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ファノン片手にアイヌを歩く

ポストコロニアルな北海道
 フランツ・ファノンの「黒い皮膚・白い仮面」が2021年にNHK「100分de名著」で取り上げられたときは正直驚いた。1925年カリブ海の仏領マルティニーク諸島で生まれ育ち、高い教育を受けていたが、黒人だったため島の白人から差別を受けてきたファノン。しかし自身を「自由・平等・博愛」を国是とするフランス人と考えていたため、ナチスによってパリが陥落すると「祖国」と信じるフランスに再び自由、平等、博愛をもたらさんとして「自由フランス軍」の一員としてナチスと戦ったファノン。屈折しながらも激しい青春時代である。
 そこで「名誉の負傷」を負った彼だが、参戦を通して各地から集まったアフリカ等の植民地出身者を彼自身が「ニグロ」とみなしている、つまり白人の目線で彼らを蔑視している自分に気づいた。それでいながら戦後留学生活を送ったフランス本国では、見知らぬ子どもから「ニグロ」呼ばわりされたのが彼にとっては衝撃だった。そして彼は精神科医として赴任した仏領アルジェリアにて独立に身を挺することになる。
 カリブ海やアルジェリア、フランスなど、日本とは遠い国の話だとはとても言えない。宗主国から政治的に独立したと思える国々も、かつての植民地主義のくびきから政治的、経済的、文化的に逃れ切れていない状態を批判的に分析する「ポストコロニアリズム」という学問分野がある。そして日本はまさにその渦中にいる。それは中国、朝鮮半島などから植民地統治や戦時中の言動に対する応じ方を糾弾されるだけではない。日本国内でもまだポストコロニアル以前の「コロニアル」状態にある場所が米軍基地の町以外にも現に存在するからだ。
 今回の旅はこれまでのような日本の古典や近代文学とは異なり、ファノンの名著でポストコロニアル理論の金字塔ともいえる「黒い肌、白い仮面」や「地に呪われたる者」などをもって「魅力度ランキング首位」の常連、北海道を周るという、いわば「ダークツーリズム」にお付き合いいただきたい。この後、北海道のグルメや美しい風景などを期待している方は、その期待に沿いかねることをあらかじめお断りしておきたい。

「アイヌモシリ」と「開拓」
 羽田を出発した飛行機は2時間弱で北海道の大地が窓の下に広がってきた。「アイヌモシリ」、すなわち「人間の大地」である。じきに新千歳空港に着いた。東京はお盆前の酷暑だったが、到着してみると秋雨がしとしと降っていた。訪日客も多いためか、壁にかかる歓迎を表す言語も、日本語の他「Welcome/热烈欢迎/熱烈歡迎/환영합니다」等各国語にまじって「イランカラㇷ゚テ(あなたのこころにそっと触れさせてください)」と歓迎を表すアイヌ語も混じる。そしてJRに乗り換えると、ここでも日本語の車内放送のあとに「イランカラㇷ゚テ」である。北海道に、いや「アイヌモシリ」に来たのだという思いが高まってくる。
 しかしこの空港も2015年には「北海道は、開拓者の大地だ。」と書いたバナーを掲げ、北海道アイヌ協会から猛抗議を受け、取り下げた。「開拓」とは先住民であるアイヌ人にとっては侵略行為に他ならないからだ。

キウス周堤墓群―アイヌ以前の先住民族は縄文人?
 レンタカーで世界遺産に登録されたばかりの「北海道・北東北の縄文遺跡群」のうち最北端に位置する千歳市のキウス周堤墓群を目指した。「キウス(ㇱ)」とはアイヌ語で「カヤの生い茂るところ」という意味らしいが、ここにいた縄文人は墓をつくるときに円形の竪穴を掘り、掘った土を円周に盛りかためた。上空から見るとドーナツ状に見える古墳である。約3200年前にできたというこの周堤墓は最大規模で外径83メートル、周囲の盛り土の高低差は5メートル弱である。まるでその千年後の弥生時代の環濠集落を思わせる規模だ。
 アイヌ人はこんな大きなものを作っていたのか、と一瞬思ったが、そんなはずはない。アイヌ人の民族的形成があったとすると、それは13世紀ごろ、つまり本州の鎌倉時代に相当するからだ。三千二百年前にいたのはアイヌ人でも和人でもなく、「縄文人」なのだ。ここで疑問に思ったことは、アイヌ人が北海道の「先住民族」であることは2007年に参議院も認められているとはいえ、私の目の前にあるこの周堤墓は先住民族以前の縄文人のものだ。縄文人は「先住民族」には入らないようである。「先住」の定義が気になりながらも、南に向かった。

 「ナイ」と「ペッ」
国道36号線を南は苫小牧方面を目指して走ると、じきにマガンや白鳥が飛来するサンクチュアリで、ラムサール条約登録のウトナイ湖が見えてきた「ウトナイ」とは「あばら骨のような川」という意味だ。アイヌ語の地名は川を意味する「ナイ(内)」または「ペッ(別)」という地名が実に多いが、それもアイヌ人の多くが河川の流域に住んできたことに由来するのだろう。ちなみに「ナイ」は沢のような小川で、稚内(道北)や静内(道央)、木古内(道南)などが、「別」は女満別(道東)、登別/江別(道央)などが知られている。
 産業都市として知られる苫小牧だが、アイヌ語で「トー・マコマ・ナイ(沼の後ろの川)」と、ここでも「ナイ」が隠れている。このアイヌ語由来の町を車で走っていると「拓勇」という地名が見えてきた。「拓く勇ましさ」という意味なのか。王子製紙をはじめとした本州の大企業の工場群が軒を連ねるこの町は、まさに勇猛な男たちが切り拓いていった土地なのだろう。しかし「拓勇」の表示はまるで川とともに生きてきたアイヌ人の土地に楔を打ち込んだかのような感じがしてきた。このような見方がポストコロニアルを学んだ人間の見方なのだろう。

中国少数民族地区のような白老                                                       
 市街地を抜け、西に進む。支笏洞爺国立公園の一部、樽前山と太平洋に挟まれた36号線を進んでいくと、じきに白老についた。宿の周りの表通りから白老駅にかけてはいたるところにアイヌ文様が目に付く。この前この町を訪れたのは2013年だったが、こんなにこざっぱりとしてはいなかったし、このような文様はほぼ記憶にない。2020年にウポポイが完成したのと時を同じくして表通りがアイヌ文様だらけになったという。この渦巻き状の文様、どこかで見たと思ったら、キウス周堤墓付近の資料館で見た縄文土器の縄目文様そっくりではないか。
 私は歩きながら、かつて歩いた吉林省長春郊外の伊通満族自治県を思い出した。満州族も少なくなく、表通りには満州語の表示がなされているが、満州語を話す人はほぼいない。ただ満州族の自治を保障するという建前、もっというなら民族自治の「アリバイ」として満州語表記がなされているかのようなのだ。

「ハンサムニグロ」と「アイヌ美人」
 夜は近くのジンギスカン鍋専門店に向かった。紙製のマスクケースをもらったが、やはりアイヌ文様が印刷されている。二十代後半に見える地元民の店長がいうには、やはりこの町にはアイヌ人も少なくないが、アイヌの女性にはほりが深くてきれいな人が多いとのこと。ファノンが白人女性に容姿を「褒められた」ときの一節を思い出した。
「ほら、ハンサムじゃない。あのニグロ……。 」 ──奥さん、ニグロがいい男だからってどうなんです。彼女は恥ずかしさに赤くなった。私はやっと自分の反芻から解放された。と同時に私は二つのことをなしとげた。私は敵の正体を突き止めた。(中略)戦場が定まったので、私は戦端を開いた。
 彼は容姿によって人を判断するいわゆる「ルッキズム」を批判したわけではない。美の基準は白人にあって、「ニグロ」は醜くあるはずと思わされていたのだが、「黒人にもハンサムはいる」と思い直した目の前のご婦人の偏見を正した。このことより自らの人種的偏見に気づいた彼女をはじいらせたのだ。「敵の正体」とはなにか。それは「白人=美」「黒人=醜」という固定観念なのだろう。そして多くの人―白人はもとより、黒人である彼自身もその固定観念から逃れることは難しかった。
 ジンギスカン鍋の店長が「アイヌの女性=ほりが深い=美人」と考えたのは、もちろん彼自身の体験を通した感想だろうが、これはファノンが「黒人なのにハンサム」と白人女性から言われた以上にねじれている。江戸時代からすでにアイヌを劣った民族として隷属させてきた和人の我々がアイヌを描くときは、毛むくじゃらで素足の「野蛮人」として描きがちであり、明治時代には政府がアイヌ人女性の美意識がこめられた顔面の入れ墨を禁止したという過去がある。とてもアイヌ人女性=美人という図式が19世紀から成り立っていたとは思えない。しかし「ほりが深い=美人」というのは、そこに西洋人的な容貌を見たため、それを美しいと見たのかもしれない。
 「ハンサム・ニグロ」とまなざされたファノン以上にねじれたまなざしがここで感じられた。


アイヌ語だらけのウポポイ?
 翌朝は秋晴れの素晴らしい天気となった。装いも新たになった白老駅に向かうと、自販機やガチャガチャ、駅名が書かれたプレート、足ふきマットなど、駅舎のあちこちにアイヌ文様が見られた。何年か前まで古ぼけたさえない駅だったのが嘘のようだ。
 朝いちばんで民族共生象徴空間「ウポポイ」へ向かうと、東京かニューヨークか上海にでもありそうな巨大な現代アートのような建築が現れた。以前来た時にはここもお世辞にも立派とはいえぬ建物だった。安部政権下で総事業約200億円の税金をつぎ込んで建設しただけはある。
 訪問前に電話して開館時間を確認した時、「もしもし」ではなく、「イランカラㇷ゚テ~」と言われたのには少し驚いた。館内に入ると、ここでもスタッフたちのあいさつ言葉は「イランカラㇷ゚テ~」である。さらには展示品の多くが日本語と英語、そしてカタカナ表記のアイヌ語で書かれている。それどころか消火栓に「アペウシカワッカ チヤイ」と訳語が書かれている。そんなアイヌ語があったのかと思うが、「アぺ」とは「火」、「ウシカ」は「消す」、「ワッカ」とは「水」を意味するので、「火を消す水」という意味なのだろう。ただ始めは物珍しかったアイヌ語表記に違和感を覚え始めた。

薄っぺらなアイヌ語?
ファノンは言う。
「一つの国語を話すということは、一つの世界、一つの文化を引き受けるということである。」
 語学を学ぶ私たちにとって、まさに至言である。例えば英語を学ぶことで日本の首相は米国の総理大臣をファーストネームで呼び、握手をすることで親密さをアピールしようとするが、それは自分のなかに「英語的世界観・価値観」をインストールしたことに他ならない。
 あるいは中国語という語学体系をインストールした私は物事を考えるうえで「天地」「上下」「陰陽」など世界を二分化して考える癖がある。また韓国語をインストールした結果、親族呼称の中で母系より父系を、下の世代より上の世代を詳細に呼び分ける「儒教的価値観」を受け入れるようになった。語学をインストールすることはその世界観や文化までインストールすることなのだ。しかしファノンの場合、次のように続ける。
「白人になりたいと思うアンティル人は、言語という文化の道具をわがものにすればするほど白人に近づくであろう。」
 これを1898年施行の「北海道旧土人保護法」によって民族文化を事実上否定され、和人に同化する以外に道はなかったアイヌ人に当てはめるなら、
「和人になりたいと思うアイヌ人は、言語という文化の道具をわがものにすればするほど和人に近づくであろう。」
となる。私は私の意志で英語や中国語や韓国語を選び、言語とその背後にある世界観や価値観までインストールした。一方で20世紀のアイヌ人は公的機関において母語とその背後にある世界観、価値観を学ぶ機会を奪われたのは事実である。たしかにそれは政府にとっては不衛生で無学な「旧土人」を「保護」するための措置であり、当時なりの正義だったのかもしれない。
一方で、ウポポイに氾濫するアイヌ語は、それをインストールした先にどのような世界観や価値観があるのだろうか。なにやらアイヌ語を抑えてきた歴史などなかったことにして、世界観や価値観をインストールするわけでもなく、ステッカーをペタッと貼るかのようにアイヌ語で表記するのは、薄っぺらな感じがしないでもない。

中国そっくりのウポポイ
 通称「ウポポイ」として知られているこの空間は、国立アイヌ民族博物館、国立民族共生公園および慰霊施設からなっている。そのうち民族博物館は、文化と歴史を中心に実物や映像、パネルなどで分かりやすく解説している。全体的にはアイヌ民族に関する総合的なことが学べる施設である。しかしなにか足りないことに気づいた。
 端的に言えば和人による収奪行為や民族性の剥奪についてほとんど記していないのだ。だから何も知らぬ人が見れば「自然と共存してきたアイヌ民族が、なぜか不幸になってしまったが、けなげに生きてきたので彼らと共生すべきである。」というメッセージ以上のことは分からないようになっているのだ。民族問題の責任の所在はきれいにぼかされている。
 何かに似ている、と思ったら、中国の少数民族の資料館にそっくりではないか。満州族や蒙古族など、中国の少数民族の資料館では、体験を含む生活文化紹介と民族の共生がテーマの中心になりやすく、異民族統治に頭を絞ってきた共産党の意向が透けて見える。そしてそれらはもちろん民間人が建てたものではなく、全て共産党が建てたものであることは言うまでもない。
 しかし一カ所だけ、目立たないが私が「これは!」とおもったところがあった。見学順路の最後にある「19世紀の交易ルート」というパネルである。いわゆる「北方民族」たちの分布図があるが、アイヌ人の居住エリアは「北海道」に限らない。南は下北・津軽半島から北は樺太中部、東はカムチャツカ半島先端まで居住エリアとなっている。
 例えば樺太を例にとると、中部樺太にはウイルタ族がおり、さらには江戸時代後期に間宮林蔵が探検した北樺太から大陸アムール川河口を見ると、ニブフ族もいる。アイヌという存在は和人との関係性によってのみ生まれたのではない。こうした北方民族との相互交流によって「越境する」民族だったことが確認できたのが、ここでの収穫だった。
 私は中国の延辺朝鮮族自治州に住んでいたが、州内の博物館では「朝鮮族」というのは中国にいる人々のみしか扱っていなかった。しかしその背景には朝鮮半島および日本、樺太などにまたがる巨大な「居住地域」「集住地域」も存在することは表示されない。大地に国境がひかれ、国家に従属させられる以前のアイヌ人の生活がここのパネルでうかがわれた。

撤去されたシンボル
 2019年までポロトコタンと呼ばれたこの地が国立の博物館に「昇格」するまではここまで立派なものではなかったが、地元の財団法人(後に社団法人)による運営で、いい意味で「素人っぽい温かみと懸命さ」が感じられた。博物館から出て、民族共生公園となったところを歩いていると、以前のシンボル的なオブジェが見当たらないことに気づいた。1992年の夏、初めて来たときには入口あたりに高さ16メートルのアイヌの首長をかたどった巨大な像があったはずだ。
 職員に確認したら、国立博物館化する際に、老朽化によって撤去されたとのこと。調べてみると、あれは1976年の開館当時にはなく、地元のゴーカート場の閉園に伴ってそこにあったものを1979年に譲り受けたものという。昔はあの「手作り感」がたまらなかった。以来、四十年にわたって「ウポポイ」となるまえの「白老ポロトコタン」を見つめてきた守り神だと思っていた。しかし国立化に「昇格」したことで、あっけなく、実にあっけなく撤去されてしまったのだ。200億円の予算のうち一部を割いて修復しようという発想はなかったのだろうか。それまであったシンボルがリニューアルとともに撤去されるというのも中国っぽい。

「観光アイヌ文化」のジレンマ
 民族共生公園にはポロト(大きな沼)を背景にユネスコ無形文化遺産にも登録されているアイヌ舞踊や音楽が披露される野外ステージや、復元された五棟のチセ(アイヌ家屋)などからなる。このエリアは昔からあった。ただ、こざっぱりしすぎていて生活感がない。むかしはもっと雑然としていて「使用感」があふれていたように記憶している。
 竹を口に当てて音を出すムックリや弦楽器「トンコリ」の演奏、鶴の舞、剣の舞といった「定番」の芸能を鑑賞し、時間ごとに各チセでショーを見たが、正直言うと私はこのような「作り物」が苦手である。クライマックスで見ごたえがある場面だけを切り貼りしているかもしれないが、それがどの部分がカットされたか分からないからだ。また、そもそも神楽のように神に捧げるはずのものだったかもしれないこれらの芸能が演目の中にあったとしても、それらが観光客に捧げるようなものになってしまっては、文化継承という意味において本末転倒ではないかと思うからだ。
 見世物としてのアイヌ文化を「観光アイヌ文化」とするなら、これまで継承されてきた「本物のアイヌ文化」はこのままでは廃れる恐れがある。とはいえ、この事業は税金で運営されている。となると、これによってアイヌ人の雇用が生まれる。それがなければ自民族の文化継承を全くの「手弁当」で行わねばならなくなる。しかしそれでは継続性が保証できない。政府が妥協して、やる気もなかった先住民族の文化継承にお金を出しているという以上に、アイヌ人が妥協して完全版ではない民族舞踊や音楽を継承しているのだろう。ファノンの言葉をまた思い出した。
「政治闘争ないしは武装闘争によって原住民が獲得するものは、入植者の善意や思いやりの結果ではない。それは入植者にとって、これ以上譲歩を遅延させることが不可能になったことを示しているのだ。(中略)これは植民地主義の譲歩ではなくて、原住民の譲歩だ。」
 しかしその後私がたまたま見学した「語り部」はそれらと一線を画していた。四十歳くらいに見える二児の母親が、自分の受けた民族的無理解をみなの前で語ってくれたのだ。

アイヌの語り部で思い出した在日コリアンのこと
 アイヌ工芸の職人の孫娘として旭川で生まれた語り部の彼女は、中学時代に札幌に転校したら、そこの教師は「アイヌ人は毛深い」といって生徒たちを笑わせたうえで、「アイヌというのはもういない。」と言われたという。その偏見と無理解に彼女は深く傷ついた。クラスには自分というアイヌ人がいるのだが、自分は存在しないことにされたのだ。
 和人の友達、というか、必然的に札幌での環境では友達はすべて和人になるのだが、祖母の作ったアイヌ工芸品がならぶ自分の家に遊びに来させるわけにはいかない。無知と偏見がどのような形になって自分にはねかえってくるか、分からないからだ。さすがに家庭訪問の教師だけは受け入れねばならないため、祖母が作ってきた作品はすべて見えないところに隠したという。おそらく1980年ごろに生まれた彼女にとって、「平成」とはまだそのような時代だったのだ。
 私は聞きながら大阪の在日コリアンの同級生、「金田君」が語ってくれたことを思い出した。日本人の友達ができたので、自宅に呼ぼうと思ったけれどキムチ臭いといけないと思い、一週間窓を開けっぱなしにし、朝鮮的なものはすべて押し入れに隠した。さらにトイレに貼ってあった朝鮮総連のチマチョゴリを着た女性のカレンダーを見つけたためごみ箱に捨てた。外に出ると表札に「金田(金)」と民族名も書かれているため「(金)」をガムテープで隠した。
 準備万端と思って友達をまっていたら、孫の初めての友達が来ると喜んだおばあさんが台所で朝鮮料理を作ろうとするので「しばくぞ!くそばばあ!」と怒鳴ると、おばあさんは済州の方言で泣き崩れた。こんなところを友達に見られたらたまらないと、結局はうちの前まで来た友達とショッピングセンターに行った、というのだ。
 金田君はそれを冗談交じりの大阪弁でいうのだが、目の前のアイヌ人の語り部さんは淡々と「標準語」で語る。この事実に気づかなった自分を愧じるとともに、自分を含めた日本社会の人権感覚の低さに今さらながら驚き呆れた。囲炉裏を囲み、話を聞きながらも、目頭をおさえていた。

一億人の「支配者側」に語るための日本語
 なお、語り部さんはあいさつ言葉以外すべて日本語で語る。ファノンの言葉を思い出した。
「この言語を身につけることによってしか、母語クレオール語を否定することによってしか、支配者の側に近づくことはできない。」
 私は彼女が日本語を話すことを当然としてきたことに気づいた。現に彼女の母語は日本語であり、アイヌ語は教科書で学んだものであろう。現在アイヌ語を母語とする人はおそらく後期高齢者の中でもごくわずかという。だからといって彼女が日本語を母語とするのを当然と考えてよいのだろうか。ファノンたちが母語クレオール語を否定することで支配者(フランス人)に近づき、この植民地主義の矛盾と非人間性をフランス語で世界に向けて発信したように、彼女も母語である日本語で一億人の「支配者側」に語りかけ、この国の人々の認識を変えようとしているのではないかと思うことにした。
 民族共生公園で最も心を打ったのは彼女の語り部だったことは言うまでもないが、博物館内の展示にはかき消されているアイヌ人の「声」を語り部の肉声を通じて伝えるという手法も興味深かった。政府は200億円、つまり国民一人当たり170円の税金を使ってなるべく過去の政策を隠そうとするのだが、その隙間をかいくぐり、税金を利用させながらアイヌ人の本当の声が聴けるのがこの語り部コーナーではないかと思えてくる。
 最後にウポポイ三つ目の場所に向かうために、このポロト(大きな沼)を離れ、一キロ離れた「慰霊施設」に向かった。

「慰霊施設」とは
 実はウポポイの中で、当初私が最も気になっていたのはこの慰霊施設であった。ウポポイ公式HPの「ご利用案内」のタブを開くと、「アイヌ民族博物館」と「民族共生公園」のタブが大きくあり、その下に「ショップ」、「レストラン・フードコート」とならび、最後に「慰霊施設」がある。が、この説明がはっきりしない。
「過去に発掘・収集され、全国各地の大学において保管されていたアイヌ民族の遺骨・副葬品のうち、直ちに返還できないものについてはウポポイに集約されています。
慰霊施設は、アイヌ民族による尊厳ある慰霊の実現を図るとともに、受入体制が整うまでの間の適切な管理を行うための施設です。」

 事情を知っている人向けの解説ではあろうが、一般人から見ると「アイヌ人の墓か?」となることだろう。「慰霊」という表現が使われるからには不本意な死を遂げた人なのか、気になるが、それに関してはこう続く。
「アイヌの人々の遺骨やこれに付随する副葬品は、古くから人類学等の分野で研究対象とされてきました。明治中ごろには、日本人の起源をめぐる研究が盛んになり、研究者等によってアイヌの人骨の発掘・収集が行われ、昭和に入っても続けられました。その結果、数カ所の大学等に研究資料等としてアイヌの人骨が保管され、それらの中には、発掘・収集時にアイヌの人々の意に関わらず収集されたものも含まれていたと見られています。」
 いかにも奥歯に物が挟まったようなお役所的記述ではあるが、「アイヌの人々の意に関わらず収集された」遺骨とは、ストレートに言えば学者による盗掘である可能性が極めて高い。とはいえ、百聞は一見に如かずである。まずは現場に向かってみた。

1キロ先なのに迷う道
 慰霊施設に行くまでのわずか1㎞だが、カーナビには見当たらなかったので迷ってしまった。しかもルートはアイヌ民族博物館の駐車場から一本道である。矢印も何もないため、3㎞ほど進んでゴルフ場が見えたあたりで何かおかしいと思い、引き返すことにした。帰り道にようやく坂道の途中にそれらしき施設の駐車場を見つけた。大人が四人乗っていて見落としてしまうほどの分かりにくさである。この場所は明らかに来られることを拒んでいる。
 そもそも慰霊施設だけを1㎞離れた場所につくる理由はあるのだろうか。答えは一つだけ。ここは政府の財布からでて造られたとはいえ、なるべく多くの人には来てほしくないからだろう。「民族共生象徴空間ウポポイ 〇〇㎞」という表示は道内随所にある。しかし私には新千歳空港からウポポイまでの53㎞よりも、ここから慰霊施設までの1㎞のほうが精神的にははるかに遠かった。
 博物館や共生公園では知的なものを求めてやってきた観光客であふれており、駐車場も満車状態だったが、ここはスタッフの車が一台あるだけだ。さらに料金として200円徴収された。

200円の駐車料
 広大な草原を歩く。右側にシルバーに光る塔が見える。アイヌ人が祭祀に使う「イクパスイ」の形をしている。「イク」とは酒を飲む。「バスイ」とは箸を表し、カムイ(神)とアイヌ(人)がつながる際の依り代のようなものだが、天までとどくかのようなこのモニュメントは盗掘されたアイヌ人たちの想いを天に伝えてくれているのだろうか。
 ただここにはアイヌ民族博物館のような丁寧な解説はない。解説プレートが一枚あるが、それはなんと例のホームページの文章と一字一句同じであることが後で分かった。文章の後半はこう続く。
「日本政府は、アイヌの人々の遺骨等を巡る経緯や先住民族にその遺骨を返還することが世界的な潮流となっていることに鑑み、関係者の理解 及び協力の下で、アイヌの人々への遺骨等の返還を進め、直ちに返還できない遺骨等についてはウポポイに集約し、アイヌの人々による尊厳 ある慰霊の実現を図るとともに、アイヌの人々による受入体制が整うまでの間の適切な管理を行うことを平成 26 年 6 月に決定しました。」
 つまり、他国もやっている「世界的潮流」だから日本も先住民に遺骨返還をする、というこのやる気のなさを隠さない正直さには脱帽である。これではそもそもなぜ明治時代の学者たちがアイヌ人の墓地を盗掘したのかさえもわからないではないか。「俺たちだけじゃない。外国人学者もやっていた。」という開き直った発言さえ人類学者の中からでるほどだ。
 ここに来る人は観光客ではない。ここはアイヌ人および関係者のための施設のようだ。物見遊山の我々はともかく遺族に対してまで200円の駐車料を課すというのもよい商売だ。200円を惜しむ私もなかなかセコいが、日本政府のセコさの足元にも及ばない自覚はある。

「未来の共生社会の礎」とは?
 解説プレートは次のように締めくくっている。
「ここを訪れる多くの方に、このような歴史を理解していただくことが、未来の共生社会の礎となるものと考えます。」
普通はこのあと、「内閣総理大臣 ○○」とか、「北海道知事 ○○」とか「北海道アイヌ協会 ○○」とかが続くものだが、これは誰の責任において語られたものか全くわからないようになっている。誰の発言か伏せなければならないのはなぜなのか気になる。
 いや、それ以上に、この最後の文が何を指すのかさえ意味不明だ。「このような歴史を理解していただく」と述べながら、どんな歴史かは全く隠されている。それが「未来の共生社会の礎となる」とはなんのことか?私なりに解釈すると、「このような歴史」=「都合の悪いことは隠蔽する歴史」。「理解していただく」=「こんなものだと思って受け流す」。それによって成し遂げられた共生社会とはいかなるものになろうか。「民族が共生していくには都合の悪いことは見て見ぬふりをすること」という匿名の人物からのメッセージだとすると、これ以上に不気味な「慰霊施設」はない。
 約千三百体もの遺骨が眠るコンクリートの墓所に向かい合掌し、浄土真宗の「正信偈」をあげたが、こんなことでは成仏できまいと思いつつ、もやもやした気持ちを残して東に向かった。行先は平取(びらとり)町二風谷(にぶたに)である。

産業都市苫小牧からアイヌの都、二風谷へ
 白老町から国道36号線を東に進むと苫小牧市である。地方自治体が変わると街並みも変わるのはよくあるが、ここでは白老町のあちこちで見られたアイヌ文様は姿を消す。茨城県大洗港から苫小牧港にフェリーが出ているため、この町の通りは関東ナンバーの大型トラックでひしめき合っている。工業都市にして物流拠点のこの町とアイヌ文様は似合わないのかもしれない。
生産量日本一を誇る北海道産の更級そばを堪能してから、日高高速道路で平取町に向かう。この町には義経神社が存在するので詣でてみた。一見何の変哲もない神社ではある。ただこの土地は源平合戦のあと兄頼朝に忠誠心を疑われ、平泉で自害したはずの源義経が津軽半島を渡って蝦夷地に落ちのび、たどり着いた場所だという。そういえば下北半島にも義経寺というのがあったことを思い出した。
 時代は下って江戸時代にここを訪れた幕府の官吏、近藤重蔵が、この地の首長に義経の像を贈ったことが、この神社の縁起と言われる。

イザベラ・バードと通訳案内士の伊藤君
 さらに時代は下って明治時代にここを訪れた英国人旅行作家、イザベル・バードも、この町のアイヌ集落に三日間滞在した。明治期の「通訳案内士」伊藤君を引き連れての、東京から東北、北海道まで歩くこの長旅は「日本奥地紀行」としてまとめられている。この作品で痛烈かつ興味深い点の一つは、伊藤君のアイヌ人に対する見方である。アイヌ人に対して親切に優しくすることがいかに大切かを説くイザベル・バードに対して、伊藤君は憤慨して言う。
「アイヌ人を丁寧に扱うなんて!彼らはただのイヌです!人間ではありません。」
 そしてアイヌ人に関する悪い噂をまくしたてるのだが、肝心なのは彼が19歳にして英語の通訳者という、「開けた」人物であるという点だ。人並み以上の知性や見識があってしかるべき青年さえ、この程度の人権感覚だったのだ。とはいえ、慣れてくると彼もアイヌ人のことを評価するようになってきた。無知が偏見をよんだのだろう。
 ところでバードはアイヌ人のことを美しいと思っている。
「彼の黒髪もそれほど濃くはなく、髪も髭もところどころ金褐色に輝いていた。私はその顔かたちといい、表情といい、これほど美しい顔を見たことがないように思う。(中略)未開人の顔つきというよりもむしろ(中略)キリスト像の顔に似ている。」
 彼女の「美の基準」は、どうやら西洋的な顔つきであることがここから見て取れる。一方、日本の学者たちも当時西洋で進みつつあった「人類学」を導入し、アイヌ人がユーラシア大陸を横断して極東にやってきたコーカソイドの子孫であることを「証明」しようとした。人類学者といえば、幕末に箱館の居留地にいた英国人人類学者もアイヌ人の墓を盗掘し、持ち帰って研究したというが、もしアイヌ人がコーカソイド系なら、「日本人」の一部は欧米人と同類となる。国を挙げて「脱亜」をはかろうとしていた明治中期はそんな時代だったのだ。それがアイヌ人墓地の国家的、組織的、学術的盗掘につながったのは言うまでもない。
 
二風谷ダムとアイヌ人国会議員
 平取の義経神社から沙流川を上ると、二風谷ダムが姿を現した。高度経済成長期に治水と利水を目的としてこの地にダムの建設がすすめられた。しかしこの地は昔からアイヌ人の聖地であるだけでなく、「カムイチェㇷ゚(神の魚)」と呼ばれる鮭が遡上してくるため、ダムを造ると鮭が登ってこられなくなる。そこで地元二風谷のアイヌの有力者、萱野茂氏、貝沢正氏などがダム建設反対運動を展開した。
 結果的にはアイヌ側が譲歩せざるを得なかったが、彼らはこの日本に「先住民」という存在があること、そしてこれまでどのような扱いを受けてきたかなど、現状を日本中に知らしめることには成功した。 
 ダムを歩くと鮭が遡上してこられるように通路が造られているのが分かる。これも彼らがカネにつられて土地を明け渡さず、地道に粘り、支援者の輪を作っていった結果に他ならない。私が放浪のサイクリストとして初めてこの町を訪れた1992年当時、萱野氏は旧社会党から参議院議員として立候補し、繰上げ当選した。史上初めてアイヌ人が参議院議員となり、しかもアイヌ語で演説したのだ。
 そして同年、沙流川のほとりに開館させたのが平取町立二風谷アイヌ文化博物館であるが、当初は萱野氏のアイヌ関連の生活用具の寄贈も少なくなかったという。さらに議員としては明治時代に成立し、大正、昭和、平成と一世紀にわたって続いた「北海道旧土人保護法」を廃止させるとともに、アイヌ人の文化を継承させるために交付金、補助金などを確約させる「アイヌ新法」を成立させると、議員生活から足を洗ってこの二風谷に戻ってきた。権力にも淡泊な人物だったようだ。

「いいことも悪いこともしっかり伝えなければな」
 この町立博物館は、地方自治体運営にしては日本政府に対する見方が厳しい。「ウパシクマ(語り継ぐ歴史)」として次のようなメッセージがパネルに書かれている。
「この地には古くから人が住んできた。アイヌが自由に楽しく暮らしていた。が、大勢の和人が侵略してきてからは、アイヌにとって辛いことが多かった。いいことも悪いこともしっかり伝えなければな。これからのためだ。」
 語り口はソフトだが、「和人が侵略」等という表現に怒りと悲しみが感じられる。そして「いいことも悪いこともしっかり伝えなければな。これからのためだ。」というのは、ウポポイの慰霊施設で見た
「ここを訪れる多くの方に、このような歴史を理解していただくことが、未来の共生社会の礎となるものと考えます。」
とは比べ物にならないくらい、心に染みる。
 この博物館も前庭にチセ(アイヌ伝統家屋)が再現され、その屋内では伝統芸能や伝統技術の継承が行われている。ただ、ウポポイが令和の国立アイヌ博物館、二風谷アイヌ文化博物館が平成のアイヌ博物館だとすると、国道237号線の向こう側にある萱野茂二風谷アイヌ史料館は「昭和」の資料館である。お世辞にも立派とはいえない古ぼけた館内だが、こここそ萱野氏が心血を注いでアイヌ文化を継承してきた拠点なのだ。

手作り感満載でも鋭く糾弾する資料館
 ここはウポポイや二風谷アイヌ文化博物館と比べると、あまりにも雑然と民族資料が並べられている感じがするが、前者二館に比べて偉ぶらないところがいい。このような民間の泥臭いなかで守られてきたものたちの価値が感じられる。しかしなによりも強いメッセージが感じられたのは、出口に無造作に置かれていたパネルである。
歴史の真実
歴史的にみても明らかなアイヌモシリ (アイヌの住む静かな大地) が、特に明治時代になってから、和人によって一方的に侵略され続け、現在に至っています。
●今なお続く差別
土地の収奪だけでなく、アイヌ民族固有の言語、文化、風習などが禁止され、1899年(明治32年)「北海道旧土人保護法」 という差別法の施行による和人からの同化政策が今も続いています。
●明日に向って
すべてのアイヌ民族の誇りと文化が尊重され、権利が保証される「アイヌ民族に関する法律」の一日も早い制定に向って一人でも多くのシサム (和人)の理解と連帯を求めています。

第二項の「北海道旧土人保護法」は廃止されたとはいえ、「侵略」「差別」に公然と立ち向かい、先住民として移住者のシサム(和人)に訴える形を取っている。これこそウポポイが覆い隠そうとしていたことだったのだ。

「牢獄の鍵」としてのアイヌ語
 その日の宿は萱野茂二風谷アイヌ資料館裏手の、萱野氏のお孫さん夫婦の運営するヤント(「宿」のアイヌ語)というゲストハウスだ。隣には萱野氏が運営していたアイヌ語教室の建物が残っていた。アイヌ語を子孫に伝えること、そして和人ともアイヌ語を分かち合うことでアイヌの世界観、価値観を分かち合おうとしたのだろう。
 小学校の頃の国語の副教材で学んだ、19世紀のフランスの文豪、ドーデの「最後の授業」を思い出した。普仏戦争で敗れたフランス・アルザスに、プロイセン軍が進駐してくる直前のフランス人としては最後のフランス語の授業で、先生が生徒たちに残したメッセージである。
「もしある民族が別の民族の奴隷の境遇に陥ったとしても、自分の言葉を守っていれば牢獄のカギを握っているようなものだ。」
 そもそもアルザス人はドイツ語の方言を話していたので、フランス語は母語ではない、という問題はあるが、一民族にとって民族言語の大切さは強調しても強調しすぎることはない。そして萱野氏は生涯を通して奪われつつある文化と、その根底にある言葉を守るために一生を捧げたのだ。目の前の古ぼけたアイヌ語教室こそ、民族文化防衛の牙城だった。

共生社会実現の覚悟はあるか
 意外にもこの町は白老ほど過剰なアイヌ語表現を見ない。近くの平取温泉に行ってみた。以前来たときは「昭和的レトロ感」全開だったのがリニューアルオープンしていた。しかしウポポイやその周辺ほど過剰なまでの「アイヌモード」にはなっていない。ほどよいソフトな「アイヌ感」である。かつては白老のアイヌコタンもそうだったろうが、昭和には「草の根」的存在だったアイヌ文化が、平成には地方自治体から財政支援を受ける「自治体アイヌ文化」となり、令和には200億円の国家予算が投じられる「国策アイヌ文化」となっていくにつれて、アイヌ人の本音はかくされていったような気がしてならない。
 少なくともウポポイの提唱する「共生社会」とは日本社会という漠然としたものがアイヌ人を受け入れることに主眼があるが、萱野氏の資料館では和人を突き放しながらも、ともに生きていく覚悟があるかいなかを我々一人ひとりに訴えているように思える。そしてその拠点となってきたのがこの資料館であり、今は使われていないかもしれないアイヌ語教室だったのだろう。そして2018年にできたヤントは、ここを訪れる旅人たちに、今後もアイヌの文化を発信し続け、旅人たちもSNS等で発信していくことだろう。私もその一人だ。
 
「アイヌらしさ」を背負いなおす
 二風谷の人口は約300名というが、そのうちアイヌにルーツを持つ人は7割から8割という。そして彼らの中には一度は失ったアイヌ語を身につけ、アイヌ工芸に新しい息吹を吹き込もうとする人々もある。このような「民族文化の復権」に関して、ファノンは「ネグリチュード(Négritude)」、すなわち「本当の黒人らしさ」にこだわっている時期が長かった。先祖代々アフリカを離れさせられ、カリブ海のフランス領で生まれ育った彼は、自らの内側にあるはずの「本当の黒人らしさ」を探求し続けては絶望感に襲われた。
「私の足はもう大地の愛撫を感じなくなってしまった。ニグロとしての過去も未来も取り上げられ、自分のニグロ性を実存することは不可能になった。まだ白人ではなく、もうまったく黒人でもなく、私は呪われたものだった。」
 アフリカの大地をはだしで走っていたであろう先祖の身体感覚が、今の自分にはなく、靴を履いて欧州の石畳を歩いていても白人そのものでもない。彼が言うところの「地に呪われたる者」であることに気づいたのだ。彼が「自分は黒人ではない」と思うのは、幼少期からの教育にもよる。
「家では母がフランス語で歌ってくれる、ニグロのことなど全然関係ないフランスの歌曲を。私が言うことを聞かないと、うるさくすると、こう言って叱られる、『ニグロの真似をするんじゃないよ。』」
 自分は何者なのか?どっちつかずの自分をアフリカの黒人に焦点を定めて「ネグリチュード」を取り戻そうとしたファノンたち。同じくこの二風谷の集落の人々も「アイヌチュード(本当のアイヌらしさ)」なるものを取り戻そうとしてきた。それは言葉だけでなく正に価値観や世界観も「背負いなおす」ことの意思表示だったのだろう。
 「一つの国語を話すということは、一つの世界、一つの文化を引き受けるということである。」
 というファノンの至言が最も心に響くのは、私などではなく一度奪われたことばを取り戻そうとするアイヌ人たちなのだろう。

牧場になる前に住んでいたアイヌ人たちー新冠(にいかっぷ)
 翌朝早く、サラブレッド等の育成牧場として知られる新冠町に向かった。広々とした牧場馬たちが草をはむ光景は、ある意味「テレビで見るような」北海道である。平取町に隣接するが、アイヌ文様はここではほぼ見かけない。代わりに目に映るのは馬、馬、馬である。牧場の展望台のベンチがU字型をしていたが、これも馬の蹄鉄を模したものである。
 テレビや映画などを通して我々が「北海道らしい」と思いがちなこの光景の影にも、実はアイヌ人の強制移住という悲劇があった。明治時代に軍馬育成牧場としてこの地が指定されるや、ここに住んでいたアイヌ人たちはこの地を去るか、馬の飼育をするかの選択を迫られたのだ。また、明治時代に宮内庁の御料牧場として皇室の牧場となった地区もあるが、そこももとはといえばアイヌ人が開拓した農地であったため、皇族が視察に来た際直訴をしたが、かえって他地域に移住させられたという。旧御料牧場には当時の迎賓館の瀟洒な建物が残っている。しかしファノンはこう述べる。
「ヨーロッパのこのような豪奢な暮らしはまったく破廉恥なものである。なぜならそれは奴隷を踏み台にして打ち立てられたもの、奴隷の血に養われたものであり、この行進世界の地上と地下の資源から一直線にもたらされているものであるから。」
 
つまり皇族や政府によるこの雄大な牧場は、アイヌ民族の離散を土台にしているので、これを誇ろうとするのは恥知らずな行為というのだ。アイヌを学んでから北海道に赴くと、近代日本の矛盾に否が応でも直面せざるをえず、美しいと思った風景も陰鬱になってくる。
 試しにGoogleで「北海道らしい風景」を画像検索すると、やはり農場が圧倒的に多い。特に観光客に人気の富良野のラベンダー畑や美瑛のポプラ並木などと並んでこの町のサラブレッド銀座なども見られる。しかし私たちの脳裏にある「北海道らしい風景」は、土地の私有制という概念に疎いアイヌ人の土地を二束三文で買いたたき、代わりに不毛の地を与えたという過去があることを忘れてはなるまい。それがポストコロニアリズムを学び、その跡を旅するという意味だと思うからだ。

作り変えられたシャクシャイン像―静内
 車は太平洋を右に、国道235号線を新ひだか町静内に向かった。坂道を上りきったところに公園があった。かなりの坂であり、昔は難攻不落のチャシ(城砦)であったことがうかがわれる。1992年に初めて来たとき、本州の城でいう「本丸」に当たる高台には天に向かって杖を突き出すシャクシャインの像があった。
 シャクシャインとは松前藩の圧政に対して全土のアイヌ人をまとめ、1669年に武装蜂起を行った乙名(おとな≒首長)である。結果は講和条約に赴いた現新冠町判官館(ピポクチャシ)にて騙し討ちにあって亡くなった。ちなみに天下泰平とされた江戸時代ではあるが、このシャクシャインの蜂起は島原天草一揆以来の最大規模の武装蜂起である。宗教戦争と民族紛争が江戸時代前期には国土の南西と北東で爆発したのである。
 シャクシャインを顕彰する動きは戦後特に高まった。1970年に任意団体シャクシャイン顕彰会が静内のこの公園にモニュメントと彼の像を建て、76年には当時の静内町に寄贈された。私が初めて見たときは当時のものである。しかし2021年に見たときは、全く別の両手のひらを胸の前で上に向けて祈る「オンカミ」の姿勢をとった「穏健」な像に変わっていた。このデザインは新ひだか町および地元の新ひだかアイヌ協会が選んだものというが、杖を天に突きつけていた「昭和の闘争的アイヌ」から、静かに民族の共生を祈る「令和の共生的アイヌ」にシンボルが変わった点が興味深い。
 そして新しい像の横には「イレンカ(希望)の塔」という、イクパスイをかたどったようなモニュメントもある。

「アイヌ人らしさ」-天地にしみこんだもの
 一方で目算80メートルほどはなれたところには、今のものより一回り大きなイレンカの塔と、かつての像が置かれていたコンクリートの台座が残っていた。老朽化で危ないから前の像を取り壊したというが、取り壊した後の処理があまりにも雑だ。いたずらっ子なら台座によじ登ってジャンプしそうだし、また下には無造作にコンクリート片が散らばっており、正直なところ安全性に留意しているとは思えなかった。ウタリ(同胞)同士とはいえども意見の食い違いが丸く収まっていないことが見て取れる。ファノンの師、詩人セゼールは塔のようなモニュメントについてこう述べている。
 「わがネグリチュードは塔でもなく伽藍でもない。それは大地の赤い肉に食いこんでいるのだ。それは大空の燃え上る肉に食いこんでいるのだ。」
 たしかにアイヌ人の大部分を統一したシャクシャインのモニュメントが、これまでアイヌ人を一つにしてきたことは否定できない。しかしシャクシャイン像やイレンカの塔そのものが「アイヌチュード(本当のアイヌらしさ)」ではなかろう。それはこのアイヌモシリ(人間の大地)と大空にしみ込んでいるなにかなのだろう。

北海道の「鳥取」
 静内から太平洋側を東に進み続けると、日高山脈が太平洋に沈む襟裳岬、酪農地帯の十勝平野を通ってラムサール条約登録国内第一号の湿原で知られる釧路に着いた。1992年、沖縄から宗谷岬を目指して4800㎞のサイクリングルートの途中、初めてこの町を訪問した時のことを思い出した。幹線道路の国道38号線沿いに、「鳥取」という地名を発見したのだ。日々野宿で里心がついたのか、島根県民でありながら車で15分ほど行けば鳥取県という安来市出身であることもあり、この地が気になった。するとその直後城郭の櫓らしき建物が目に入った。そしてそこには「鳥取神社」の標識があった。休憩がてら入らずにはいられなかった。
 改めてこの神社を訪れ、見方が変わった。そもそもなぜここが「鳥取」と呼ばれるのか。明治時代は現在の市街地もほぼ湿原だったというが、それを開拓したのが旧鳥取藩士ら屯田兵だったからだ。ここだけではない。道内各地に廃藩置県で失業した旧藩士たちの移住先として未開の地が与えられ、開拓に励んだ。また農民、漁民の、商人たちの移住も少なくない。例えば新千歳空港から札幌市に行く間にある北広島市や、足尾銅山鉱毒事件によって栃木県に住めなくなった人々が開拓した佐呂間町の栃木集落などもそれぞれ広島県民、栃木県民の開拓した土地である。
 鳥取神社の祭神は大国主命、すなわち因幡の白兎を助けた神である。櫓の外観の資料館に入ると、圧倒されるのが開拓に使われていた農具である。のこぎりだけでも大木を切り倒すための巨大なのこぎりの他に何種類もある。ただでさえ荒野を開拓するのは大変だったろうが、一面の大湿原を干拓して農地にするという作業を、農民でもない旧士族たちがなしとげたことは、「偉業」といえるだろう。この地には大正時代に富士製紙が製紙工場を置き、さらに発展を遂げ、それが昭和に入って王子製紙に吸収合併されてからも、企業城下町として大いに栄えた。

見えても見えないアイヌ人の姿
 とはいえ、アイヌ人の視点で北海道を見つめてきた私は、少なくとも鳥取神社の資料館においてはアイヌ人との交流や対立などを紹介するコーナーは皆無であることを見逃さなかった。「鳥取町のあゆみ 略年表」にも、「愛知県人ら四戸移住」という項目はあっても、そこにいたはずのアイヌ人には言及されていない。接点がなかったわけでは決してあるまい。おそらく「見えても見えない」「どうでもよい存在」だったのかもしれない。ファノンは言う。
「市電やトロリーバスの中の彼らは、無意識な存在に、いわば根拠のない存在に見えないだろうか。彼らはどこからやって来るのか。彼らはどこへ行くのか。どこかの建築現場で働いている彼らを時々ちらっと見る。が、人々は彼らを見ない。」
 この場合の「彼ら」とは黒人たちのことであろう。これを北海道に当てはめるなら、たとえ「棄民」状態の旧鳥取藩士とは言え、アイヌ人からみれば支配階級である。そんな藩士たちにとって、「旧土人」というのは同じく明治新政府に棄てられた者同士、という思いにはならなかった。それはたとえるなら現在の非正規労働者がさらに劣悪な状況で働かされているベトナム人実習生に、「俺も苦しいがお前も家を離れて辛いだろう、まあ、一杯やってくれ。」という具合にはなかなかいかないようなものだろう。

ラクスマンと大黒屋光太夫―根室港
 根室から根釧台地を東にまっすぐ進み、カキの養殖で知られる厚岸で宿を取った。翌朝、カモメの声に送られて国道44号線の牧草地帯をまっすぐ根室半島に向かった。
 根室市のいかにも港町らしいアップダウンの続く道を通りぬけ、根室港にたどり着いた。目の前に弁天島という小島が見えるが、こここそ1792年にロシアのラクスマンが漂流のすえシベリアに着いた伊勢商人、大黒屋光太夫一行を送り返した場所である。彼らは八か月にわたりあの島に滞在し、老中松平定信に通商要求の返答を待った。原則ロシアと交易する気はないのだが、江戸に来られて軍事力を見せつけられては幕府の弱腰外交が露呈してしまう。そこで長崎だったら話を聞こう、というジェスチャーで「信牌」という入港許可証を与えた。しかしラクスマンはそれで満足し、帰国してしまう。
実はこの時、幕府は薄氷を踏むかのような危ない橋を渡っている自分たちに気づいていたようだ。なぜならラクスマンが来る三年前、この根室半島周辺でシャクシャインの蜂起以来のアイヌ人による大規模な蜂起があったからだ。

チャシ―根室半島
 日本100名城スタンプラリーという、各城郭で御朱印帳のようにスタンプを押していくのを趣味とする人も多いようだが、その第一番は根室半島チャシ群跡である。チャシというのはアイヌ人の城砦をいうのだが、その数は道内だけで推定五百カ所。天守や櫓はおろか、堀や石垣などがあるわけではなく、天然の崖や海や川を利用したものがほとんどだ。その中でも保存状態が良い「チャシの代表」が根室半島のノッカマップチャシである。
 根室半島のオホーツク海側を東に進むと、お目当てのチャシらしき場所があったので車を停めて歩いてみた。本州の城郭にはないくらいの断崖絶壁と高低差をうまく利用した天然の要害そのものだ。一カ所だけ、広瀬川の断崖絶壁を利用した仙台青葉城がここに匹敵するかもしれない、などと城郭マニアにしか通用しないことを考えながら、笹やヨモギが生い茂る小道を歩いて海岸までたどり着いた。真夏のはずだがオホーツク海の風は冷たい。
 フランス革命があった1789年、ここには松前藩や御用商人たちの搾取と圧政に立ち上がったアイヌ人たちが集まっていたた。当時の松前藩は家臣に対し、特定の町でアイヌ人と交易できる権利を与えていた。そして家臣たちは近江商人ら、本州各地の商人を御用商人として使っていたのだが、御用商人たちは家臣というクライアントに儲けの何割かを納めねばならなかった。これを「場所請負制」という。

クナシリ・メナシの戦いと蝦夷地の帝国主義化
 そして御用商人たちは極めて厳しい交換比率でアイヌ人と物々交換をした。それだけではなく、超低賃金で彼らに労働させて利益を上げ、さらにはアイヌ女性に対する暴行も絶えることはなかった。こうしたことがたまりにたまった結果アイヌ人たちは蜂起し、和人商人ら71名を殺害するまでになったのだ。
 蜂起の中心となったのが、根室半島からみて北側の沖合にある国後島や、対岸のメナシだったため、これは「クナシリ・メナシの戦い」と呼ばれる。そして国後の首長が和人からもらった酒を飲んで亡くなり、その義理の妹までも和人にもらったものを食べて亡くなったという。アイヌ人からすれば、かつてシャクシャインも和人に毒を盛られたという民族的記憶があるため、真偽はともかく自分たちの親分一家が毒殺されたとなると、それが発火点となって蜂起したというのは当然の成り行きかもしれない。
 しかし彼らは組織的に抵抗したわけでもなく、烏合の衆だったこともあり、そこに松前藩が動いてアッケシ、クナシリ、そしてこのノッカマップの首長たちに取り調べをさせ、重罪とみなされる者たち37名を、ここで処刑した。
 このようなアイヌ人の蜂起があった三年後に根室に来航したのがラックスマンらだったのだ。幕府が「反日分子」としてのアイヌ人がロシア方になびくのを恐れたことは言うまでもない。そしてその後は蝦夷地の「帝国主義化」が定着した。帝国主義というと欧米とアジア、アフリカ、中南米の関係かと思いきや、江戸時代なりの資本主義システムが存在し、アイヌの松前藩に対する隷属関係が解消できぬまま搾取され、男性は低賃金労働者として、女性は慰安婦として連れ去られたという事実から鑑みると、それは「日本版帝国主義」のはしりの一つといえるだろう。

江差追分とアイヌー「江差の五月は江戸にもない」?
 道南日本海側に江差という港町がある。松前藩の御用商人だった近江商人たちの拠点として大いに栄えたこの町は、ニシンが大量にやってくる漁港(第一次産業)でもあり、それを加工する基地(第二次産業)でもあり、交易(第三次産業)の地でもあった。まさに江戸時代の「第六次産業」の拠点だったのだ。今なお通りには往時の繁栄を残す商家がずらりと並び、家々の梁の太さがその富を象徴している。さらにここから本州の日本海側各地まで伝わった民謡「江差追分」発祥の地でもあり、夏祭りには豪華な山車が町を練り歩く。
 町役場に隣接する江差追分会館・江差山車会館では往時の繁栄が再現されているが、そこの資料の中で驚いたのは、アイヌの民族衣装、アットゥシを着て公演する人がいたことだ。江差町のホームページによると、
「追分踊りの始まりは地元の伝承によれば、古くはアイヌのメノコを集めて踊らせ、松前の殿様のお目にかけたのが最初といわれる」
とのこと。「だれ」が集めたのか、メノコ(女性)は望んでいったのか、望まないままに連れていかれたのかが気になる。また同館に展示されていた江戸時代の風俗画を見ると、ニシン漁場で働かされているのはなぜかアイヌ人ばかりだ。一連の流れから見て、この町の繁栄を支えたのも、アイヌ人を踏み台にするという前提があったのではなかろうか。それだけでなく、立場は異なれども本州からやってきた「ヤン衆」と呼ばれる季節労働者も酷寒の地で体を壊し、命を落としたはずだ。ファノン曰く、
「ヨーロッパの福祉と進歩とは、ニグロの、アラブの、インド人の、黄色人種の、汗と屍によって打ち立てられた。」
江差でも、根室でも、松前でも、箱館でも、蝦夷地における発展はアイヌ人や下級労働者の汗と屍によって打ち立てられたのだろう。「江差の五月は江戸にもない」というほどのかつての繁栄を謳歌したこの町のキャッチフレーズにはもろ手を挙げて賛同できない自分がいる。

北方領土はグラデーションエリア?
 車は日本国内で日本人が活ける最東端、納沙布岬に到着した。自衛隊の車両があちこちに見える。北方領土の歯舞諸島は目と鼻の先に平べったく横たわっている。お盆ではあるが吹く風が体に染みる。この岬の広場は北方領土返還の拠点「北方館」、元島民の心の拠り所となった「望郷の家」、政治だけでなく歴史、民俗学、生物学など様々な分野から北方領土を紹介する「根室市北方領土資料館」などが軒を連ねる。特に根室市北方領土資料館や北方館では、近代における日露関係の変遷が学べる。
 思うに明治時代までの日本は「国境」という概念に乏しかった。例えば薩摩藩にとっての琉球王国、松前藩にとっての蝦夷地はどこに国境があったのかはっきりしない。近代にいたるまで少なくとも東アジアはこうした「グラデーション」のなかで生きてきた。ペリー来日直後にロシアのプチャーチンが長崎に来て開国を要求し、翌々年結ばれた日露和親条約によって今の「北方四島」が日本領と明確化された。さらに樺太に至っては日露両国民の雑居を認めた。しかし日本史上初めての国境策定条約はこれだったのだ。
 続いて1875年の樺太・千島交換条約では樺太がロシア領、千島列島全体が日本領になるが、両地域に住んできたアイヌ人は三年以内に国籍をロシアにするか、日本にするか選ばねばならなかった。先住民を全く無視して国境線を引いたり引き直したり交換したりしていたのだ。ちなみに北方館ではこの時の条約文が残されていたが、フランス語が正文とされていたのが興味深い。ロシアも日本も帝国主義としては「先輩格」フランスーファノンにとっての本国―の後塵を拝していたことが見て取れる。
 そして1905年の日露戦争の講和条約、ポーツマス条約によって日本は北緯55度以南の南樺太を領有することになるが、1945年の大戦末期にソ連が日本攻撃を開始し、樺太全土および北方領土まで占領された。樺太では日本の民間人虐殺が、北方領土では民間人の北海道への強制送還が行われ今に至る。

「右翼祭(?)」の納沙布岬で思うボーダー・ツーリズム
 ただこれらの資料館で中心になるのは「和人時代」である。アイヌ人の痕跡はなぜか目立たず、戦後から現在にかけての北方領土がどうなっているのか、知ることはできない。ちなみに根室市役所には日本で唯一、「北方領土対策部」を設置している。
 展望台から目の前の寒々とした海の向こうを眺めると、「国境」という言葉が浮かび上がる。と同時に、ここは少なくとも日本にとって国境ではなく、あの歯舞の島々も、その先の色丹、国後、択捉まで日本、ということになるので「国境とは思ってはならない海峡」なのだろう。 
 海岸沿いには「還せ北方領土」「呼び返そう 祖先が築いた北方領土」「返せ全千島樺太 北の防人」などと、右翼団体が建てた石碑が立ち並ぶ。まるで「右翼祭」だ。この空間で日本とロシア(ソ連)との間にありながら完全に抜け落ちているものがある。言うまでもない、アイヌ人の存在だ。例えばアイヌ人の団体がここに「還せアイヌモシリ」「呼び返そう 祖先が暮らしたアイヌモシリ」「返せ全アイヌモシリ、全千島樺太と北海道」などという石碑を建てたら引き倒されないだろうか。
 観光学には「ボーダー・ツーリズム」という分野がある。国境を超える、または国境を見に行くマイナーなツアー様式をさすのだが、90年代半ばに中朝、中ロ国境の吉林省琿春(フンチュン)という町に住んでいたころ、そこは朝鮮との行き来もロシアとの行き来も極めて制限されていた。ある時国境に案内したフランス人が興味深そうに言った。「シェンゲン協定によって国境など関係なく往来するEUから来た自分からみると、ここは全く車や人の往来が見られず不思議だ。国境の意味があるのか?」「国境」とは閉じるものだと思っていたのだが、国境は両国を「つなぐ」ものだと彼は考えていたことに、逆に驚いた。ひるがえって目の前の「目に見えぬボーダー」を見ながら、彼のいうことを反芻した。「国境は分ける。だけど国境はつなぐ。」
同時に歴史的に国境というコンセプトは日本人にとっては近代文明の産物で、本来ここはアイヌモシリ(人間の住む大地)以外の何ものでもないことを確認し、北西を目指した。

アイヌとは和人のまなざしによって規定される?―北方民族博物館
 根室から曇り空の中うっすらとみえる国後をにらみつつ、野付半島、知床半島を通り、網走に到着した。ここにはアイヌから一歩離れてアイヌをみることができる二か所の博物館がある。まずは街を一望できる天都山(てんとざん)に位置する北方民族博物館である。類似名称のところとして、本州人からみて北海道のゲートウェイである函館市の函館山麓にも北方民族資料館があるが、そこから北は本来北方民族の居住地域だった。
 ファノンに影響を与え、著書「地に呪われたる者」に長い序文まで寄稿しているサルトルは「黒人とは白人のまなざしによって規定される」と考えている。それを北海道に当てはめると、「アイヌとは和人のまなざしによって規定される」となる。現にアイヌ人の資料館や関連施設のみを歩いてみてきた私には、それらのほとんどがアイヌそのものではなく、「和人のフィルターを通したアイヌ」であることに気づく。
 しかしここの博物館ではアイヌを和人との対象としてではなく、あえて国家形成をしなかったためにロシア、中国、アメリカなどの国家の一部に組み込まれた「北方民族」の一つとしてのアイヌの存在が分かり、新たな視点を獲得することができた。例えば数十の北方民族の服が展示されているが、これを見ると和人VSアイヌという対立関係は脳裏から吹き飛び、多々ある北方民族の一つがアイヌであることに気づかされる。

ディアスポラのファノンとウィルタ人
 そもそもここにこのような博物館があるのも、戦前樺太に住んでいた日本国籍を持つ先住民、ウィルタ人や二ヴフ人が敗戦とともに北海道に移住してきた土地が網走だったからだ。そのうちの一人で、ウィルタ人のゲンダーヌ氏は、樺太でソ連に抑留され、シベリアでの強制労働をへて舞鶴経由で網走までやってきた。そして苦労に苦労を重ねてウィルタ人、二ヴフ人、樺太アイヌの施設資料館「ジャッカ・ドフニ(大切なものをおさめる家)」という民族資料館を1978年、網走に建てた。残念ながら2010年代に閉館したが、そのコレクションは一括してこの北方民族博物館に所蔵されている。
 ファノンの先祖はアフリカからカリブ海の仏領マルティニークに連行された。そこが仏領だったために自分のことを「ニグロ」ではなく「フランス人」だと認識していた。だからフランスを解放するために戦ったのだ。後にフランス本国にわたって初めて「ニグロ」扱いされたことは先に述べた。ゲンダーヌ氏も日本領樺太に生まれ、日本語教育を受け、日本軍の特務として諜報活動に従事したため、敗戦後シベリアに抑留された。そして戻っていくのは樺太ではなく、樺太に最も近い日本領、北海道の網走だった。
 ファノンは白血病で36年の短い生涯を終えるまで、その皮膚の色からフランス人になりきれず、「ネグリチュード」にも結局は疑いを持った一方で、ふるさとマルティニークを愛し続けた。日本軍のために働いたとはいえ、ゲンダーヌ氏は日本国籍でなかったため、戦後補償も受けられなかった。また「同胞」ウィルタ人の数も数万人のアイヌ人に比べて数十人しかいない。彼は日本社会の一員として日本に同化しようとしたが、結局はウィルタ人として網走で生きることを選んだ。
 両者とも政治的、精神的に故郷を離れざるを得なくなった「ディアスポラ(離散者)」である。日本の少数民族、アイヌ人からみてもさらに少数民族であるウィルタ人の彼が属するグループというと、同じように日本、ソ連、中国、米国など大国によって従属的立場に追いやられた「北方民族」なのだろう。
 この博物館の展示品の中で、気になったものがある。首のない土偶のようなものだが、本州の土偶とは異なり、写実的だ。「モヨロ貝塚出土」とある。日本史の教科書にはまず出てこないだろうが、ここももう一つの視点からアイヌ人をみるために必要なようなので、オホーツク海沿いのこの資料館に向かってみた。

モヨロ貝塚―先住民アイヌの前の先住民
 アイヌ人が北海道全域に居住し、その民族性を発揮するようになるのはおそらく13世紀ごろとされる。それまでの北海道はどのような場所だったのか。そのヒントがこのモヨロ貝塚にあった。
 一般的に貝塚というと、本州では縄文時代のものであろうが、ここの貝塚は七世紀のものとされる。それよりも興味深いのが、発見者は在野の考古学者、米村喜男衛(きおえ)氏だが、彼のユニークなのは大学等研究機関に所属せず、近所に床屋を開いて生計を立て、残る時間を全て考古学に打ち込んだのだ。なにやら群馬県の岩宿遺跡を発見した相沢忠洋氏が納豆の配達で生計を立てていたことを思い出す。
 考古学は特にこうした在野の大学者たちに支えられているところがあるが、彼のおかげで道東や道北では縄文文化ではなく、漁業や海洋での狩猟(トドやラッコ等)に従事する「オホーツク人」が存在していたことが分かった。しかもその居住範囲は、北は樺太、東は国後にまで達するが、9世紀ごろに消滅したようだ。それらのエッセンスが後のアイヌ文化に吸収されたのか、この貝塚館ではアイヌが神と仰ぐヒグマの像などが見られる。
 北海道の先住民族はアイヌ人だけではない。さらにその前には、少なくとも道東・道北にはオホーツク人もいたのだ。北方諸民族というくくりで見ると、アイヌ人の前にオホーツク人がいて、戦後そこにウィルタ人、二ヴフ人が加わった。小さな町だが実に諸民族共生の地であるのがここだったのだ。

「人権エンターテインメント施設」網走監獄
 網走といえば監獄である。そしてここはダークツーリズムの聖地でもある。ここの面白さは、「塀の中の懲りない面々」の実態をのぞき見したいという能天気な冷やかし半分の一般観光客をひきつけ、一歩中に入ると北海道の開発が実に人権を踏み台にしてなされたかということを、遊び心を刺激しつつ切々と学ばせる、究極の「人権エンターテインメント施設」なのだ。
到着時間はあえて正午にした。というのも入口に「監獄食堂」があり、ここで監獄食が食べられるからだ。サンマまたはホッケとおひたし、麦三割のごはん、味噌汁、漬物からなるこの監獄食は、「大人の給食」のようだが、普通にうまい。なによりも「監獄気分」を高めてくれる。店のおばちゃんに尋ねたところ、これは昭和六十年前後の監獄食だという。
 館内に入るとそのようなレクレーション性はなくなる。歴史の教科書では北海道開拓は釧路の鳥取藩士の移住のように「屯田兵」が中心になったとされるかもしれないが、ここの庁舎では明治初期に本州各地の囚人をここに送り込み、更生どころか未開の北海道に道路作業をさせるために酷使したという「開拓」の裏の歴史がまざまざと見せつけられる。ちなみに「囚人」の中でも士族の反乱による政治犯や思想犯等、政府批判者も少なくなかったが、彼らに対する懲罰兼開拓という一挙両得を考えていたのだ。開拓を進めなければ、この海のすぐ向こうに広がるロシアの軍事的動向が気になったからだろう。
 特にひどい話が道内各地にある「囚人道路」と呼ばれる道路で、1200人の囚人に163キロをわずか8カ月、つまり毎日休みなく700メートルほどの道路を人力で拓かせたのだ。彼らは逃げないように重さ1キロほどの鉄の球を足に鎖でつけられて働かせていた。

囚人のコスプレ?
 彼らのおかれた人権無視の惨状を、なんと体験できるのもここの特徴だ。例えば労働中はオレンジ色の作務衣を着せられ、顔が見えないような笠を目深にかぶらされるが、そのコスプレが体験できる。さらに足に鉄球をつけることもできる。一種のアトラクションである。さらに300円で投獄中の記念写真も撮れる。こうして一般客の「好奇心」をくすぐることで、息がつまらないようにしているバランス感覚には脱帽である。
 アイヌ人たちの住んでいた土地を奪った和人、という和人VSアイヌ人という対立構図がもろくも崩れた。「和人」と一括りにすることの意味が分からなくなってくるのだ。翌日道東最大の温泉、川湯温泉からほど近い、阿寒摩周国立公園の景勝地硫黄山(アトサヌプリ)に行った。草の一本も生えない地肌から硫黄が今なお噴き出るこの山は、歩いていると頭痛を覚えるほどで早々と退散したが、ここの硫黄を取らされていたのも囚人たちだった。
見学コースの最後には、囚人の心が荒まないようにと、宗教施設として教誨堂の立派な建物が移築復元されているが、ここで教誨される(悔い改める)べきは、囚人というよりそのような人権無視のシステムを作ってまで国土を発展させようとした政府ではないかと思うようになった。
 全体を見終わって感じた。ここでは納沙布岬とは別の意味でアイヌ人の姿が全く見いだせない。ただ言えるのは、本州では見られなかったほどの人権無視がこの北の島の箱館や札幌や旭川といった大都市から離れた流氷漂う町で制度的に行われていたということだ。そしてそれは江戸時代を通してアイヌ人を酷使してきた「伝統」の延長線上に思えてきた。
 帰りがけにまた「囚人食堂」が目に入った。もし今あの「囚人食」を食べると、もっと近代日本の抱えてきた諸問題とともにざらついた舌で麦飯を呑み込むのだろう、などと思いながら駐車場に向かった。

「俗」で「昭和レトロ」な阿寒アイヌコタン?
 その日は川湯温泉で泊まり、翌日はマリモで知られる阿寒湖を目指した。雄阿寒岳、雌阿寒岳に囲まれた静かな湖畔に阿寒湖温泉がある。ここに隣接するのが阿寒湖アイヌコタンである。アイヌシアター「イコㇿ」や生活記念館「ポンチセ」などは、ある意味「ウポポイ」とよい勝負だ。逆に言えばアイヌ系施設としてナンバーワンではない。しかし北海道をくまなく歩いても、ここにしかないオンリーワンがある。それはなだらかな坂道の左右に並ぶ二十軒ものアイヌ工芸の店だ。
 令和に国税を投資して完成させたウポポイや、平成に町の税金を使って完成させた二風谷アイヌ文化博物館に比べると、ここは土産物屋が立ち並ぶ「俗な」「昭和の」雰囲気と思われるかもしれない。しかしここを始めて歩いた時、真っ先に思い出したのは1992年にはじめて白老ポロトコタン(現ウポポイ)を訪れた時のあの雰囲気だ。
 あの時二十歳になったばかりの私はカルチャーショックを覚えた。資料館に至るまでの道の両側に客引きのアイヌのおばさんたちが「いらっしゃい、いらっしゃーい!」とやっているのだ。まるで中国か東南アジアかメキシコにでもいるかのような雰囲気だった。しかも私が戸惑いつつも相手にせず先に進もうとすると、「あ、無視された!」と言われる。これでは立ち止まらざるを得ない。あの時のあの俗な雰囲気がソフトになって残っているのだ。
そしてそれぞれの店がきわめて個性的な彫刻でデコレートされている。アイヌ風の木彫りと文様で飾り立てたログハウスを右の通りに十棟、左の通りに十棟並べたような感じである。素朴なアイヌのイメージはそこになく、現代アートの空間に近い。昼食は鹿肉を使ったアイヌ料理の店でジビエ料理をいただいた。

東急の五島を拒絶した和人の女傑
 ファノンは仏領アルジェリアの独立に36年の短い生涯の残り数年をつぎ込んだ。そして独立の前年、1961年に白血病で亡くなった。なぜ彼のような知識人が道理を説いて言論で戦わず、武力革命の道に進んだのか。「黒い皮膚、白い仮面」の中で彼は絶叫する。
「世界は人種偏見の名において私を拒絶したのであった。理性の次元における和合が不可能である以上、私は非合理性にわが身を投じていった。白人が私以上に非合理的になれるものならなってみよ。」
まさに彼がアルジェリア独立戦争に身を投じて戦っていた1960年前後、もう一つの静かな独立戦争がこの阿寒湖畔で始まっていた。この地の大地主、薩摩の前田家当主は明治初年にフランスに留学し、ヨーロッパ資本主義のもたらした文明のなんたるかを知った。その二代目に嫁ぎ、後に三代目園主となった前田光子氏も、栃木県出身ではあったが阿寒湖とアイヌ文化をこよなく愛した。そして本州では聞いたこともなかったアイヌ人差別に直面する。彼らの貧困問題を解決するためにもアイヌ人の経済的自立を支援することにした。そして「前田家の財産はすべて公共事業の財源とす」という家訓に従って土地を無償でアイヌ人に提供し、温泉客向けの土産物屋街としてこのコタンをスタートさせたのだ。
 「女傑」前田光子氏には「武勇伝」も事欠かない。例えばこの地をリゾート開発しようとした東急グループの五島慶太が面会を申し込んだが、頑として会おうとしなかったという。「強盗慶太」の異名をとる彼がここに進出してきたら、あっという間にリゾートホテルだらけになり、環境が壊され、「観光公害」が起こると分かっていたからだろう。
 彼女は環境を守るだけでなく、生涯を通して自ら阿寒の森に何万本もの植林をし続け、1983年に亡くなった。さらに「観光アイヌ」と呼ばれても、経済的自立と民族の威厳の一挙両得を考えた彼女は、アイヌ古式舞踊だけでなく現代創作舞踊にも着手した。実は彼女は戦前タカラジェンヌとして名をはせる大物舞台女優だったのだ。アイヌシアター「イコㇿ」をはじめ、北海道各地で演じられるアイヌ現代舞踊も彼女の指導と、タカラジェンヌとしての知名度を利用して国際社会に紹介されてのものと言われる。伝統的なものの他に現代人のセンスにマッチした舞踊が楽しめるのも彼女の努力のおかげなのだ。

資本主義で守る自然と民族文化
 このように阿寒湖アイヌコタンのシアターや土産物屋の通りだけを見れば、よくある温泉街のアイヌ版、で終わるだろうが、その周辺の環境保全を含め、環境に負担をかけないように、そしてなによりもアイヌ人の経済的自立を促しつつ亡くなったパトロンの存在は大きい。資本主義によって環境破壊や民族分断がなされた反面、その財力でそれらを食い止め、民族共生のための自立の道にこぎつけることもできるのだ。
 アイヌ人と北海道を、ファノンという軸を通して歩いてみて思った。ファノンはその肌の色でフランスから疎外され、ネグリチュード(真の黒人らしさ)を探求しながらも、無知によって社会を分断するポストコロニアルな状態を徹底的に批判し、世界に影響を与えた。一方、前田氏はそのフランスに学び、帰国後はその財を惜しみなく阿寒の自然保護やアイヌ人の自立につぎ込んだ。
 フランスは自由、平等、博愛の精神を生み出すとともに、外には植民地主義を貫いた。この近代フランスのもつ負の側面が仏領マルティニークに生まれ育ったファノンに、正の側面が阿寒湖アイヌコタンに見られることを確認した。
 一方でまた、ファノンが植民地主義によって傷つけられた状況は、権力者による歴史の隠蔽という形を取って、各地で見られる。私たちは権力者が何を見せ、何を隠したがるか見出すだけの目を養わねばならないのだ。そして重い宿題を背負って新千歳空港に戻っていった。(了)
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