見出し画像

マルタ

〇「間違った!」とテーブルの上に倒れたビールグラスを見つめたあとに丸田は言った。ビールグラスからは半分ほど入っていたビールが全てテーブルを濡らすように零れ、テーブルから水滴が垂れて床まであっという間に濡れた。
1杯600円するビールジョッキを手に取って「飲み放題にしてよかったな」と俺が言った。中華料理屋には俺と丸田の他にいかにも会社帰りというサラリーマン連中と、酒の飲み方もろくにまだ知らなそうな大学生のグループがいた。俺たちは餃子と酢豚ならぬ酢鶏と麻婆豆腐をアテに酒を何杯も飲んだ。ここの中華料理屋は珍しくワインが置いてあったが飲み放題のメニューには無かったのでレモンサワーとビールをひたすら飲んだ。
「餃子はやっぱり酢に黒胡椒だよな」と口に頬張りながら丸田が言った。さっぱり分からない。餃子なんてものは味がついているじゃないか。だから醤油とかタレとかをつけて食べることもしない。
今日は丸田の奢りだった。丸田が久しぶりに俺の事を誘ってくれた。他人の金で飲む酒は美味い。ありがたい。
「忘れたいことが多すぎるんだよ。だから酒が進むんだよな。」と丸田は言った。多分、他のサラリーマン連中も大学生連中もきっと「何か忘れたいことがある」から飲んでるいるのかもしれない。友達と酒を飲むことはストレスの発散だった。とにかく何歳になっても楽しいしずっと楽しいんだと思う。そして毎回忘れたかったことがなんだったのか忘れてしまうんだ。それくらい酒ってのは魔力がある。楽しかった事だけは忘れたくないもんだ。
丸田の口癖は「間違った」だった。さっきグラスを倒した時も「間違った」と言ってた。普通俺とかだったら「しまった!」とか「ヤバい!」とか反射的に言ってしまうだろうが、丸田は「間違った」言う。
「俺は間違え続けてきた人生だから、ピッタリの口癖だと思う」と、なんとも卑屈な理由を口にしていた。彼はラガーマンでまさに丸太のような腕をしていた。そんな屈強な男に卑屈な言葉など全く似合わない。
間違ってるよ。
翌日の朝。結局深夜まで飲み続けて帰ってきたのが結局何時だったのか覚えてない。君を起こさないように帰ってきたことだけは覚えてる。枕元の目覚まし時計は止まったままだ。昨夜の酒が少し残ったままだ。昨日、丸田と何を話したのか正直はっきり覚えてない。キッチンからベーコンエッグが焼ける匂いがする。3、2、1で目を開けた。君との人生は間違えたくないよ。忘れたくない時間を過ごしたい。