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たーにんぐぽいんと その3

みんなと同じ…が安全圏。なのに、なにひとつ同じじゃないということに気づかないとスタートダッシュが遅れるだなんて、だれも教えてくれなかった

毎日、新しい朝が来るように、見えない「明日」がやってくる。だれにでも平等に必ず朝はやってきて「明日」は「今日」になり「今日」は「昨日」になっていく。それはシンプルで当たり前のことなのだけれども、その「当たり前」が、当然のようにやってくる「当たり前」だと思ってはいけないのだと、体だけ大人じゃない老いに向かう大人のわたしは学習している

最初から個性はあった

小中学校当時のわたしは、オーバーリアクションでお調子者、敵を作ることも多かった。「素」という言葉があるが、調子に乗るとそれを破壊してしまうことをわたしは知っている。まるで酔っ払いの子ども・・・・要はウザがられていた…ということだと思う
わたしをキライなわたしの友だちが、わたしのことを知らない子に「あいつうざい」と言えば、右へならえ的な感じで、わたしを知らない子も必然的にわたしをウザがるのは当たり前のことで、そうしてできた見えない敵はいつまでたってもわたしを偏見の目で見続ける。そういうレッテルってなかなか払拭できないもので、わたしをキライなひとには「ウザイわたし」が現実なわけだから、いくら言い訳しようが害がなかろうが、どこまで行っても好意に転換することはない。まぁ、人間「合う」「合わない」があるのは避けられないことだ。だからといって敵意むき出しとか、他を巻き込むという行為は、そのひとの人格にも影響を及ぼすことだからどこかで気づくべきだとは思うけれどね

それがあなたのいいところ
(これがわたしのいいところ)

それがあなたのわるいところ
(これがわたしのわるいところ)

だれに言われなくても認識できていること
だれかに言われなければわからないこと

自分が思う自分の個性は、長所
他人が思う自分の個性は、特技

そもそも人生ってなに?

呑気な毎日を送っていたわたしは無理矢理「大人」になることもできなかった。だれにでも平等にやってくる「朝」を迎え、明日が今日にになり、そうして毎年自分の「生まれた日」がやってくる。そうして平等に歳を取り、成人して「大人」と呼ばれる仲間入りをした。でも、見た目はちっともそれとは違い、3分経ったら出来上がるカップラーメンのように時間が来たら「大人」になれる、とわけではなかった
平等という言葉はいい言い訳だと思う。人の成長においては決して「平等」は当たり前ではない。時間は平等かもしれない。だが、環境や境遇によってはその時間の使い方はそれぞれであり、同じ年齢になったからといって同じスタートラインに立てていると勘違いしてはいけない。そういう「平等」の陰に隠れ、現実を見逃がしたわたしは、うすうす気づいてしまった周りとの差にだいぶ経ってから思い知らされることになる

成人式に成人できているひと

高校を卒業して2年後のことだ。進学組、就職組、進路はそれぞれだが、まわりが劇的に変わる瞬間がそこにある。⇐と、わたしは思った

特に女子は目に見えて変わるものだ。それは明らかに化粧のせいもあるのだが、急にキレイになって登場するそこには「女」の影がちらついているからかもしれない。それは結婚式のそれと似ていた。結婚式はまだ解る。だってみんなと違う立ち位置だし、ドレスだし、そのためにキレイに支度してもらっているのだから。だが、成人式を迎えて「年頃」を当たり前に迎えられた女子は、明らかにまわりとは違う輝きを放ち、自信に満ちていた

ここでの差は大きい。「年頃」という言葉は実に難解で、これも「平等」の陰に隠れた現実ではあるが、その年齢に達したからといってなにかが変わるわけではなく、それ相応に「経験」も必要だということを知らない、あるいは見過ごしていた。いや、本当は認知していたのかもしれないが、目に見えない「人生レベル」が自分を卑下するまでに、心の奥底でカウントされている。そこまで大きく影響するものだとは思いもしなかったそれが、大人になるにつれ、廊下の壁に張り出された成績表のように露わになっていった。急いで追いつかなければいけないと思った。だが、それを埋めるすべをわたしは知らなかった。もしくは知るに値しなかった…ということか

「年頃」に惑わされる

当時のわたしはまだ「羞恥心」の塊で、まもなく就職活動をしなければならない立場にあったにもかかわらず、成人式に出向いていくことすら恥ずかしくてたまらなかった。思えば小学4年生で打撃を受けた「嫌われているかもしれない」という呪縛が、人前に出ることを恥じとし、やることなすことすべてが同級生と同じようにこなせているとは思えなかった。中学になると神経性胃炎という持病ができ、どこも悪くない健康体の身でありながらしょっちゅうバリウムを飲みに病院に通うことになるのだ。当時は冷え性も相まって、バリウム検査で肥満になるのではないかと心配になるくらいに便秘だったし、恥辱と言えようあろうことか直腸検査までも経験した。そんな経験ばかりを積んでなんになるというのか、それが大人の階段とでもいうのか、なんとも、信じがたい羞恥体験であった

女に生まれただけで、娘としてだらだら生きるだけでは終わらなかった。成人=大人、時が来たら次は結婚が控えていた。いやぁ、結婚式、夫婦その他の体験は、想像がつかなかっただけに行き当たりばったり過ぎて壮絶だった
その辺りからやっと「平等」がなんとなくぼやけてきて、そんなものかと納得できるようになっていくのだろうか。「大人」「年頃」「成人」…のつぎにくるのは・・・・? やっぱり墓場なの?


*なんとなく、毎年の恒例の備忘録になってきた。大人の夏休み*



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