を作り上げるのも吉本に言わせれば「共同幻想」だろう。それにたいして「ちょっと待てよ」と一歩引き、熱狂的な群衆を横目で見つつ、「それで暮らしていけるのか」と考えてみる。この「共同幻想」に流されない「大衆の原像」的生き方が「個人幻想」だろう。そして国民全体がその「共同幻想」に惑わされなければ、国家主導による戦争も起こりにくいのではなかろうか。

 宗教的な「共同幻想」によってできた町が富田林寺内町なら、大阪には民族的な「共同幻想」でできた町もある。私たちは大阪府唯一の重伝建でもある寺内町を後にして、生駒山を右手に見つつ大阪市内に向かった。

 

「猪飼野」と打ち込めないWord

 春先に猪飼野のホテルで二泊した。と、先ほどWordで「いかいの」と打ち込もうとしたが「猪飼野」と変換されない。大阪市生野区鶴橋一帯は昭和まで公的に「猪飼野」と呼ばれていたのだが、私が初めてこの街を歩いたのは、巷では昭和天皇崩御から二年も経っていないころだ。

 大学進学で枚方市に住んでいた私にとって、大阪で「市内」と呼ばれる梅田やなんばといった繁華街は性に合わなかった。それよりもアジアに関心があった私の食指をそそったのは「日本一の朝鮮人街」鶴橋だった。大阪のクラスメイトに「鶴橋に行く」といったら「お前なんかが行ったらボコボコにされるで」「ヤクザがうようよ歩いとる」「朝になったら金をとられて道端に投げ捨てられていても警察さえ知らんぷりや」などと偏見たっぷりで言うのだが、なぜかそこでボコボコにされたり、道に倒れて警察も知らんぷりの場面を見たり、ヤクザの大群を見たという人はいない。みなまた聞きなのだ。

 

鶴橋にアジアを感じた

 そんなとき田舎から父が様子を見に来た。父は二十歳ぐらいのころバス会社に勤めており、鶴橋界隈に短期間住んでいたという。計算してみると吉本隆明が「共同幻想論」を執筆した1968年ごろだろう。父も千円札という大金を腹巻に入れて酒を飲みに行ったらチンピラに絡まれた話などをしてくれた。

 はたして二十数年後の鶴橋は、父曰く昭和四十年代の雰囲気そのままだった。自分の若き日々を追想し、堪能しているようだったが、私にとっては「国際市場」とは名ばかりの朝鮮一色の空間が新鮮だった。市場の裸電球のまぶしさや、おばさんたちのけたたましい声や、レンガ色のキムチ、ナムルのどきつい匂いと立小便の後のすえたような匂いが混ざった新鮮な不快感に、くらくらしそうだった。よくわからないのだがなんとなくそこに「アジア」を感じた。

 しかし数時間歩いて店に入ったりもしたが、ヤクザもけんかも倒れている人も見なかった。クラスメイト達は行ったこともないこの鶴橋を、大人たちかにかけられた色眼鏡で見ていたのだろう。

 翌日教室でそのことをクラスメイト達に話すと、「自分、マジでイカイノいったんか?」と言われた。その時初めて私は鶴橋のことを地元では「イカイノ」と呼ぶことを知った。ついでにその響きは極めて偏見が強いので言ってはいけないという雰囲気を伴うことも察した。

 「猪飼野」-猪や豚を買っている野原を連想させるこの地域は、昭和のころの鶴橋の通称だった。父の住んでいたころもそう呼ばれていた。その後1973年に「イメージアップ」のために「鶴橋」と町名が改められた。しかし市内では平成になってもイカイノと呼ぶ人も少なくなかった。その後何かの折に触れ、大阪に行くときには猪飼野を歩くようになった。

 

無造作に共同幻想が重なり合った大阪コリアンタウン

 あれから30年ほどして、今度は私が7歳の息子を連れて鶴橋に向かった。電車が駅のホームに入り、ドアが開くやいなや焼肉とキムチの匂いが車内に入ってきた。これが猪飼野の匂いだ。その晩は猪飼野とは似つかないようなおしゃれでこぎれいなホテルで泊まることになったが、途中の薄暗いアーケード街は昔のままだった。

 それにしても2010年代以降の鶴橋の変化には目を見張るものがある。ところどころ韓流グッズや韓国風カフェに改装した店が並んでおり、日本人の男女比率でいうと圧倒的に若い女性が多い。特にホテルの筋向いにあった御幸森商店街は2021年に「大阪コリアンタウン」と称する、グルメとファッションの街となっている。

 「百済門」というゲートで囲まれたエリアには在日コリアンよりも日本人女性たちをよく見る。翌日人気の少なくなった夜道をぶらぶら歩きながらようやく気付いた。ここはいくつもの相容れない「共同幻想」が無造作に重なりあいっぱなしになったところであることを。

 

百済・済州と猪飼野

 猪飼野の地は仁徳天皇の時代に豚を飼う渡来人がいたためこの地名が付いたといわれる。後に白村江の戦いの後、亡命百済人が集住したため、この地は百済野とよばれた。府内北西部の枚方(ひらかた)には同じく白村江の戦いの後に朝廷に仕えた百済の王族が朝廷に賜った土地に「百済王神社」が残されていたり、百済から倭国に漢字学習のテキスト「千字文」や「論語」を伝えたとされる和仁の墓なども創られ、顕彰されていたりする。

 王仁といえば御幸森神社本殿脇には2009年に建てられた歌碑があるが、それは王仁が仁徳天皇の即位を祝して詠んだ和歌で、日本語とハングルで彫られている。

「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」

競技かるたの初めに詠われるものとしても知られている和歌だが、百済伝説が色濃いこの地に千数百年の時を経た大正時代、かつて「百済川」と呼ばれていた平野川の河川工事にやってきたのが、5,6世紀に百済に朝貢していた耽羅(タムナ)、すなわち済州島民だった。これが近代においてこの町に在日コリアンが定住するきっかけである。この時点で歴史的な縁とでもいうべきかもしれないが、その時点でこの土地に百済・済州島を見出すこと自体「共同幻想」に思えてくる。古代と近代には千数百年の断絶があるからだ。

 

済州島サラムとは

 ところで2022年現在約13万人弱の生野区民のうち、およそ2万人余りが在日コリアンという。最盛期はその二倍はいただろうが、ここまで在日コリアンの集住する地域は他にない。ここで「在日コリアン」という概念も共同幻想であろう。なぜなら彼らのうちの四分の三が済州島サラム(人)で、他の地域でマジョリティの慶尚道出身者や全羅道出身者とは歴史も習慣も言葉も異なるのだ。

 そして彼らの多くは日本からの解放後の1948年に米軍指揮下の韓国軍によって共産ゲリラと勘違いされ、命からがら逃げてきた済州島サラムとその子孫であり、その定着先が猪飼野だったのだ。「同胞」であるはずの「陸地サラム」により数万名もの命が失われたのだ。例えるならハワイや南米の集落で「日系人」のマジョリティが沖縄人だとしても、生活文化も言語も異なり、さらに日本軍からも迫害を受けた彼らが「日系人」を代表するには無理があるようなものだ。同じようにここのマジョリティの済州島サラムが全在日コリアンを代表するには無理がある。

 

「統一された祖国」に抱く共同幻想

 とはいえ猪飼野という地域は今なお太古から現代に連なる「朝鮮民族」という「共同幻想」を共有する人々に支えられてきたことは事実だ。ただしそれは一枚岩の幻想ではない。今なおこの狭い猪飼野は朝鮮総連と韓国民団によって見えない三十八度線が引かれているからだ。コリアンタウンの横断幕に日韓両語による「投票するには、在外選挙申告・申請が必要です」という表示を見たが、韓国籍を取得していない在日コリアンにとって羨望と苦痛が混じったものかもしれない。吉本は言う。

 ある個体にとって共同幻想は、自己幻想に〈同調〉するものにみえる。またべつの個体にとって共同幻想は〈欠如〉として了解されたりする。またべつの個体にとっては、共同幻想は〈虚偽〉としても感じられる。

 これをこの猪飼野に当てはめると在外同胞であろうと選挙権を持ち、国政に関与するのを当然とみて、「統一された祖国」に共同幻想を描く民団支持者から見れば、同胞ではあるが別の形で「統一された祖国」に共同幻想を描く総連支持者は自由と民主主義の「欠如」に見えることだろう。

 しかし総連側としても民団側を米国帝国主義者の傀儡として経済力をつけた「虚偽」なる存在として見なければ収まりが悪い。さすがに令和の時代にこのような「昭和的」冷戦構造は薄れているとはいえ、こうした見えない三十八度線はこの町のそこここにあるのだ。

 

「民族」も共同幻想

 ここで「民族」というものについて改めて考えてみたい。猪飼野を歩きながら「在日コリアン」と大韓民国の人々は果たして同じ民族といえるのだろうかと疑問に思えてきた。同じ民族にしては、近代史を共有しているとはいいがたいからだ。「本国の韓国人」、特に若者が猪飼野に来て懐かしさ以上に強烈な違和感を覚えるのは想像に難くない。それ以上にここの在日コリアンが韓国に暮らした際の違和感のほうが大きいのかもしれない。それは言語や習慣、価値観など、あらゆることにわたってあることだろう。

 しかし民族という名の「共同幻想」が彼らをつなぎとめてきた。ただそれがもろくも崩れたとき、近親憎悪からくる人間不信は「赤の他人」に対するものよりも根深いことだろう。90年代以降「同胞」として韓国に出稼ぎに行った中国朝鮮族が「三等民族」扱いを受け、その身なりや方言を揶揄され、人権も無視されてきた事実を私は知っている。私自身中国の朝鮮語を身に着けたため、韓国では嘲笑か矯正の対象になるという経験がある。

 「それにしても、こんな小さな町で「あいつは韓国籍」「あいつは総連」「あいつは慶尚道」「あいつは朝鮮族」「あいつは帰化した」「あいつは日本学校出身」「あいつは朝大出身」などと自らと区別し、他者としてあしらってしまうのはなぜなのだろうか。これについて吉本はこうも言う。

「人間はしばしばじぶん存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である。共同幻想もまたこの種の負担のひとつである。」

つまり「共同幻想」というのは自らをがんじがらめにすることを知りながらも求めざるを得ないものなのだろう。

 

何事もほどほど絶妙のバランスで

 ところで「吉本語」に「関係の絶対性」という言葉がある。「共同幻想論」では特に重要な言葉として出てくるわけではないが、要するに独りよがりに陥らないためには他者から建設的批判を受け入れるべきであるが、それも行き過ぎると共同体の空気に流され、己を見失ってしまう。ほどほどの絶妙なバランスに身を置かねばならないという意味だと理解している。あるいはディベート思考と言い換えることも可能だろう。

 であるならばこの町でぶつかる地域対立や支持団体の対立、国籍の後ろ盾となる国力の優劣などは、みな自分の信じる「自己幻想」の投影である「共同幻想」を唯一絶対のものとしがちであることに起因することがわかる。相手の言うことに耳を傾け、多少なりとも歩み寄ろうとしだしたのはごく最近のことではなかろうか。そしてここがかつて「治安の悪い怪しい町」とされてきたのも、そのような多くの別次元の共同幻想がぶつかり合う、不気味な土地だと「日本人」に認識されてきたからだろう。

 

枚方(ひらかた)―阿弖流為(アテルイ)・母礼(モレ)の墓から伝王仁墓へ

 ほぼ十年ぶりに学生時代を過ごした枚方に行った。京阪電鉄牧野駅で下車して川沿いに歩くと五分ほどで片埜(かたの)神社についた。そこの社殿は実に素晴らしい丹青で塗られており、まるで朝鮮の王宮のようでもあった。

 隣接する牧野公園の小高い丘に「伝阿弖流為・母礼之墓」の碑がある。アテルイ・モレとは9世紀に坂上田村麻呂に降伏した蝦夷のリーダーたちの名だが、彼らは都に連れてこられた後、だまし討ちに遭って処刑された。そして彼らの塚だといわれているのがここだというのだ。ただ、あれこれ調べていくうちにここがアテルイ・モレの塚であるという確証が希薄になってきた。

 翌日同じく枚方市内の藤坂という丘の住宅地の細道を上りきったところに伝王仁墓があるというので行ってみた。住宅街の奥まったところにライトグリーンにレッドの目を見張らんばかりの立派な門が待ち構えていた。周囲の雰囲気にそぐわない「自己主張の強さ」に韓国らしさを感じて思わず顔が緩む。そういえば前夜に猪飼野で食事をしたアリラン食堂という韓国人経営の店構えそっくりだ。在日コリアンたちと本国の韓国人が寄付を募って2006年に建立されたこの門は王仁の時代の形式のものではなく、朝鮮時代のもののようだ。

 

捏造の重ね塗りの上塗りか?

 それはさておき、ここが王仁の墓かどうか気になるところだが、実はこここそ江戸時代までアテルイ・モレの墓とされてきたところで、元来「オニの墓」といっていたのが、「オニ」=「王仁」に転訛して王仁の墓になったところらしい。さらに皇室重視の明治時代には仁徳天皇に仕えたということで王仁も「格上げ」され、この公園が拡張整備された。そして日本と朝鮮を一つのものとする「内鮮一体」がスローガンとなったこの地には王仁神社まで創建されようとした。

 数奇な運命をたどってきたようだが、ズバリ言えば史実に基づかない「捏造の重ね塗り」であるにもかかわらず、平成になってそこに在日コリアン+本国の韓国人がさらに捏造に上塗りをした形になる。民族という共同幻想が史実より先走った形になったのは残念だ。

 ただ、ここは「オニ」とよばれたアテルイ・モレの塚だったのかどうか、やはり気になる。在日コリアンにとっての民族や国家という「共同幻想」の旅から、アテルイ・モレのふるさとである奥州の、民族にも国家にもならなかったが皆が抱いている「共同幻想」を思い起こしてみることにする。そこは必然的に「共同幻想論」で「古事記」と並んで精読された「遠野物語」の故郷でもあるからだ。

 

蝦夷(えみし)は出雲族のディアスポラか?

 平安初期、坂上田村麻呂に降伏した蝦夷(えみし)のリーダー、アテルイ・モレの墓がある大阪府枚方市牧野公園は片埜(かたの)神社に隣接するが、この神社はえびす祭でも知られる。祭神は須佐之男命の他に、出雲ではえびす様とよぶ事代主命(ことしろぬしのみこと)だけでなく、同じく出雲系とされる菅原道真も祭神に名を連ねている。ここも出雲系の神社らしい。興味深いことに「えみし」は「えびす」の転訛したものという説がある。

 さらにいえば西日本から日本海側にかけて勢力範囲を拡大していた出雲族が大和族に追われ、奥州まで逃げ延びた人々の末裔が蝦夷という説もある。そのような事情を知ってからというもの、出雲族の後裔の端くれでもある私は白河や勿来(なこそ)の関を超えて奥州に行くと未知の親戚にあえるかのようで心が躍る。彼らのズーズー弁を聞くたびに、「ディアスポラ出雲族」を夢想する西日本唯一のズーズー弁使用地区の私であった。

 ところで蝦夷とはもちろん大和族からの呼び名であり、自称ではない。それは古代において大陸は日本列島のことを「倭」とよんでいたようなものである。東洋人には「華夷(かい)」すなわち中華文明を取り入れている文明国かいなかという秩序があった。坂上田村麻呂が「征夷(野蛮人を退治する)」大将軍として奥羽に赴いたのも、唐に対しては「夷」かもしれない日本だが、その下に蝦夷を従えることで相対的に自国の序列が上がるというメンタリティからであろう。「新興国」日本が唐や新羅、渤海国などの序列の中に入り込むのに必要だったのが蝦夷という「化外の民(≒野蛮人)」だったのだ。

 

南北七百キロの奥州の奥州市

 奥州市は平成の大合併によって岩手県に生まれた自治体だが、「奥州」の概念は、北は下北半島から南は白河の関まで南北じつに七百キロにわたる。それは東京から鳥取市や岡山市までに匹敵する広大な土地だ。それに「出羽(秋田県、山形県)」を合わせた「奥羽」は、近代に入ってからは「東北」と呼ばれることになった。

一体奥羽はどこのだれにとって「東北」なのか。北海道のほうが北東に位置することからも、また首都東京からすれば真北にあたることからも「東北」とは単なる方位ではないことはわかる。「東北」の反対は「西南」であるが、ここは明治維新を担っていた薩長土肥という「西南雄藩」に対する「負け組」としての「東北」でもあったのだろう。

 今さら改めて言うことでもないが、蝦夷の子孫たちの住んできた奥羽の歴史は中央政権に対する負け戦の歴史だった。それは一時的に隆盛を極めたかと思うと急転直下で滅びるというパターンの繰り返しであったが、アテルイらが坂上田村麻呂の遠征軍に降伏し、連れていかれた畿内で惨殺されたことがその始まりだった。以降、「阿弖流為(あてるい)」とは朝廷にたてつく「逆賊」の象徴とされてきた。

 平成になると岩手県を中心とした地元では朝廷の侵略に立ち向かった郷土の英雄としてアテルイが再発見され、NHK大河ドラマ「炎立つ」やミュージカルなどを通してその復権を勝ち取った。東日本大震災の半年後奥州市を訪れた際には、アテルイ公園にコープアテルイ、いわて銀行あてるい支店など、アテルイにあやかった施設や店舗が軒を連ねていた。

 

国家を持たない道を選んだ人々

 しかし歴史上アテルイら蝦夷は国家を持たなかった。吉本隆明は言う。

「(前略)生活資料たとえば、土器や装飾品や武器や狩猟、漁撈具などしかのこされなくても、その時代に〈国家〉が存在しなかった根拠にはならない。なぜなら〈国家〉の本質は〈共同幻想〉であり、どんな物的な構成体でもないからである。論理的にかんがえられるかぎりでは、同母の〈兄弟〉と〈姉妹〉のあいだの婚姻が、最初に禁制になった村落社会では〈国家〉は存在する可能性をもったということができる。」

アテルイの時代においては、その気になれば小国家建設は可能だったかもしれない。しかし彼らはそうはしなかった。一方で現在の奥州市民は、たとえ「国家」は形成されなかったとしても、蝦夷の残した痕跡を市内の胆沢城跡につくられた埋蔵文化財センターに見出すことができる。それだけでなく彼らの遺物は宮城県多賀城市の東北歴史博物館、盛岡市郊外の志波城など、全奥州に残されている。共同幻想ではあっても「蝦夷の国」は現在の東北の人々の故国なのだろう。

 ただ、アメリカ先住民やアイヌのように国家が持てる規模にあっても国家をあえて持たぬ道を選ぶ民族もいた。国家を作ることで大地に線を引き、それを守るために奔走させられるようだと幸せではないからなのだろうか。また、国家形成には徴税が伴うが、その過酷さを同胞に味合わせたくなかったからなのだろうか。とにかく国家形成をあえてしなかったのは、そのほうが自分たちにとって幸せだと判断したから、もしくは国家にならないことで守りたいものがあったからだと思いたい。それは法人化できる規模なのにあえて個人事業主であり続けることで守りたいものがあるようなものかもしれない。

 

アテルイ亡き後の蝦夷の末裔たち

 アテルイが畿内で斬首にあった後も、蝦夷の子孫たちは朝廷や将軍たち、中央政権からの侵略をたびたび受けてきた。平安時代末期に奥州平泉の黄金文化が栄えたと思えば、弟義経の引き渡しを要求した源頼朝の侵攻により、奥州藤原氏は鎌倉時代の始まりとともに滅ぼされた。

 桃山時代には伊達政宗が奥州の覇者となるが、秀吉の小田原合戦にて所領を一部没収され、関ケ原の戦いでは東軍に与すれば旧領を回復するという家康の書状を信じて奥州で西軍と戦ったものの、約束は反故にされた。

 江戸時代は仙台市内には菩提寺瑞鳳殿や大崎八幡宮、松島には瑞巌寺などの黄金をふんだんに使った桃山文化を後世に伝えた。また江戸時代を通して酒田港は西回り航路の超重要拠点として繁栄を極めた。最大の豪商本間家の邸宅では往時の繁栄がしのばれる。しかし東北諸藩は幕末から維新にかけて奥羽越列藩同盟を結び、官軍に敗れると、国内一の貧困地域に転落した。

 大正時代になると、盛岡からは「平民宰相」と呼ばれた原敬が東北初の総理大臣となったが、その大正デモクラシーの風潮を鼓舞したのは宮城県現大崎市出身の吉野作造だった。そして政治という「表面的」なものとは別に、奥州に残る風習をもとに日本の大衆のこころを紹介することで日本民俗学を打ち立てたのが柳田國男の「遠野物語」である。その影響は各方面に絶大で、その半世紀後に「遠野物語」を解読し、そこに「共同幻想」を発見したのが吉本隆明だ。

 

遠野の幽体離脱の話

 柳田國男によって全国的に有名になった遠野は見どころが実に多い。淵に現れる河童伝説、南部曲屋を舞台にした娘と馬との禁断の獣姦を描いたオシラ様伝説、村人が山で出くわした山男、山女を脅したために亡くなった山男伝説など、枚挙にいとまないが、吉本は「遠野物語」の続編「遠野物語拾遺」に出てくる幽体離脱する例に着目した。

 一つは、村に逆立ちが得意な若者が入営したが、ある日逆立ちに失敗して頭を打ち気絶した。すると魂が抜けだし、ふわふわと帰りたかったふるさと遠野に向かうと、小川で足を洗う妻や炉端でたばこを吸う母を見た。兵営にもどったところで我に返ったのだが、そのことを家に手紙で知らせると、家族曰く、ちょうど同じ時間に白装束の若者が家に来たと思ったら消えたとのこと。

 もう一つは、別の人が熱に浮かされて夢を見た。どこまでも続くきれいな道で、亡くなった母と出会い、ともに歩いた。母は川にかかる橋を渡り、手招きしたが、自分は渡れなかった。そのうち意識を取り戻したというが、これらに関して吉本はこうまとめる。

「わたしのかんがえでは、村落共同体は共同幻想そのものである。入営した村の若者の幻覚が遊行してゆく対象は〈故郷〉であり、〈妻〉や〈嫂〉や〈母〉や故郷の〈小川〉や〈家〉の炉端である。高熱にかかった村の病人の幻覚がたどるのは〈亡母〉であり〈橋〉のむこうにいて手招きする亡母と、それをわたりかねている病人に象徴される伝承概念としての〈他界〉や〈現世〉である。〈橋〉はこのばあい子供のときからきかされていた土着仏教の〈三途の川〉の橋であっても、仏教以前の古伝承としての霊のあつまる高所と人のあつまる村落とをへだてる川の〈橋〉であってもよい。これらはいずれも遠野の村落の共同幻想の歴史的現存性の象徴を意味しているからである。」

 

ふるさとという幻想

 一方で野良仕事のできなくなった老人が集団で住む村はずれの「でんでら野」に注目し、こう述べている。

「個々の老人は、村落の共同体から共同幻想の〈彼岸〉へ生きながら追いやられたとき、かならず〈家〉の対幻想の共同性から追いやられたはずである。そして〈家〉から追いやられるには、老人の存在が〈家〉の共同利害と矛盾しなければならない。身体的にいえば〈家〉の働き手として失格していなければならない。」

 つまり、「家」という存在はいつまでも暖かいものではなく、貢献できなかったものは捨てられるという残酷な現実に基づいていたことも見逃さない。ただ、それによってでなければ農村は機能しなかったという一面もあった。

 貢献できない年になるとでんでら野行きという現実はあったとはいえ、遠野を代表とする「田舎」の人々には家族とその延長にあるふるさとに共同幻想が描きやすいのは分かった。そこは「志を果たしていつの日にか帰る」べき場所である。そして東北各地の人々にとって、それぞれのふるさとの延長にあるのが「東北」という共同幻想だということは想像に難くない。それを可視化してくれるものが、兎は追わずとも、小鮒は釣れずとも、山や川だろう。この町も猿ヶ石川が流れ、早池峰山が見下ろす。それが心象風景だ。

 それでは村落共同体に属していない都会人はどうなるのだろう。当初自費出版にすぎなかった「遠野物語」を手に入れ、高く評価したのが若き日の東京人、芥川龍之介だった。後に「ぼんやりとした不安」を抱いて自殺した彼について、吉本はこう述べる。

「芥川龍之介に悲劇があるとすれば、都市の近代的知識人としての孤独にあるのではない。都市下層庶民の共同幻想への回帰の願望を、自死によって拒絶し、拒絶することによって一切の幻想からの解放をもとめた点にあるのだ。」

 卑弥呼や古代の伝説にも、極楽浄土といった宗教にも、在日コリアンという民族性にも、そして民族なのか何なのか分からない蝦夷という存在にも、さらには山や川に囲まれた妖怪との共生にも共同幻想を描き切れない東京の若者たち心の拠り所はなんなのか。山や川に表象される、帰るべきふるさとという場を持たない人々はなにに共同幻想を抱くのか。昭和初期の芥川は結局共同幻想への回帰を拒絶して自殺したが、現代の若者はどうなのか。若者の街、渋谷区に向かってみることにした。

 

明治神宮とワシントンハイツ―渋谷区の権力構造

 東京に戻った。私は東京に13年住んでいたが、うち11年が下町の日暮里を拠点としていた。日暮里からみて山手線の正反対の場所は渋谷や原宿に当たる。地理的に正反対なだけでなく、若者の街とファミリーおよび高齢者の町という意味でも、人が集う街と人が帰って休む町という意味でも正反対だ。よって渋谷区を歩くとついつい下町と比較してしまう自分に気が付く。

 通訳案内士養成のウォーキングツアーでこのルートを改めて歩いた。歩きながら実感したのが渋谷区における権力構造であり、それに巻き込まれながらもしっかりと自分らしさを保ちつつカルチャーを作っていくたくましい人々だった。

 渋谷区には目に見えるものと目に見えなくなった二つの権力の頂点がある。目に見えるものは明治神宮、見えなくなったものはかつて代々木公園からNHKにかけての広大な敷地に広がっていた米軍住宅地「ワシントンハイツ」である。原宿や渋谷が若者の町となったのも、この二つの権力の「門前町」として発達したからにほかならない。さらに吉本隆明風にいうならば、人々は両者に「共同幻想」を抱き、それを東急、西武といった鉄道系資本がインフラを整備しバックアップしてできたのが渋谷や原宿のカルチャーといえよう。

 

明治神宮―魂が千代に八千代に休まるべき空間

 明治神宮は言わずと知れた明治天皇および昭憲皇太后の霊廟である。明治天皇といえば、その実際の「功績」はともかく、文明開化・殖産興業を推し進めた明治時代のシンボルそのものである。崩御後に天皇陵は生まれ育った京都の南部、伏見桃山にある。ただ文明開化・殖産興業のシンボルとして国民に模範を垂れてきた存在として「帝都」の人々がその遺徳を偲ぶには京都は遠すぎる。そのこともあって国民の願いから神宮を数ある候補地の中からこの地に建設したという。吉本は言う。 

「柳田は墓地には埋め墓ともいうべきものと、詣で墓ともいうべき二つがあって、死者を埋葬した墓地と死者を祭った墓地とはべつべつであることをはじめてあきらかにして、葬制研究の口火をきったのである。」

つまりここは明治天皇を祭る「詣で墓」なのだ。そして農耕民が八割を占めた明治時代には「他界(あの世)」はこの世の集落のはずれにあるのが理想だったという。

 農耕民を主とする村落共同体の共同幻想にとって、〈他界〉の観念は、空間的にと時間的にと二重化されるほかなかったことである。かれらにとって〈永生〉の観念は、あくまでも土地への執着をはなれては存在しえなかった。そしてこういう〈永生〉の住みつく土地をもとめれば村落の周辺に、しかも村落の外の土地にもとめるほかなかったのである。

 明治天皇崩御後には渋沢栄一らを中心に神宮をどこに建設するかでいくつか候補地が挙がった。日本の象徴である富士山麓などという意見もあったが、結局皇居の真西4㎞ほどに位置するこの地が選ばれたのも17歳から40年以上「帝都」に居住してきた明治天皇の魂を鎮めるには最適の地と考えたからだろう。そしてそこは天皇の魂が「永世に」、つまり千代に八千代に休まる場所と国民に思われなければならなかった。こうした「詣で墓」に関して吉本はこうまとめる。

「だから埋め墓は空間的な〈他界〉の表象であり、詣で墓は時間的な〈他界〉の表象だというべきなのだ。」

 

神宮の森

 明治神宮では入口から一般的なルートを通って進むと神宮の奉納した各地の酒樽や、欧風を好んだ明治天皇のために奉納したワインの樽が見てくる。そして台湾から奉納された鳥居などを通って本殿に向かう。このように一般的な参拝ルートは国家の近代化のシンボルとしての天皇を讃える空間となっている。

 しかし私はあえて入口から左に折れ、本殿前の西玉垣にでるコースが好きだ。この道を歩くのはおそらく参拝者の数パーセントしかいないことだろうが、このルートはここがまさに大都会東京の一大森林であることが実感できるからだ。西玉垣を目指して歩くと森林浴が楽しめる。ここは原生林などではない。国民が十万本もの樹木を奉納することで作り上げられたわずか一世紀にしかならない若い森である。

 当時の大隈重信首相は伊勢神宮などにみられる杉並木こそ厳かな明治神宮にふさわしいと考えたが、植林の専門家に反対された。杉は地下水が豊富な土地や寒冷地に適するが、ここはそれに該当しないからだ。また杉のような針葉樹は当時深刻化していた新宿近辺からの煤煙に弱い。そこで温暖な地で煤煙にも強いクスノキを中心とした照葉樹林となったのだ。この深い緑で深呼吸するときに生き返った感じがするのも、日々森を歩いて森全体が成長していくように間引きをする職員たちのおかげでもある。

 

門前町としての表参道

 神宮の南東にのびる表参道は高級ブランドの町として知られるが、もともとはその名の通り神宮の門前町である。しかし同じ都内の門前町ではあるが、庶民の信仰から形成された浅草とは大違いだ。例えば表参道の十字路にはかつて都電が走っており、戦前戦中にここを通り過ぎるときにはみな神宮に向かって一礼するのが通例だったというが、浅草でそんなことをする人はいなかったろう。

 表参道の名所ともいえる表参道ヒルズは、周知のとおり同潤会青山アパートを解体後、一部復元して高級ショッピングモールを併設させたものである。同潤会アパートとは1923年に関東地方を襲った大震災の翌年、上流階級向けのマンションとして供給されたものだが、ここの居住者たちにとって「表参道」に住むということは畏れ多くも「明治大帝の聖蹟」のお側に住まわせていただくという意味があった。令和の人々がイメージするようなおしゃれな町ではなかったのである。

 国家権力が生み出した「皇室をいただく近代国家」という共同幻想に同調し、自らを同一化する人々が作り出したこの通りには「共同幻想」というコンセプトなしにはこの空間は成り立たない。

 この一帯に激変が訪れたのは1945年の空襲と敗戦である。表参道が焦土と化しただけでなく、本殿まで焼失したのだ。さらに戦後まもなく連合軍の兵士が神宮の前に立ちはだかり警備するようになると、人々は聖蹟を汚されたような民族的屈辱を感じ、またある人は戦時中の反動で神宮に詣でなくなった。

 そのうち渋谷区における「忘れられた権力構造」が神宮の真南に出現した。それが巨大な米軍住宅「ワシントンハイツ」である。

 

鉄条網の向こうのアメリカーワシントンハイツ

 終戦から数か月後の12月、神宮南側にあった旧陸軍練兵場が連合国に接収され、八百棟以上の米軍宿舎が建設された。それが今の代々木公園周辺である。国立競技場前の公園ゲートにはかつて米兵が機関銃をもって見張っていたはずだ。鉄条網のこちら側はその日の食にもありつけない貧しくみじめな敗戦国日本が横たわっていた。一方鉄条網の向こう側には当時世界一豊かなアメリカ人たちの住む、緑の芝生に白い家が建ち並び、さながら「鉄条網の向こうのアメリカ」だったという。南アのアパルトヘイトもこのような感じだったのだろう。

 GHQは自由と民主主義の伝道者として自国の姿をこの敗戦国民たちに見せつけることで憧れを抱かせ、反抗できないようにするとともに日本を民主化して共産化を防ぎ、来るべき朝鮮戦争における共産軍と戦うための橋頭堡としようとした。

 ワシントンハイツの居住者は主に家族を帯同した中級の軍人であり、その妻たちは生け花などを学んだりテーラーで洋服を作らせたりと「良い御身分」だった。彼女らが作らせたテーラーが集まったのはゲートを出てすぐ外の表参道だった。これが高級ブランド街としての表参道の始まりである。

 なお、米兵が土産物を購入した店が後にオリエンタルバザーとなり、米兵の子がおもちゃを買ったのが後にキディランドとなった。つまり表参道は1945年を境にして「明治大帝の聖蹟」の門前町から、新たなる支配者、米兵のショッピングモールになったのだ。

 

かき消された記憶

 新しい支配者たちのもたらしたカルチャーは日本人にとってショックでもあり羨望の的でもあった。周辺の人々、特に若者たちがいかにアメリカ文化に同調し、それを身に着けることでアメリカ文化に一体化しようとしたかは容易に想像できる。ここで新しい共同幻想が生まれた。それは日本もアメリカの下で自由で民主的な国になる、という共同幻想だ。吉本曰く

「個体の自己幻想に社会の共同幻想が〈同調〉として感ぜられるためには、(中略)じぶんが共同幻想から直接うみだされたものだと信じていなければならない。」

つまり人々はそれまで恐れ崇めてきた神宮という「過去の幻想」から、アメリカをモデルとした「自由で民主的な国」の一員になることを信じ、切望したのだ。

 代々木公園にはオリンピック記念宿舎という平屋建ての白い家屋が見えるが、それが現在唯一現存するワシントンハイツの宿舎である。今となっては白とライトグリーンのペンキが全体的にはげかかっていて「侘び寂び」さえ感じられるが、戦後二十年間は思い焦がれても手の届かない「アメリカ」であり、「未来」そのものでもあった。水洗トイレやガス、お湯の出る水道、ソファに座りベッドで寝る生活など、今となっては当たり前の「達成目標」がそこにはあった。

 ただしここの説明版には1964年の東京五輪において一帯が選手村となり、オランダの選手団がこの建物を使用したこと以外には何も書かれていない。19年間のワシントンハイツのことは私にはそれほど「不都合な事実」には思えないが、ある人々には国辱なのか、忘れたい過去なのか、まったく語られていない。現在家族連れやカップル、友達連れであふれているこの公園ではあるが、このような享楽はかつて占領軍のみに許されており、日本人は使用人としてしか入れなかったことなど、記憶からかき消されてしまったようだ。吉本は「歴史」が途絶えることについてこう述べている。

「それぞれの種族には〈歴史〉がと絶えてしまう時間がある。どうしてもそれ以前の共同社会の構成については知ることができない。」

 

原宿カルチャーのルーツ

 代々木公園のゲートから大音響のロックンロールが聞こえてくる。思わず心が弾み、脚も躍る。私もロックンロールに憧れて英語の道に入ったものだが、聞こえてくるのは矢沢永吉やクールス等、昭和50年代の日本の日本語ロックンロールだ。上は60代から下は20代までの若者と「元」若者たちがツイストを踊っている。リーゼントにグラサン、革ジャンまたはタンクトップの黒ずくめである。ここでは三週間連続で日曜日の午後にこの光景を見た。

 ワシントンハイツがなくなってから十数年たち、日本の高度経済成長が一段落したころが、この最年長の「元つっぱり兄ちゃん」たちが現役でつっぱっていた1980年前後である。ようやく「ワシントンハイツ時代」のアメリカの生活水準に追いついたのか、そのころの若者たちが原宿などで、まさにこのいで立ちでロックンロールを踊っていた。人々は彼らを「ローラー族」と呼んだ。

 1950年代後半のロカビリーブームの時は、プレスリーやバディ・ホリー、チャック・ベリーなどアメリカの曲を日本人ミュージシャンが英語で歌っていた。故内田裕也氏らの世代である。アメリカンポップスは和訳で歌われていたが、「ロックンロールは英語でしかできない」というのが50年代、60年代の「常識」だったのだ。

 それを70年代に日本語でロックンロールをシャウトし始めたのが矢沢永吉らだった。そしてそれに合わせて踊りだしたのが、学生運動などに無力感を抱いた「しらけ世代」のなかでも若さをぶつけたのがローラー族であり、竹の子族だった。

 さらに原宿は80年代後半からバンドブームやブレイクダンサーの激戦地となり、90年代にはヒップホップダンサーなどのパフォーマンス集団の登竜門となった。共通して言えるのは、ルーツはみなアメリカだということだ。ここはアメリカのパフォーマンスを日本人のテイストに合わせることで若者たちのメッカとなったのだ。2010年代に出てくるきゃりーぱみゅぱみゅもベースは50年代のアメリカのティーンエイジャーのファッションである。でありながらはっきりとkawaiiという日本的コンセプトを主張する。

 ワシントンハイツのことは覚えていないか、全く知らないかもしれないが、彼らの影響は潜在意識としてこの土地に根を張り、東京発のポップカルチャーを生み出したのだ。

 

誰もが自分を演じる舞台となった渋谷

 高台に位置するNHKの南向いには、渋谷区役所や渋谷公会堂、合同庁舎、法務局などの「お堅い」公共施設が軒を連ねる。そして二・二六事件慰霊像から南に「無国籍通り」を下ると雑多な宇田川町の飲み屋街である。丘の上は「お堅く」、その下は若いエネルギーが飛び散る賑やかさである。

 戦後まもなくはこの宇田川町は暴力団が跋扈する飲み屋街で、「泣く子も黙る」といわれるほどの無法地帯だったという。今は町を歩いているとレコード店や古着屋が何軒もあることに気づくが、この辺りはワシントンハイツ時代に米兵たちが引っ越し前にレコードや古着を売りに来たところであり、「本場アメリカ」に憧れた若者たちが我先に買っていった場所なのだ。こうして渋谷は最先端の音楽とファッションがいち早く入る町となった。

 ワシントンハイツ時代が終わって数年後の1967年、渋谷に東急百貨店が現れた。それに対抗するように1973年、西武資本でPARCOが完成した。両社ともに単なる百貨店以上の付加価値をショッピングにつけた。それは新しいカルチャーの発信基地としての店舗である。さらに渋谷の町を自分の店に来てもらうための「渡り廊下」として利用し、スペイン坂などを歩いて街歩きそのものを楽しみ、渋谷という「舞台」でおしゃれに歩く自分自身を「演じて」もらう、いわば劇場としての町を作り上げたのだ。

 とはいえ、この街自体も若者の共同幻想であることは明らかだ。「共同幻想論」の序で吉本はこのようにまとめている。

「国家は共同の幻想である。風俗や宗教や法もまた共同の幻想である。もっと名づけようもない形で、習慣や民俗や、土俗的信仰がからんで長い年月につくりあげた精神の感性も、共同の幻想である。」

 

レジェンドを未来に求める渋谷

 こうして大企業の資本をバックにアーバンカルチャーの発信基地と変わっていった渋谷で80年代に生まれたのは、アメリカのブランドファッションをアレンジして着こなす「渋カジ」であり、アメリカの音楽を日本のアーバンライフに合わせて日本語または英語で歌う「渋谷系」の音楽である。

 これらは言うまでもなくアメリカ文化の土着化である。とはいえ豊かになった日本の若者は彼らの父親世代と比べるとアメリカへの憧れは薄まっている。吉本はある共同体から歴史が途絶えてしまった際、それを取り戻す可能性についてこう述べる。

「これを復元する可能性は〈神話〉にもとめられる。わたしたちが原理的に正当に〈神話〉をあつかう方法をもっていれば、である。」

 スクランブル交差点で立ち止まりながら思った。渋谷のアーバンカルチャーのルーツは明らかにワシントンハイツであり、それを広めたのはPARCOや東急等の大資本である。しかし「種」となったワシントンハイツはすでに「レジェンド」にすらなっていない。もうこの町はレジェンドさえ必要としていないのだ。

 信号が青になった。みな一斉に動き出した。私も歩き出した。もしかしたらこの生き物のように動き回る町そのものがすでにレジェンドなのかもしれない。下町のレジェンドは浮世絵や祭や歌舞伎や相撲など、江戸時代に求めがちだ。奈良県では卑弥呼の時代に、また猪飼野の在日コリアンも渡来人の時代にまでレジェンドをさかのぼらせる。遠野もまたしかりでレジェンドは過去にある。一方この街のレジェンドはみな未来に求めるのかもしれない。この「レジェンドの共有」こそ、吉本のいう「共同幻想」に違いない。

 

共同幻想からも自己幻想からも距離を置く

 「共同幻想論」の旅の最後に渋谷区を選んだのには理由がある。吉本がこの本を執筆する契機となったのは、戦後の混沌によってそれまで正しいと思っていたことがたった一か月かそこらで変わってしまい、さらに人々も無理しながらもすんなりとその激変に順応していく様子を見て、戦前の「明治神宮的」共同幻想と戦後の「ワシントンハイツ的」共同幻想に引き裂かれた吉本ら当時の日本人の心が可視化できる象徴的な場所が渋谷区だったからだ。

 戦後まもなく勤労動員で送られていた富山県から東京に戻ってきた吉本も、人々の変わりように驚いたという。それまで「御国のために命を捧げん」としていた軍人が食料を奪い合っているのを見ただけではない。貞淑で恥じらいを知るはずの「やまとなでしこ」が米兵にまとわりつき、渋谷では米兵にラブレターを翻訳・代筆する人間が現れたが、最も有名なのはなんと英語の達者な元陸軍中佐だった。

 109の裏側に見落としそうな「恋文横丁ここにあり」という碑文が残されているが、もし吉本がその時の姿を見たとしたら「ここまで地に堕ちたか」と思っただろう。一つの共同幻想が崩れた後に、新たな共同幻想が現れたが、それに対して人々はどのように立ち向かったのか。

「〈共同幻想〉をひとびとが、現代的に社会主義的な〈国家〉と解しても、資本主義的な〈国家〉と解しても、反体制的な組織の共同体と解しても、小さなサークルの共同性と解してもまったく自由であり、自己幻想にたいして共同幻想が〈逆立〉するという原理はかわらない。」

つまり「御国のため」「民主主義」等、自分の信じていることさえ「自己幻想」であると悟ること。そしてそれはややもすると「大東亜共栄圏」「平和主義ニッポン」等といったより大きな「共同幻想」に取り込まれがちであること。一方で自分の考えをも絶対視しなければ「共同幻想」などを絶対視しないはずである。共同幻想はもちろん、自己幻想をも疑い続け、両者から距離を置くことで自由になることを、彼は訴えたかったのだと思う。

 レジェンドを過去にではなく未来に求めて日々新陳代謝を繰り返し続ける渋谷駅に向かおうとしたとき、鮮烈さとどす黒いものが渦巻く巨大な壁画が目に入った。タイトルは「明日の神話」。岡本太郎だ。渋谷は明日のレジェンドという個人幻想が共同幻想となった街。窓の外のスクランブルをかける人々を横目に、山手線のホームに向かった。(了)

 

 

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