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新聞と憲法のふるさと、横浜

新聞のふるさと、横浜
 アンダーソンによると新聞がナショナリズムを生んだという。例えば今朝読んだ新聞を、北は北海道から南は沖縄までみな読んでいると想像すると、会ったこともないその購読者の居住する範囲が国家であり、毎朝同じ新聞を読んで同じ情報を仕入れている人の集まりを「国民」と意識するようになったからだという。
 この新聞というメディアを考えるにあたり、最も大切な場所として横浜を歩いてみた。日本大通り駅を出てすぐのビルには「ニュースパーク」という愛称で知られる、その名も「日本新聞博物館」が入っている。それもこの町が日本における新聞発祥の地だからだ。
 日本初の新聞は米国籍を取得した漂流民、ジョセフ彦が1864、5年にこの町で「新聞誌」を発刊した。そして明治に入ると1871年、ついに日本初の日刊新聞「横浜毎日新聞」もこの町で発刊された。この博物館にはこれら最初期の新聞が展示されているだけでなく、明治から現在までの歴史を飾るトップニュースの紙面がみられる。アンダーソンは新聞がもたらしたナショナリズムについて三点考察している。
「これらの出版語は、三つのやり方で国民意識の基礎を築いた。第一に、もっとも重要なこととして挙げるべきは、出版語が、ラテン語の下位、口語俗語の上位に、交換とコミュニケーションの統一的な場を想像したことである。」
 私たちが使用している「日本語」は、実は明治時代に「発明」された。それまでは、いやその時でさえ政治をおさえていた薩摩人は薩摩弁、長州人は山口弁、商業をおさえていた近江商人や伊勢商人、大阪商人は関西系の諸方言、しかし明治天皇とその取り巻きは京ことばで、「首都」となった東京の庶民は江戸っ子のべらんめえ口調だった。話し言葉の共通語はあってないようなもので、正式な書き言葉は文語体、日米和親条約等の外交における条約の文言も漢文だった。
 そこで江戸時代を通して武士たちの居住区だった山の手の言葉を、「出版語」としていった。つまり、漢文の下位、口語俗語の上位に、「実生活ではだれも口にしない」という意味では平等な、「想像の共通語」を作り上げたのだ。そのうち文学の世界では口語と文語をより近づけるための「言文一致」を目指す二葉亭四迷の「浮雲」のような作品もでてきた。これも「想像上の国民」が「想像上の共通言語」で話す「想像の共同体」を目指すものだった。

「出版言語」の形成とナショナリズム
 アンダーソンは続ける。
「第二に、出版資本主義は、言語に新しい固定性を付与した。これがやがて、主観的な国民の観念にとってかくも中心的なものとなるあの古さのイメージを作り出すのに役立つことになる。」
 いつの世でも口語より文語が伝統的な重々しさ、公式的な非日常性を持つものだ。新聞で毎日目にする出版用の言葉は、読者の中で「新しい権威」として瞬く間に定着していったのだ。そして地方的に偏りのないと思われた「標準語」の向こうにあるのは、この国家の「想像上の標準」だったに違いない。とはいえ、次第に人工語だった「出版語」からできた「標準語」を母語とする者も次々に出てきた。アンダーソンはさらに続ける。
 第三に、出版資本主義は、旧来の行政俗語とは別種の権力の言語を想像した。出版語が出現すれば、いくつかの方言が、それぞれの出版語に「より近い」ものであることは避けられず、そうした方言がやがて出版語の最終形態を支配することになった。
 明治時代の横浜の人々はどのような言葉を話していたのだろうか。「横浜弁」が形成される前、外国人とはピジンを話すというのはアジアの開港地ではよくあることだったろうが、少なくとも令和の現在、話し言葉だけで横浜人かいなかを判断するのは困難なほど、横浜ことばは彼らの先祖が出版した新聞の「出版語」により近いものになっている。いや、新聞のような言葉など話さない、という方もいるだろうが、これは比較の問題である。東北や北関東、日本海側や関西、九州や沖縄など、首都圏から少し離れるだけで、横浜の言葉が「出版語」にいかに近いか感じるだろう。

野島で完成した大日本帝国憲法
 横浜と横須賀の境に野島という島と埋立地がある。ここは明治時代に伊藤博文が別邸を持っていた場所であり、彼がプロイセンの憲法をもとに大日本帝国憲法を完成させた場所でもある。この憲法は参議だった彼がベルリン大学のグナイストや、ウィーン大学のシュタインらの助言を受けて編纂させたものだが、その文章は漢文を訳読したようなかたい表現である。
 すでに完成しつつあった出版語とは大きな違いだ。新聞にみられる出版語は、この国土にこの文章を毎日読む国民の存在を読者に想像させたが、一方で近づきがたい旧時代風の重々しい漢文をあえて使うことにより、改めて万世一系の天皇の統べる国家を想像させたのだ。アンダーソンは言う。
「近代的概念にあっては、国家主権は、法的に区分された領土内の各平方センチメートルに、くまなく、ひらたく、均等に作用する。」
 19世紀半ばまで、国境ははっきりとひかれていなかった。幕藩体制下の法制度も、蝦夷地や琉球などにおいては曖昧であった。それが1889年当時の領土、北は千島列島から南は沖縄まで、隅々にわたってこの大日本帝国憲法を遵守するようになったのだ。(続)


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