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日記 5/7 東福寺展

インプットのし過ぎで、アウトプットが足りないのではないかと思ったので、日記を書いた。

最終日、東福寺展に赴く。
何時に到着するのか分からなかったので、当日券を窓口で購入することに決めて、昼過ぎに家を出る。
隅田川は昨晩から増水していて、今日は屋形船のひとつも浮かんでいなかった。
最寄り駅から上野へは、10分程度で着く。
地方出身なので、なんと近い事かと今更ながら思った。

大学2年の頃どうしてもみたい展覧会があり、始めて夜行バスに乗った。
一日トーハクで過ごしたあと、また夜行バスで帰った。
確か、開館時間に入って企画展を二周した後、閉館時間まで常設展を見ていた。
夜までどう過ごしたかは忘れてしまったけれど、トーハクで過ごした時間は濃密だった。
自分が自分になってから見たのは初めてだったので、一つ一つの展示を見逃すものかとじっくり味わった。
現代ではもう二度と作れないのだろうという、ぞっとするような歴史の重みと美しさに驚いた記憶がある。

あの頃一晩かかった道のりが、家を出てほんの30分程度で着いてしまう。
近頃は丁度2時間もあれば見終わるだろうという試算の元、午前を怠惰に過ごし、なんとか15時前に着いて閉館と同時に出ていた。
なんと勿体ない。
企画展を見るチケットがあれば常設展も見ることが出来るのだ。
あの時の濃密な一日を身に染みて知っていながら、時間が無いからと企画展だけを追い続けていた。

でも今日は少し時間に余裕がある。
雨の中ゆっくりゆっくり上野公園の中を歩き、トーハクに到着したのは13時頃だった。

入場券を購入してトーハクの中に入る。
最近はどこもかしこも電子チケットで予約していたから、紙のチケットを窓口で買うというのも久々で少し嬉しくなった。
企画展は平成館の方でやっているという。
雨が酷くなってきて、ジーンズの裾はすっかり濡れそぼり、スニーカーは足の甲のメッシュから水が入り込んで酷い有様だった。
平成館に入った途端、スニーカーが床の上で高い音を出して滑り出し、かなり恥ずかしかった。
そこそこ酷い格好だったが、ジーンズの裾を捲って、怪訝な顔の窓口の女性に申し訳ない顔をしながらどうにか入館した。

最終日の混雑を覚悟していたが、雨が酷いせいか予想より人が少なく、快適に見ることが出来た。

※日記なので、東福寺についての記述は省かせて頂く。
展覧会についての、率直で、知識の薄い人間の感想を書く。
印象の強いもののみ。



まず、入ってすぐの円爾を描いた人物画が良かった。
迷いのない筆致に感動した。
先日のスパコミに出展するために自身の絵の下手くそさにはかなり悩まされたので、衣服の皺や勢いのある筆使いに目がいく。
潔く描いた太い筆の線と繊細な書き込みが1つの絵の中でそれぞれ主張し過ぎず、全体として非常に印象的な人物画に仕上がっていて、個人的にも好きな絵だった。


遺偈もかなり印象深かった。
大道一似の遺偈は特に心に残った。
今際の際に描いたのだろうと言う筆の掠れ、走り、曲がり、勢いがドラマチックだ。
仏の教え仏の道はなんと難しいものよといったことが、雅楽に絡めて書いてあったと思う。
この時代の僧は教養もないといけないのだなあと感じる。
今よりもっと知識層が限られていた時代だから、その知識もきっと広く深いのだろうと思う。
学ぶことが強制された現代の「とりあえず全ての教科を満遍なく薄く学ぶ」という教育は生きていく上で必要だし助かっているが、そもそも知識体系が全く違うのだろうなと思う。
こういった雅楽とか詩とかの教養や知識はどこからどう詰めていけばよいのか見当もつかない。
ついつい現代人の方が知識があり技術があるように感じてしまいがちだけれど、必ずしもそうでは無い。
特に自分などまだ何も知らないし、知ろうともしていないし、まだ名前も聞いた事のないような知識がこの世には溢れかえっているのだと痛感した。


虎一大字、良い。
恐らく、展覧会側も、良い。と思っているのだろう、ポストカードになっていた。
なので、このポストカードを1枚買ってきた。
そういえば、最近はあまり展覧会のグッズやら画集やら写真集やら、ほとんど買わなくなった。
欲しくない訳では無いけれど、手元にそれらがあっても、実際にそのものを見た感覚の方が強い。
実物を見ることが一番大事なのだと近年は思えるようになった。
大人になったというよりは、舞台を見すぎて、金が無くなった。


明兆、豪快さや色使いがかなり好みだと思った。
説明文に、「スーパーカイカイキキ」とあったが、突然すぎる単語のチョイスに、スーパーカイカイキキってなんやねんと突っ込みを入れながらも、どうスーパーカイカイキキなのか見るか、と明兆を辿る。
羅漢図の下書きが展示されていたが、下書きからしてもう素晴らしく上手い。
スミだとか朱だとか書かれていて、こういった画業のやり方って昔から変わらないなあと思った。
とにかく全てのものがはっきりと迷いなく書かれている。

この後常設展の方へ行って感じたが、我々(日本人というか、アジア人)は、輪郭というか、「形」を捉えるのに長けた民族なのかもしれない。
形の簡略化やマスコット化や象徴化の繰り返しによるパターン化というのが文化の一部になっているように思う。

第二会場は墨と仏像だった。

無準師範の字、良い。
翻訳がshifanとなっているのを見て、言葉の響きがいいなと思った。

諸悪莫作・衆善奉行」が特に良かった。
とにかく全ての題字がよい。
大きく、堂々としていて、気持ちがいい。
寺の各所に掲げる題字もあって、この字の下で生活が行われていたのだろうかと様々な想像をした。


像は玉眼のものが多く、時々目が合ったように感じてしまいドキリとした。
撮影可能だったものが本当に大きく、見上げるという行為に付属する感動があり、大きいというのはそれだけで畏怖というか、尊敬や信仰を集めるものだと実感した。

仏像についての記述が薄くなったのでまた思い出したら追記すると思う。

久々に常設展まで見ることが出来て嬉しかった。

常設展側はインバウンドの海外観光客がかなり多く、世界的なコロナ禍の終焉を悟る。
特別展に合わせて常設展の方も展示が工夫されていて、今まで気が付かなかったなあと勿体なく思った。

おわりに

印象深かったという訳では無いが、第一会場の木彫りの円爾の顔が、親知らずを抜いた時の腫れた自分の顔にそっくりだった。

次はもう少し早く来て、常設展も合わせてしっかり見たい。

ほなまた

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