見出し画像

本牧と鶴見ー横浜の様々な顔

エレキとGS
 横浜生まれの60年代のスターとして特筆すべきは、ベンチャーズ等のエレキサウンドを完全に日本化し、エレキ民謡を確立した寺内タケシとブルーンジーンズ、そしてGS(グループサウンズ)のトップスター、ゴールデンカップスの存在である。そもそもなぜ60年代に横浜がスターを生み出したのか。その背景には終戦から1982年まで、山手の本牧が実に37年間にわたって米軍の居住地域として指定されていたため、米国直輸入のジャズやロックなどがバーで鳴り響いていたことが挙げられる。
 寺内タケシは茨城県土浦生まれだが、戦時中5歳にしてエレキギターを開発したと自伝にはある。50年代末に横浜の関東学院大学に入学するため横浜に来ると、学問はそっちのけで本牧の米軍バーでプレイしていたという。
 しかし「日本の音」「日本のにおい」を追い求めた結果、地元横浜の「ノーエ節」や「津軽じょんがら節」等の民謡をエレキで演奏したかと思うと、「エレキは不良のおもちゃ」という世間の声に反発して、赤字を出しながらも日本中の高校の体育館でエレキギターの素晴らしさを伝えたりもした。エレキ=ロックに貼られた「不良」のレッテルは、米軍基地の持つ暴力性、または保守層に対する反抗と表裏一体だったのかもしれない。
 同時期に横浜で活躍したゴールデンカップスは、外国航路専門のクリーニング店の息子、デイヴ平尾や中華街生まれの華僑、エディー藩、そして日系米人やハーフの青年たちが結成したバンドであるが、メンバーの多くがやはり「不良」だったという。彼らのルーツ、横浜や本牧を歌ったヒット曲に「横浜ホンキートンク・ブルース」や「本牧ブルース」がある。メンバーの一人、柳ジョージの「FENCEの向こうのアメリカ」には、自らを身下ろす存在でありながら憧れないではいられないアメリカという存在が歌われている。

フェンスの外と中の関心の不均衡
 当時の面影が辛うじて残るところとして、根岸森林公園の競馬場の建物の周辺があげられる。ただ、ここに住んでいた米軍およびその家族は、「フェンスの外の日本」にはほぼ関心はなかったのだろう。アンダーソンは中南米のスペイン語新聞を引き合いにこう述べている。
「植民地のクレオールは、機会があればマドリードの新聞を読んだかもしれないが(しかし、そこには彼の住む世界については何も書かれていない)、同じ通りに住む半島人の役人の多くは、できることなら、カラカスの新聞など読もうとはしなかったであろう。この非対称性は、他の植民地の状況においても、無限に反復されうるものだった。」
 米兵たちがこの基地内で読んでいた新聞やニュースは、本国のもの、または朝鮮やベトナムといった、彼らが送られる前線に関するものが中心で、フェンスの外の日本にはさほど関心はなかった。JAPAN TIMES等の日本の英字新聞さえほぼ無視されていたのだ。この情報とまなざしの不均衡こそ、植民地のリアルであり、南米諸国はそこから独立を果たしていったが、一方の本牧は「独立運動」のないまま1982年にようやく全面返還された。
 それにしても丘の下の中華街では紅衛兵が「造反有理」「革命無罪」等、「大陸舶来」の言葉を叫んで乱暴狼藉をはたらいてていたころ、丘の上の山手では様々な背景を持った同世代のミュージシャンが米国舶来のロックをシャウトしていたのが、60年代後半の横浜だったのだ。

鶴見ー朝鮮人と沖縄人
 1923年の関東大震災の折、激震地だった首都圏各地で「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマに踊らされた人々が自警団を組織した。そして無実の朝鮮人、または朝鮮人だと思われた人々を取り調べては朝鮮人と断定された人々を刀などで殺傷する事件がここ横浜各地でも相次いで起こった。
 この横浜にもあちこちに虐殺された朝鮮人の慰霊碑があるので、数珠を片手に集中的に歩いたことがある。地下鉄吉野町駅近くの宝生寺や菊名駅近くの蓮正寺、新横浜駅近くの東林寺などにあるこれらの慰霊碑で手を合わせつつ、何とも言えない「民族的罪悪感」を感じている自分に気づいた。
 その後、横浜市の工業地帯、鶴見駅で下車して歩いてみた。この町は沖縄や朝鮮などの「植民地」の労働力によってまかなわれてきた。アンダーソンはこう表現している。
「王朝の結婚は、多種多様な住民を新しい頂点の下にまとめあげた。」
 琉球王国は明治初期に、朝鮮王朝は明治末期に、大日本帝国と「結婚」させられたため、両地域の困窮した労働者たちがこぞってこの町にやってきたのだ。
 鶴見川を渡ってしばらくいくと、「沖縄タウン」があるというので行ってみた。2022年のNHKの朝ドラ「ちむどんどん」の舞台の一つにもなったというので多少期待してはいたが、何軒かまばらに沖縄の食堂があるだけで「沖縄タウン」というのはいささか羊頭狗肉の感がいなめない。ただこのあたりに沖縄からの労働者とその家族が肩を寄せ合い集住していたことはまぎれもない事実である。
 ちなみに沖縄の店に紛れるように南米系の店もちらほらする。工業地帯だけに平成以降南米系労働者も増えているのだ。

体を張った正義
 「沖縄タウン」の東漸寺という寺院で大川常吉という警察官を顕彰する石碑を見た。ここ鶴見でも派出所に朝鮮人らしき人物が井戸に毒を入れたとして連行されたが、46歳の大川分署長は朝鮮人が毒を入れたとされる水を飲んで彼らの無実を晴らした。彼らは中国人だったという。
 さらに流言飛語は過激さを増し、千人以上もの群衆に取り囲まれ、殺されそうになっている約三百人の朝鮮人、中国人の命を殺気立った自警団と群集心理にかられた市民から保護した。彼らを引き渡すように自警団にいわれても、大川分署長は「やるなら自分を殺してからにしろ!彼らの中に犯罪者がいれば、本官が腹を切ってお詫びする!」と一世一代の大見得を切った。その気迫に押されたのか、群衆は四散したという。
 ヘイトクライムに敢然と立ち向かう人物が国家権力側にもいたという事実を顕彰する石碑を見たときは、「民族的罪悪感」にさいなまれつつあった自分の中に一筋の光が見えてきたかのような気持ちが沸き起こってきた。ねじ曲がったナショナリズムをはねのけるほどの迫力があったからこそ群衆も彼の体を張った正義感に我に返ったに違いない。
 そこからしばらく行くとJR浅野駅であり、その隣は安善駅である。浅野とは浅野セメント等を築いた浅野財閥から、そして安善とは渋沢栄一とともに浅野セメントに出資した安田財閥の安田善次郎の略称である。近代日本資本主義の構図、つまり財閥の下にまとめあげられた旧植民地の多種多様な住民の図がピラミッドのように脳裏に浮かんだ。
 「港町ヨコハマ」とはいうものの、横浜市は本牧の米兵と山下町の華僑、鶴見の朝鮮人と沖縄人労働者など、居住地域によって民族構成が異なり、そしてそれがピラミッド状になっている事実にはあえて目をつむりがちなのが興味深いところだ。(続)













この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?