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書くひと⇐ 実行力

ない。ビビりだから
でも、それはいいわけ。多分

子どもの頃からわたしは計画倒れが常で、それでも良しとして過ごしてきました。だから途中で諦めるのも得意で、やり遂げることってそうそうなかったんです。ダメですね~

子どもの頃はそれでも「やり直し」が利いたり、途中で投げることを許されることもあった。でも、大人はそうはいかない。「やりたくない」ことを「やらなくていい」とはだれも言ってくれないし、むしろ信用を無くしかねない
大人はなんでも「好き勝手出来ていいな」なんでも「許される」なんて思っていた子ども時代だけれど、実際その時が来てみたら、子どもより自由がなかった。それは言葉に始まり、行動、世間体もろもろ、なんって不自由なことか

「やりたくない」と言えない。
「できない」が通らない。それが大人だった

全部自分のせいになる。まぁ、それは子どもも一緒か。それでも「責任」が重くのしかかる。「ごめんなさい」じゃ済まされないこともたくさん増えた

でもいいこともある。「できなかった」ことが「できる」ようになったり、大人を理由に「やり遂げる」ということを学んだ。⇐ここ、本当は子どものうちに学ぶべきところだけれど、いろいろ事情があるよね。それは大人の事情とは言わない、子どもの都合だけれど…
やりたくないことを「やらなきゃ仕方がない」「やらなきゃ進まない」と、マイナスな言葉を並べているにもかかわらず、とりあえずは前に進んでいくことができるし、イヤなことも時間がくれば通り過ぎる。それも大人のいいところなのかもしれない。やりたくなかったけど、できてしまえばそれは素敵な「結果」として残るわけだし、面目も建つ⇐こういうこと、考えてる時点でダメ人間だけれど

子どもの頃には「結果」は必要なかった。途中の過程が楽しめなければ、結果があっても意味がなかったから
どっちがいいんだろう? 足して2で割るなんてこと、実際には不可能なのかもしれない

もっと歳を重ねていくと、やらなきゃならないことが「できなく」なっていく。やりたくても「できない」状況がやってくる。これもまた理不尽ではないのか。これってなんなんだろうね? それが「人生」だろうか?

最近のわたしは自分の方向性を見失っているように思える。noteを始めるきっかけとなった小説の終わりが1番大きい。「やりたかった」ことをやり遂げた。だけど欲も出た。ゴールはしたけど、止まりたくないと思っている
新しいことを始めた。それも「手探り」と過去の「手直し」だからなのか、進んでいる気がしない。もう少し先のビジョンを蓄えておくべきだった…それもまったく思い浮かばないけれど

まわりにはどんなふうに見えているだろう?

今のわたしは、これまでのわたしと変わらずに映っているのだろうか? それとも迷っているようにみえるのだろうか?
わたしには見えていない自分が、どんな風に見えているのか知りたい。本当はそんなこと、気にしてちゃいけないんだろうけど、気になるから仕方ない。そこは、小心者だから
まわりにどう見られていようと「我が道」を行けばいい。それはわかっている。だけど、その道が見えていない今はまわりに委ねるしかない。甘えかな?
ブレずにいたいと思うけれど、そんな強固な精神も持ち合わせていない。本音は迷ったままでもいい。だけど前には進んでいたい、ただそれだけだ

いつもお読みいただきありがとうございます とにかく今は、やり遂げることを目標にしています ご意見、ご感想などいただけましたら幸いです