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指輪を失くしたのにいつ失くしたのか全く分からない、という悲しみ・怒り


指輪をなくした。
出掛ける時は必ずと言っていいほど身につけていて、それが写り込むと私だと認識できるほど特徴的で、大切なもので、なにより母と選んだものだった。
二つ購入したうちの一つで、必ず右手と左手に一つずつはめていた。

SNSで一通り嘆き悲しみ、ヨシヨシを頂き、それでもまだ深く傷ついている。

というのは、おそらく「失くす前兆」があったにも関わらず、私の過失が原因で失くしたからだ。


前兆1

失くす数日前、電車の中で指からすっぽ抜けて転がっていき、すんでのところで人の波から救い出した。
今思えば、加齢のせいか最近指が痩せてきていて、指輪が多少緩く感じることが多かった。
おゆまるなどでサイズ調整をしようと思っていた矢先の出来事だった。
緩いことを分かって身につけていたのである。


前兆2

そもそもADHDであるから、ものを失くすということは日常茶飯事である。
その点では指輪はよく持った方だが、失った時のリスク(経済的な打撃ではなく主に精神の打撃だ)を考えずカジュアルに使用していた。
そこそこ高価で大切なものを普段から身につけて過ごすというリスキーな行為を何時から自分に許していたのか。
昔はもっと適当なもの、失くしてもいいようなものを身につけていたじゃないか。
本当に大切な時だけ身に着けていれば良かったのではないか?


前兆3

前兆というよりも、指輪を失くした当日の私の、底辺まで落ちた注意力とその原因について。
当日、テニミュ出演俳優の無銭イベントを見に行っていて非常に高揚していた。
そのためかいつもより身の回りのものに対する緊張感が恐ろしく低下していて、緩みきった精神で(アイライクユー)フワフワと夢見心地で歩いていた。
気が緩みきっていたので、「おそらくあの時に失くしたのだろうな」という憶測はできても、正確な事件現場が分からないのだ。


以上3点の前兆があったにも関わらず私が何の対策もせず指輪を失くしたのは、当然の報いであったと思うと、やるせない。

なんにせよ指輪はまだ見つかっていない。

落としたと予測される範囲はそこまで広くなかったため、手当り次第に見て回った。
落とした場所さえはっきり分かればたとえ草の根を分けても探し出すつもりだった。
車の往来が激しい横断歩道を10回以上往復し怪しまれたが見つからず、2時間以上周辺を探し回り、利用した施設や店舗に落ちていたらここにご連絡をと根回しをし、警察にも届けた。

見つからなかった。

落としたと気が付いたのはまだ日が出ている時だったので、だんだんと日が落ちて暗くなってくると、余計に自分が惨めで悲しかった。

理不尽な仕打ちや降って湧いたような出来事ではなく、ほとんど自分の過失(しかも思い起こすと多少なりとも防げると思えるものだ)によって起こった出来事で、それが一番悔しくて虚しくて悲しい。
誰も悪くない。
怒りや無力感をどこかにぶつけることは出来ず、全てそのまま100%自分に降り掛かってくる。
私が悪いからだ。
深い悲しみを味わうと同時にひどく怒っていて、その怒りは全て一人で受け止めなければならない。
加害者も被害者も自分である。
こういった時のやり切れなさといったらない。


来るテニフェスに向けてダイエットしなければと思いつつも、落とした当日はあまりにも悲しくやるせなく心臓がしくしくと痛んだため、カレー南蛮そばと親子丼のセットを泣きながら汁まで平らげた。
本当に少し泣いた。
人前で泣きたくはなかったが、勝手に涙が溢れてきて止まらなかった。
人は泣きながら飯を食うことがあるのだと改めて実感した。

食べることでストレスを発散するのは良くないと分かっていても、胃をパンパンに満たすことで、胸を押し潰すような悲しみが少し和らぐような気がする。


おわりに

そもそもなぜ指輪を身に着けていたのかというと、指輪を身に着けていると意識が手に向き、落し物や失せ物が減るということに気が付いたからだった。

いつしか指輪は習慣になり、お守りになった。

出掛けた後に指輪を忘れた場合(ADHDなのでお守りでも慌てているとすぐ忘れる)、酷く不安になりソワソワと不安で仕方が無くなるため、時間があれば3coinsなどでその都度適当なものを購入している。
しかし、落とした指輪はそういった間に合わせのものとは格別に重みや感触が違っていた。
メッキではない金属光沢の深い煌めきやシンプルながら印象的で邪魔にならないデザインが本当に気に入っていて、その指輪を纏った指が視界に入る度に気分が上がった。
本当に素敵な指輪で、出来るなら長く長く使いたいと思っていたのだ。

落し物が減るという理由で身に着け始めた指輪だが、結局一番大切なものを落としてしまい、本当に落ち込んでいる。

正直なところいつか落とすのではないかとは思っていた。
ひとつの指輪を数年間、私にしてはよく大事にしていた方ではある。
その分思い入れも深い。
物持ちが悪い私がずっと大切に使い、大切に思っていた指輪だ。

アクスタやブロマイドの写真を見返すと必ずその指輪が写っている。
もう二度と指に嵌るあの感触を味わえないのかと思うとどうにかなりそうだ。
深くこのことに向き合うと、自分の愚かさと悲しみでやり切れないので、あまり普段は考えないようにしている。
けれど、あの指輪を自分の過失で失くし、とても悲しいのだということは、忘れないうちに書いておく。
色々なことをすぐ忘れてしまうから、大切に思うものを失くすのはこんなに辛いのだということも書いておかなくてはならない。

まだ指輪を失くしたという事実には当分向き合えそうにない。


鞄の底やポケットなどのよくある場所からふとした瞬間に見つかって、あーまた私の管理が悪いせいだった!見つかって良かった!と思いたい。
いつの間にか枕元に転がっているのでもいい。
少し怖いがある日突然ポストに入っていてもよい。

いつかあの指輪が見つかるか、向き合える日が来ますように。


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