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ピンポンダッシュ


それは一瞬の出来事だった。ある朝、俺は高校への通学路を母親が握ってくれたおにぎりを口いっぱいに頬張りながら歩いていた。おにぎりの具は昨晩の夕飯で母親が揚げてくれた唐揚げが丸々1個入っていた。唐揚げはなんでこんなに冷めていても美味いのか。唐揚げというものを発明した人にノーベル平和賞を与えるべきだよな。などと考えていたら横から自転車が抜き去っていき、自転車に乗っていた学生が俺の顔を確認して、俺が歩くのを遮るように自転車を止めて俺に近づいてきた。自転車に乗っていたのは同じクラスの伊藤香織だった。伊藤は俺に近づいて右手の人差し指を俺の左胸の乳首の辺りを指差してそのまま「ピンポーン!」と言いながら乳首を押してきた。そして満足気な笑顔と共に伊藤は足早と自転車に乗り、学校の方へと漕いで行った。あまりの突然の出来事に呆気にとられてしまい、そのまま俺は食べかけのおにぎりを手に持ったまま膝から崩れ落ちた。朝の日差しがやけに眩しかった。
伊藤は普段から明るく、誰からも好かれるような、所謂"天真爛漫"な性格だった。クラスの男子生徒からも人気が高く、モテモテだ。そんな伊藤と俺の関係であるが接点はほぼ皆無と言っていい。同じクラスではあるが喋ったことはほとんど無い。喋った記憶としてあるのは、体育祭の打ち上げと題してクラスでカラオケ大会なるものが行われた。そこで伊藤は浜崎あゆみの「M」を歌っていて、なんか意外な選曲だなとか思っていたら、伊藤を歌っている姿を見てクラスメイトが「マリア!マリア!」とコールを始め、その日を境に何故か伊藤は"マリア"というあだ名でたまに呼ばれている。そのカラオケの最中、俺がドリンクバーの前でジンジャーエールにしようかカルピスソーダにしようかで迷った挙句、いっその事どっちも飲んでしまおうと考えていた時に伊藤がやってきた。伊藤は笑顔で「何か歌わないの?」と言ってきた。俺は「何歌えばいいか分かんなくてさ」と適当に答えた。そしたら伊藤は「私、本当は竹内まりやとか歌いたいんだけど、みんな知らなかったらシラケちゃうかな、と思って浜崎あゆみにしたんだけど、それでもちょっと古すぎたかな」と言った。俺は「歌上手だったし、いいんじゃない?」と適当に答えた。内心はお前、マリアだったりまりやだったり頭の中こんがらがりそうになるからやめてくれよ、と思った。それが伊藤と俺の唯一に近い、しっかりとした会話だったと思う。だからこそ伊藤がついさっき俺にしてきた行為に驚きを隠せないでいるのだ。もちろん制服の上からではあるが、間違いなく俺の乳首を伊藤は押してきたのだ。人差し指で。一突きで。「ピンポーン!」と笑顔で言いながら。
その日はずっと伊藤がなぜ俺の乳首をピンポンしてきたのかを考えていた。おかげでテスト前なのに授業は全く集中できなかった。授業中に伊藤の事を何度もチラチラと確認してしまった。伊藤は真面目に授業を受けていた。伊藤がなぜ俺の乳首をピンポンしてきたのか、その真相が知りたくてたまらなかった。俺はピンポンを何故したかという予想を4つ立てた。

①「伊藤は俺に好意がある」まあ正直この選択肢が出てくるのは自然だろう。まず絶対に伊藤は俺の事は少なくとも嫌いではないはずだ。嫌われていないだけまだいい。だって登校している俺に気づいてニコニコと近づいて乳首をピンポンしてくるんだから。ただ少しでも俺の気を引こうとしたという理由での行動だとしたらあまりにも大胆すぎるんじゃないかとは思う。何れにせよ、もの凄い距離の詰め方であるのは変わりない。ただ伊藤はあまり恋愛経験が無いのではないか。モテモテだと言ってもまだ高校生だ。彼氏がいた事があったとしてもそこまでの経験は無いはずだ。だとしても何故俺なのか。俺のどこが気に入ったのか。どこが好きなのか。ピンポンしてみて俺がどういう顔をするのか見たかったのか。勃起するとでも思ったのだろうか。まあある意味、俺が膝から崩れ落ちたのは勃起するよりも恥ずかしい事だとは思う。

②「伊藤なりのスキンシップ」実は伊藤の父はどこの国かは知らないが外国人らしく、ハーフなのだ。つまり外国人の血が入っているので挨拶なども彼女は元から日本人らしくない。よくクラスメイトの女子には「おはよう~!」と言ってハグしたりしている。男子にもハイタッチとかしている時もある。ピンポンがこの挨拶の延長線上にあると仮定すると、伊藤なりのスキンシップなのかもしれないと思ってしまう。しかも伊藤が俺にピンポンしてきたのは朝という時間帯。伊藤は俺に「おはよう~!」といういつもみんなに振りまいている明るい挨拶を通り越してピンポンをしてきたのだから、伊藤にとってこの行為は挨拶代わりなのかもしれない。

③「誰かの指示で動いた」この選択肢はあまり考えたくはないが一応挙げておく。伊藤は人気者ではあるが、クラスの中心人物かと言われると実はそうではない。女子の中で1番モテるわけではない。可愛い部類ではあると思うがめちゃくちゃ美少女でっせという事でもない。勉強もスポーツも平均点くらいだと思う。でもいつどんな時でも笑顔を絶やさない。ネガティブな事など言っているのを見たことがない。そう、伊藤は"ただただ明るいヤツ"なのだ。そんな我がクラスの女子の中心人物は誰かと言われたら、加納由依だ。加納は学年でもトップクラスに頭が良く、所属しているバスケットボール部でもキャプテンを務めている。容姿端麗で性格も真面目だ。そんな加納だが実は色々と自分が思いのままになるように他の生徒と結託して行動をしていると噂で聞いたことがある。例えば加納が同じクラスの男子を好きになったが、既に同じクラスの女子と付き合っていたと知り、なんとか別れるように同じクラスの女子と手を組んで動いて最終的に別れることとなった、とか。ただ加納が伊藤に対して俺にピンポンするように指示をしたというのはものすごく変である。意味がわからない。ただ加納の父親は、とある企業の副社長らしく金を持っている。さっきの別れさせた件についても加納に協力した生徒はお金を受け取ったという噂も聞いた事がある。伊藤は金に目が眩んで加納に協力した、という話かもしれない。ただそうなると、なぜピンポンなのか。どういう指示だよ。そこで俺はもう1つ考えた。「罰ゲームとして乳首ピンポンの刑」だ。前日に何かしら伊藤がマリオカートとかUNOとかで遊んでいて、それに負けた罰ゲームとして誰かに乳首ピンポンする、という罰ゲームだとしたら前者よりもかなり可能性が高くなる。ただ俺にピンポンした点に関しては未だに理解できない。俺をなぜチョイスしたのか。

④「超エロいから」この可能性も捨てきれない。ただただ伊藤が実はエロいから、という事でやった。そもそも俺がまだ訴えてないだけで伊藤が俺にしたのはセクハラに該当すると思うが、本当にエロくてどうしようもない痴女とかなら乳首ピンポンなんかじゃ収まらないだろう。股間を鷲掴みとか、もっとそれ以上の事をしてしまうんじゃないか。でも伊藤は俺にそこまでの事はしなかった。なぜか。伊藤と俺の関係性が薄いからに違いない。伊藤と俺が仲が良かったらもっとどエロい事が起きていたかもしれない。それは登校中だろうが関係ない。エロいからという理由で片付いてしまうのだ。

以上、4つの予想を立てた。どれもありえそうで非常に怖い。まず初めに言っておくがそもそも俺は伊藤に対して好意があるのかと聞かれると、好きでもないし嫌いでもない。ただただ底抜けに明るい女子、浜崎あゆみより竹内まりやが好き、という事くらいしか知らない。あとめちゃくちゃキンプリが好き。ただあの乳首ピンポン以降はどうしても伊藤のことが気になって仕方がない。授業中、おそらく伊藤のことを100回以上はチラ見している。チラ見したおかげで伊藤のシャーペンが俺と同じである事に気づいた。午後の体育の授業ではバスケをやった。体育館の左半分が男子、右半分が女子という事で授業が行われていたが、その時も伊藤ばかり見ていた。加納がみんなのお手本でドリブルとかスリーポイントシュートとかを華麗に決めていたが、伊藤も案外綺麗なレイアップシュートを放っていて驚いた。ここまで伊藤の事を見ていたら、逆に好きじゃないほうがおかしいと疑われるだろうな。ただ俺が伊藤の事を見ているのはそういう類の話ではない。俺は伊藤がなぜ乳首ピンポンしてきたのか。その理由が知りたいだけなのだ。伊藤の授業中とかの行動に何かヒントが隠されているかもしれないと思って見ているだけだ。好意があるから見てるわけではない。それじゃ自慰行為を覚えたての童貞中学生と一緒だ。結局そのまま学校が終わり、家へと帰る途中も伊藤の事を考えた。今朝、確かにこの場所で乳首ピンポンされたなと思いながら帰った。家に帰ってバイオハザードをやっている時も伊藤の事を考え、宿題をやっている時も伊藤の事を考え、母親が「今日はご飯作るの面倒くさいからピザのデリバリーね!」と言われてドミノピザをムシャムシャ食べてる時も伊藤の事を考え、風呂に肩まで浸かっている時も伊藤の事を考え、寝る前も伊藤のことを考えた。

翌朝、俺はいつものように眠気眼の阿呆面全開で登校していた。確か俺のAirPodsから「うんざりする程触って いまいましい程笑って」という歌詞が流れてきたので、うるせえなこのマッシュルームカットが、とか思っていたら横から自転車が抜き去っていき、自転車に乗っていた学生が俺の顔を確認して、俺が歩くのを遮るように自転車を止めて俺に近づいてきた。自転車に乗っていたのは同じクラスの児玉恭太郎だった。なんだよ、伊藤じゃなくてお前かよ。と言いそうになった。
児玉は「なあや」と言ってきた。こいつも挨拶無しだ。「なんだよ」と挨拶もしてこないないやつには冷たく返事をする。
「お前さ、もしかしてだけど伊藤さんの事好きなの?」
と児玉は聞いてきた。
勘違いも甚だしいぞ、児玉よ。お前は全く分かってないな。俺は伊藤の事が好きじゃない。気になっているだけだ。どうして昨日俺の乳首をピンポンしてきたのかということがだ!
とは言わなかったが「え、なんで?」と、咄嗟にとぼけてみせた。名演技炸裂である。そしたら児玉はこう言ってきた。
「いや、お前だって昨日ずっと伊藤さんの事さ、見てたじゃんか。俺の席、伊藤さんの後ろだからさ、ずっとなんか視線感じるなと思ったらお前だったからさ。」
児玉ぁ、お前はなんてヤツだ。はっきり言っておくが俺は昨日全く授業なんか集中していないんだ。たまたまお前の前の席の方を見ながら頬杖ついたりしてただけなんだよ。お前の前の席の伊藤といつヤツに乳首ピンポンされて授業どころじゃねえよ、今日もな!
とは言わなかったが「別に好きではないよ」と言った。児玉は「ふーん」と言って自転車に片足をかけたところで、俺の顔を睨みつけてこう言った。
「俺さ、伊藤さんの事が好きなんだ。だから邪魔しないでくれよな」
こぉだぁまあ!てめえ何度言ったら分かるんだ。俺がお前の邪魔をしましたか?してねえだろ、この薄らトンカチ。お前どうせ童貞だろ。いかにも童貞みたいな顔してるもんな。童貞みたいな制服の着こなしですわな。お前が伊藤の事を好きなのは別にどうでもいいよ。お前には俺の気持ちなど何も分からない。所詮お前は童貞だからな!
とは言わなかったが「あっ、そーなんだね。ふーん」と児玉が俺に言った「ふーん」をそのまま引用するという高等テクニックを披露した。児玉は言った。
「俺も1週間前までは加納さんが好きだったんだけど、なんか彼氏できたみたいだから仕方なく諦めたんだけど、そしたらこないだ図書室で俺が本を借りようと本棚を見てたら伊藤さんがやってきていきなり"ピンポーン!"って言いながら乳首を人差し指で押してきたんだよ」
んーーーーーーーーーー?ど、どういう事だ?何が起きた?こいつも、乳首をピンポンされたのか?俺以外にも、伊藤は、ピ、ピンポンを?待て待て待て、分からん。ん?しかも図書室で?どないやねん。と死ぬほど動揺しているのは一切顔には出さず「こないだっていつだよ」と聞いた。
「3日前、月曜日の放課後。俺もうその日から絶対伊藤さんは俺の事好きなんじゃないかと思ってるんだよね。でも今はちょっと様子見。なんで乳首をピンポンしてきたのか分からないからね」と児玉は言って、自転車に乗り、学校の方へと漕いで行った。童貞のクセにちょっと冷静なのが鼻につく。
さて、ここで一旦整理が必要だ。まず時系列でいうと俺より先に児玉が伊藤に乳首をピンポンされているという事が分かった。3日前の月曜日。しかも図書室でだ。実は俺は図書委員をやっているのだが、伊藤を図書室で見かけたことは1度も無い。たまたま俺が当番じゃない時に伊藤が図書室に来ているという事も考えられるが、貸出リストに目を通しても伊藤が何か本を借りたという履歴は残っていないから多分伊藤は図書室にはほとんど来ていない。さあそして、俺が昨日挙げた4つの予想だが①「伊藤は俺に好意がある」は可能性として消えた。残るは3つ予想だが、③「誰かの指示で動いた」もほぼ可能性としては薄いだろう。おそらく②「伊藤なりのスキンシップ」か④「超エロいから」の2択だろう。ただここで問題なのは、児玉、俺と乳首ピンポンされているということは俺達以外にもピンポンされている人がいるんじゃないか?となるのは自然だろう。そして児玉は自分だけが乳首ピンポンされていると思っている。まさか目の前の男も乳首ピンポンされているなんて知る由もない。
登校したあとは、伊藤の事に加え児玉の事も気になった。授業中、伊藤達のほうを見ると児玉が伊藤の背中をじっと見つめていた。きっと夏の制服だからか、ブラが透けているのを見ているんだろう。さすが童貞って感じだ。すると後ろから肩を叩かれた。後ろの席に座っているのは千葉美咲だ。千葉から無言で小さく折り畳まれたメモ用紙を渡された。前を向き、メモ用紙をゆっくり開くと「放課後、生徒会議室で」と書かれていた。この場合、昔だったら"放課後、屋上で"とかなんだろうが、屋上は生徒が立ち入りする事ができない。千葉は生徒会に属しているため生徒会議室に誘ってきたんだろうが、相手のテリトリーに足を踏み入れるのは少し怖かった。
放課後、千葉のメモ用紙に書かれた通りに生徒会議室へと向かった。生徒会議室は本来、生徒会のメンバーと各クラスの学級委員と生徒会の顧問の先生しか入ることが許されていないのだが、俺は千葉が生徒会に立候補した時の推薦人だったという背景もあって、何故かすんなり生徒会議室へと足を踏み入れられる。ちなみに生徒会議室へ来たのは3回目だ。生徒会議室には先に千葉が来ていた。

「なんの用だ?」
「やっぱ、考え直してくれない?」
「何を?」
「いや、だっておかしいと思うのよ。急に別れるってさ。」
「もうその話はさ、済んだじゃんか」
「済んでないよ!全然納得できないよ!何が他の子を好きになったっから別れてって!」
「いや、正当な理由だと思うけど」
「じゃあなんで前の日に"愛してる"なんて言うのよ!」
「声がでけえよ、いくらなんでも聞こえるだろ」
「うるさい!」

俺と千葉は恋人関係にあった。ただ2週間前、別れることになった。理由は俺が他の子を好きになったから、だ。千葉の事は好きだったが、それ以上に他の子を好きになってしまったんだから仕方がない。それじゃあ千葉に対して嘘をつきながら交際する事になるからだ。嘘はこの世で1番醜い。嘘をつきながら手を繋ぐのは嫌だし、セックスをするのはもっと嫌だった。

「もういいだろ、早く帰りたいんだよ。早く帰ってペントハウスの続きが見たいからさ」
「最低ね」
「あ?」
「最低よ、あんたは」
「あ?どこが、最低なんだよ、おい」
「あなたの全てよ」
「なんだと」

ショックだった。人から初めて"最低"だと言われた。嘘をついてないのにだ。"最低"とは最も低いという事だ。俺のどこが最も低いっていうんだ。俺は千葉の事を押し倒そうと千葉の肩に両手を置き、そのまま力任せに床に体を押し付けようとしたが、千葉は俺の目を見てこう言った。

「加納さんでしょ?」
「あ?」
「あんたが付き合ってる子って、加納さんなんでしょ?」

千葉は涙を浮かべて俺に聞いてきた。真っ直ぐな目だった。俺は千葉のこの目に惚れたんだったよな、とか思い出したりした。俺は千葉に「そうだよ」と言って生徒会議室を後にした。

昼間、伊藤や児玉の事で頭がいっぱいになっていたのが遥か昔に感じる。それくらい今日は疲れた一日になった。おかげで来週からの期末試験は上手くいきそうにない。家に帰って、ペントハウスを観ながら明治エッセルスーパーカップを食べた。量が多くて、残りは風呂上がりにでも食べるかと思い、冷凍庫へと戻した瞬間、家のインターホンが鳴った。モニターを見たら加納が立っていた。今日は父親は夜勤だし、母親は夜、ハリーポッターの舞台を見に行っているので誰もいないから別に家にあがってもいいが、加納はまだ俺の家に来たことが無かった。誰かに教えてもらったのかなと思い、玄関のドアを開けた。すると玄関先には加納と、インターホンには映っていなかったが伊藤が立っていた。加納は涙目で、伊藤は笑顔を浮かべていた。伊藤は俺を顔を指さしてこう言った。

「ピンポーン!」

それは始まりの合図だった。