親子関係は死ね

初めて借用書を書いた。
父親から80,000円を借りたのだ。
私的文書であっても印鑑や日付や期日や利息やいろんなことを書いたし、それはしっかりと力があるらしい。

親からの圧力と心の行き違いで生まれたストレスから1月下旬にメンタルクリニックに通い、元々慢性的な鬱ではあったが今回ばかりは自分で自分をコントロール出来ないと本能的に危険を感じたからだった。

親に大学を辞めたいことやその後の人生等、僕の歴史において初めて親に歯向かう言葉を告げたが、どういうことか思いの外ことが大きくなり、僕の命や体がまるで危機にさらされているかのような扱いを受けた。

実際病院に通い始めた時は本当に急に涙が出るようなことも毎日のことで大変辛い思いをしていたが、思考がまともに働くようになった段階で親に告白したのだからタイミングとしては遅いし、なにせ親が原因であることには違いないから、それらの違和感が大きすぎて、僕は彼らについて行こうと思えなかった。

もとより家族旅行や、イベント事や、親戚の集まりや、そういった類には消極的な陰キャな家族だから自分にとって大事なものに「家族」とあげる人の気持ちがこれっぽっちもわからない。別に嫌いじゃないけど好きでもないと言う感じだ。

話は戻るが、僕の告白に対し、身の安全を確認すると同時に治療費や休職期間の生活費についても話したが、お金の面も心配することはないと言われた。
だから僕は心配などしなかった。

東京にいる大事な人との時間にお金を費やし、なんなら帰りはしんどいから夜行バスではなく新幹線を使った。ああそうさ、心配しなくていいと言うからテキトーな使い方をした。俺は病人だ。

躁状態の俺はどんなお金の使い方をするかもわからないし、鬱状態の俺はお金を使わないようにして生活をより悪い方向に持っていく。

それなのになぜ、親子間で借用書を書く必要があるのか?

僕が言いたいのは「親子間でのお金の貸し借りがおかしい」と言いたいのではない。
大学入学時、奨学金の返済の義務の話は他人事として聞いていた。
学費は全て親が払っていた。
バイトをしなくても生活できるお金の仕送りはあった。
家賃はどういう仕組みか知らないうちに親が払ってくれていたらしい。
ところで今回引っ越し業者の費用は全て親持ちだ。
いくらかかったかは言わなかったが、


それらは全てあなたたちが始めたことだ。
昔からお小遣いという制度が理解できなかった。
毎年夏休みと冬休みに遊ぶ時間や場所や人数を報告することでそれに見合った金額を受け取っていた。お年玉はすべて貯金されていた。
俺はバイトをし、フリーターとなって一時的に完全か経済的自立を果たした。

何を偉そうに言い訳を、という感想を持ってほしいのではなく、自分はこういう人間であり、また似たような人間は他にも存在し、さらに今後もこのような人間は生まれてくるということを理解すべきだ。

俺は嘘が大嫌いだ。
お金に心配はしなくていいという言葉に僕は救われた。
自殺したいというより、自分の意識がコントロール出来なくなり、気づけばまるで別人格が自分を操作してそいつが自殺しようとするのでは、という恐怖心が強かった。だからしばらく働くことはやめた。
そんな中でなぜ俺はお金がないことを責められなければならず、親子といえども借用書を書かなければならないのか。

何か矛盾のようなものを感じてならない。

借用書という制度に絶望しているのではない。
俺とお前は借用書を交わすような関係だということに俺は絶望している。

今日から俺にとって親子だから特別、なんてものは存在しない。
ただ他の誰よりも長い歴史を知っており、同じ飯を食べ、どういうわけか家に住まわせてくれている、タメ口で話す二回り上の人。
見下しもしないし特別視もしない。ただ毎日顔を合わせるクラスメイトや先生と大差ない。

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