見出し画像

崩されていても落城はしていない日本有数の名城・熊本城が誇る「不落」。「人は石垣、人は城」を感じられる現代の戦国時代が熊本にあった。今だからこそ訪問したい場所。

 昨年の熊本大地震からちょうど丸2年、僕も海外からニュースで熊本の大変な様子を見聞きしていましたが、今回の日本旅行においてどうしても九州へ訪問したかった理由の1つは、熊本を訪れる事でした。僕が訪問した所でなんの足しにもならないのですが、熊本で飲食など色々と楽しむ事で少しでも復興のお役に立てばいいなと思ったのと、どうしても地震の被害を受けた熊本城の現在を見たいという思いがありました。

 城というものは日本では相当に歴史が古く、最古の城は663年には白村江の戦いに敗れた日本が、国土防衛のために築いた山城・大野城(おおのき)などまでに遡ります。この頃はまだ「しろ」とは呼ばず「き」と呼んでいる頃でした。室町時代後期になりますと現在の城郭の様相を呈した城が完成し、その後は現在の「城(しろ)」と呼ばれる形が主流になります。実は城というものは定義が様々で、城郭があるものでなければ城と呼ばない説もあれば、居住を主とした館でも城と呼ぶ説と様々です。身近な所では武田信玄の居城、躑躅ヶ崎館をどう捉えるかと悩む学者さんもいるようです。防衛の為に使われるだけではなく、大名の住居として使われているなど、城が果たした役割は多岐に渡ってきたこともその議論を呼んでいるのかもしれません。

 今回訪問した熊本城は1400年代に築城され、安土桃山時代末期に戦国大名・加藤清正によって改築され、現在の熊本城の原型が出来上がりました。

 熊本城入り口に建立されている加藤清正公像です。

 安土桃山時代から江戸時代にかけて、国内外でその武勇と名を轟かせた猛将加藤清正ですが、藤堂高虎と並んで築城の名手としても有名です。熊本城が当時のまま今に至るまで残ってこれた事もあって、加藤清正を有史以来の名建築家と讃える人もいます。約500年前に彼が手がけた巨大建築物が度重なる地震を乗り越えて現存しているという事実、これは加藤清正の貢献も大きいと言ってもいいでしょう。

 現在、熊本城は昨年の熊本大地震によるダメージからの修復・復旧作業を行なっており、城内は大幅な立ち入り制限が行われています。これからそれを紹介していきますが、この入り口にある熊本城の説明ボードはまだ地震前の内容なので昨年の大地震の事が記載されておらず、このボードだけを見るとダメージを受ける前の熊本城をイメージする事ができ、少し胸に熱いものがこみ上げてきます。修復工事中に熊本城を訪問される方は是非このボードを読むことをお勧めします。

 なお、立ち入り制限の状況は下記公式ウェブサイトでご覧ください。

  それでは立ち入りが許されている熊本城内に入っていきます。上記URL内の地図にある通り、内部の行動可能区域は限定されているので認められているルートに従い、お土産やレストランがあるエリア「城彩苑」にまずは向かいます。

 ここが城彩苑です。中の様子は後ほど触れるとしてまずはここを通過して二の丸駐車場を目指します。歩くのがきつい方はこの左手にシャトルバス乗り場がありますので、そこからシャトルバスで二の丸駐車場まで行く事ができます。

 城彩苑の中を歩いていると、遠目に見えてきたのは奉行丸です。ここから見る限りなんともなさそうです。立派な佇まいです。

 奉行丸の下に到着しました。櫓とその下の台座になる石垣は問題なさそうですが、奥の方が崩れていますね。もう少し全体が見える位置に移動してみます。

 これはかなりひどいですね。城壁が崩れ落ちています。

 奉行丸の一角では城壁が道路まで崩れ落ちていました。怪我人がいなかった事を祈るばかりです。

    ここも城壁が崩れていますね。崩れていない部分も城壁上部の建屋部分が場内に倒されています。まるでここに砲撃を受けて敵軍の侵入を許してしまったかのような崩れ方です。これを見て出てくる最初の感情は「悔しい」の一言です。それはきっと歴史好きな私にとって城が地震によってその守りを突破されてしまったという気持ちがあるのかもしれません。

    続いて西大手櫓門に回ります。二の丸駐車場の中を通って行くことができます。ここも普段は立派な橋と桜のコラボが美しいと言われる場所ですが、ここも危険ということで立ち入りが制限されています。すでにこの写真でもわかると思いますが、この場所はこうなっています。

    恐ろしいまでに石垣の巨大な石が所狭しと転げ回っています。完全に崩れ落ちています。どうやって復旧するのか・・・。考えただけで途方も無い時間の必要性を感じます。こんな時、加藤清正公であればどうするのでしょうか。

    しかし、熊本城は既に復旧の動きを急ピッチでとっています。城内の至る所にクレーンが入っています。しかし城壁ですらあれだけのダメージを受けるほどの大地震ですから、櫓や本丸などの建築物も無傷であるとは考えにくく、本当に修復可能なのかと不安がよぎります。

    「心配ご無用」そんな言葉が思い浮かぶこの写真。現代の技術力に感動をすると共に、プランニングをした熊本市や関係者のみなさんに敬意を抱かずにはいられない「天空の城」となって、現在熊本城は修復工事を行なっています。

    つまり、熊本城は決して地震によって破壊されて落城をしたのではなく、敵の侵入こそ許して若干荒らされてしまったものの、最新の技術を使って回復をしてる最中なのです。多数のクレーンを「搭載」し、高い自己回復能力で復活に向かっているように見え、熊本市という大きな「生命体」が熊本城を当然のように再生させていて、とても頼もしく感じました。まさに人々が石垣となって熊本城を守っているわけですね。

 それでは城彩苑を見てみましょう。色々な地元の名産品を販売しています。

 色々なお店が並んでいて「おいしそう」「楽しそう」ですよね。僕もここで馬肉の燻製を買いました。

 ちなみに、熊本城は明治初期に発生した日本最後の内戦である西南戦争の激戦地の1つにも数えられています。その直前の神風連の乱では反乱軍に1日だけ制圧されましたが、西南戦争では政府軍の重要拠点であり、西郷隆盛率いる薩摩軍を過酷な籠城戦の末、撃退して守りきっています。

 熊本城は冒頭で加藤清正の貢献が大きいと書きましたが、そしてその後の時代における城の補修担当者の努力も称賛に値するという事を最後に書いておきたいと思います。色々な資料を読んでみると、江戸から昭和に至るまで、様々な人達のアイディアによって熊本城が補修、強化されてきました。作ること以上に守り続けることが難しいのは全てのモノツクリに通じます。500年もの間、熊本城を災害や紛争など、あらゆるものから守り続けてきた関係者、そして熊本の人々には深い尊敬の念を抱きます。加藤清正を初めとしたそれぞれの時代の後継者達よる見事なコラボレーションの結果、今でも僕たちが見れるのがこの熊本城であり、これこそ”500年に及ぶ建築家達の耐震性建築物”として長く語り継がれるべきものだと感じた熊本城への訪問でした

G1でした。どうもなー、だんだんなー!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?