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横浜中華街 天災、戦災、人災に翻弄された華僑たち

「三種の刃物」から始まった中華街
 JR石川町駅で電車を降りると心がはやる。横浜のシンボルともいえる中華街。現在のように牌楼を立てて観光地としたのは、1950年代以降のことという。それまで「南京町」と呼ばれていたこの地区を「中華街」としたのは、50年代の横浜市長が米国視察に赴いた際、現地のChinatownを見学して「横浜の南京町も『中華街(Chinatown)』と呼んで観光拠点にしようではないか」と思い立ったからという。
 ここは日本人から見ると十分「エキゾチック」なのかもしれないが、おそらく中国本国の観光客から見てもなにやら「作り物」的な空間であると思われがちだ。とはいえこの「作り物」っぽさは世界のチャイナタウンに共通して言えることかもしれない。ここは中国人の町というよりも、国を離れた中国人が、外国人からいかにみられるかという視点を考慮に入れつつ脳内で想像して作った商店街だからだ。
 横浜に華僑が大量に到来したのは日米修好通商条約締結後のこと。開港後横浜に集まった日本人商人たちのほとんどは外国人との取引に漢文を使った。その漢文を英訳し、英文を漢文に訳していたのが、欧米人にやとわれた英語を話す広東人たちだったのだ。ただ彼らは和食は口に合わず、食べなれた広東料理を好む。そこに本国からコックたちがやってきた。当時の男性は辮髪だったため、髪結いもやってきた。そして彼らの服をあつらえるテーラーもやってきた。そこで包丁、髪結いのはさみ、裁ちばさみという「三種の刃物(三把刀)」を携えた華僑たちがこの町を形成していったのである。そしてこの町は次第に「唐人街」と呼ばれるようになった。

辛亥革命の「梁山泊」だった中華街
 彼らの中から成功者が現れると、ここは一連の中国革命の拠点となっていった。唐人街は孫文や梁啓超ら革命家だけではなく、実に様々な人を受け入れ、送り出した。革命家たちが清朝を倒すべく潜伏する「梁山泊」の役割をするこの町の華僑たちは、孫文の要望を受け入れ、後の中華民国の国旗「青天白日満紅地旗」を作った。
 また辛亥革命の年に生まれた音楽家、聶耳(ニエアル)も亡命先として日本を選んだがが、1935年にわずか三か月の滞在期間に後の中華人民共和国の国家「義勇行進曲」を作曲したのち、鵠沼(くげぬま)海岸で謎の溺死を遂げた。彼が作曲したのは横浜なのか東京なのか湘南なのかは知り得ないが、国旗も国家もこの町を中心にしてできたこと、そしてこの「梁山泊」なくして革命は成り立たなかった事実は、日中関係史のなかでも記憶されるべきことだろう。このことに関してアンダーソンはこう述べている。
「当時のさめた分析者ならだれでも、いずれの国においても、まもなく革命が起きるとか、革命が破滅的勝利に終わるとか、予見しなかったであろう。(事実、これとほとんど同じことが、ほとんど同じ理由で、1910年の中国についてもいえる。)それを可能としたのは、結局のところ、「革命を計画し」「国民を想像する」ということであった。」
 つまりこの町を拠点に満洲族の支配を打ち破り、「中国人」の国を作ることを画策し、実行に移せたのも、彼らが「中華民族」というコンセプトを想像し、共有できたからに他ならないのだ。
 
 関帝廟
 この町の華僑たちの篤い信仰を受けてきた関帝廟は、1886年に広東系の華僑たちの心の拠り所として建設された。日本の商売人はしばしば店舗に恵比寿大国を祭るように、広東系華僑たちは商売に大切なのは信義であると考え、信義を守る英雄、関羽を、広東系華僑は店舗のなかにも赤い祭壇をしつらえて拝んでいる日本におけるその信仰の「総本社」が横浜の関帝廟といえるだろう。
 ある年の10月10日にここを訪れたことを覚えている。毎年この日は中華民国が誕生した「双十節」であり、町中に例の横浜生まれの中華民国の国旗「青天白日満紅地旗」が秋風にはためいていた。関帝廟に隣接するところには孫文が建てた横浜中華学院があり、ここにも校庭いっぱいにあの旗がはためいている。とはいえ、この町の住民がすべて国民党支持者というわけではない。政治的にも文化的にも、実に様々な背景を持つ人々が「中華民族」というコンセプトを信じてここに定着しているのだ。アンダーソンはいう。
 国民は、限られたものとして想像される。なぜなら、たとえ10億の生きた人間を擁する最大の国民ですら、可塑的ではあれ限られた国境を持ち、その国境の向こうには他の国民がいるからである。いかなる国民も自らを人類全体と同一に想像することはない。
 ここの華僑、そして日本に帰化した華人たちの集まりの実態は「日本に住んでいても日本人ではなく、もちろん在日コリアンでも在日米軍でもない、『中華民族』の血をひく者」という、「〇〇でない人々」のような比較的ゆるいつながりを持つ人々の寄せ集めに近いのが実態だ。

震災と戦災と人災
 1912年に中華民国が誕生してから、この町は天災、戦災、人災等、何度も壊滅的な危機に見舞われた。1923年の関東大震災で地盤のゆるい山下町は壊滅し、2000名以上もの人が犠牲となった。倒壊した関帝廟は、二年後に復旧させた。
 日中戦争が勃発すると多くの華僑が帰国した。ただ国民党が共産党と手を組み日本と戦う蒋介石政権と、「親日政権」とされる汪兆銘政権に分裂すると、在日華僑は汪兆銘政権を支持する者が多数だったために、「敵性外国人」として日本側の監視下にありながらも「準日本人」扱いされ、戦争に協力する代わりに財産の没収などは最低限に抑えられた。もちろん軍部に反発して拷問死した華僑もいた。
 ところで横浜は実は原爆投下予定地の一つだった。そのため1945年5月まで「実験結果」を検証するために大規模な空襲は控えられていた。しかし5月28日に米軍は原爆投下候補地から横浜を外した。すると方針が一変し、翌29日にB29が大挙して飛来し、この町を焼き払い、一万人近くの犠牲者を出した。もちろんこの中には横浜に残った華僑も含まれる。この時またもや関帝廟は焼失した。
 戦後の彼らの立場は「戦勝国民」として連合国の一翼を担うことになった。しかし問題は、華僑の多くが国民党とはいっても日本で生活していくために親日汪兆銘政権を支持し、戦勝国中華民国の蒋介石政権とは敵対関係にあったことだ。さらに日本に居住していた日本の傀儡国家、満洲国の出身者もいれば、それまで半世紀にわたって「日本人」扱いだった台湾人もいる。にもかかわらず彼らが「中華民族」という想像の共同体の一員として十把一からげにされたのは実に興味深い。ここでも彼らのまとまりのシンボルは、イデオロギーでも言語でもなく、焼失の二年後に再建した関帝廟だった。

イデオロギーに分断された華僑たち
 しかし冷戦期には国民党と共産党の内乱がこの狭い町をも分断した。中華人民共和国が成立してしばらくたった1952年、中華学校もイデオロギーによって分裂した。中華学校でも共産党勢力が強くなり、それをおさえるために本国の国民党はなんの前触れもなく新校長として黒竜江省出身の元国民党特務、王慶仁を学校に着任させた。そこで学校内で文字通りの激闘が起こった。
 結局学校は王校長率いる国民党が、小中学あわせて約860名いた児童・生徒のうち、660名の共産党支持者子弟を追放することで幕を閉じた。その後、追放された生徒たちの保護者は山手に横浜山手中華学校を建てた。本来これらの学校は異国で生まれた「黄帝の末裔たち」「龍の伝人たち」に母語と母国の文化を継承すべく建てられたはずだった。華僑にとって中国語というのは母なる祖国との絆でもあったからだ。言語についてアンダーソンはこう述べている。
「ナショナリズムを発明したのは出版語である。決してある特定の言語が本質としてナショナリズムを生み出すのではない。」
 つまり、「中国語」だから彼らのナショナリズムになるわけではない。現に広東人が主流、三江(浙江省、江蘇省、江西省)出身者が傍流という横浜南京町で、「祖国」の「国語」を日常的に話す人はほとんどいなかったのが事実である。戦前は広東語などの方言で授業を行っていた。しかし昭和の中華街では「出版語としての中国共通語」が学ばれ始めた。逆に言えば戦後はそれのみが各中華学校における共通語となっていったのだ。
 このことからも、広東語など、特定の言語が本質的にナショナリズムを生み出すのではないことがわかるし、一方で共産党の香港における弾圧が高まる2010年代末期以降の香港では、広東語こそが香港ナショナリズムの担い手となっている。ただ広東語による本格的な出版は一部を除いて発展段階という。

文革期の中華街
 1960年代後半の文化大革命の余波は横浜などの中華街をも巻き込んだ。特に大陸側の国慶節(10月1日)から台湾側の双十節(10月10日)までの十日間は、中華街では紅衛兵によるイデオロギーに基づいた乱暴狼藉がひどかったという。そして1972年の日中共同声明の時には数十人の共産党支持者の華僑青年たちが王元校長を暴行し、刀であごを斬ったという。
 王校長はだれの仕業かわかってはいたが、「将来ある華僑青年の前途のために」と考え、告訴しなかった。蒋介石の「以徳報怨(徳をもって怨みにこたえる)」という思想があったのかもしれない。が、なによりも思想は異なっても同じ共同体の一員である、いや、あるべきだ、という原則を貫いたのかもしれない。アンダーソンの言葉を思い出す。
 国民は一つの共同体として想像される。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛として心に思い描かれるからである。この同胞愛の故に、過去二世紀にわたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである。
 「想像力の産物のために、殺し合」おうとしたのは、大陸だけではない。小さな横浜の街角でこのことが続いたのだった。そして日中国交正常化の前後、中華民国国籍だと中華人民共和国の国籍に自動的にスライドするといううわさが流れると、日本に帰化する華僑たちが続出した。特に台湾出身者の中には、戦後日本籍から有無を言わさず中華民国の国籍にスライドさせられた経験があったことも、その流れに拍車をかけたのだろう。ただ、日本籍をとっても「中華民族」であることには変わりはなく、「日本国」という想像の共同体の一部にならない人たちも少なくなかった。

不審火で燃えた関帝廟
 十年の文革を終えた大陸が改革開放政策の真っただ中の1986年元旦、不審火で戦後の関帝廟が焼失された。本尊の関帝や観音像などは奇跡的に無事だったとはいえ、特に台湾系の人々は意気消沈した。早速再建に動いたが、中華学校内部から人通りの多い現在地に移すにあたって問題が発覚した。現在地にあった建物は大陸系の華僑総会が仮処分をかけていた場所だったのだ。そこでまず大陸側と台湾側が手を取り合って関帝廟を再建させることとなったのだが、その中心人物が前述の王慶仁元校長だった。
 幾多の困難を乗り越えてきたこの関帝廟を今、改めて詣でると、信仰心はそれほどわかないが、こんなちっぽけな町で震災と戦災と政治によって傷つけあった人々が信じてきた「中華ナショナリズム」の頑迷さと同時にその可能性をも感じないではいられない。(続)


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