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報告

この日の俺は珍しく、何年も前に買ったスーツを引っ張り出し、黄ばんだワイシャツを捨て、靴を磨いた。

なけなしの金で買った中古の車を、初デートの彼女を迎えに行くときのような気分で、できる限りの手入れをした。

「やっぱり普段着でよかったんじゃないのか?」
「いいじゃないの、たまには。それに、久しぶりなんでしょ?」
「まぁ。そうだけど…」

そんな会話を交わしたあと、車に乗り込み目的地へと向かった。

「今さらカッコつけても、な…」
久しぶり…というには、長すぎる時間のような気もするし、気持ちの上ではその「時間」というものが長いのかすら解らない。強いていうなら「長い」のではなく「遠い」という方が正しいのかもしれない。

「驚くかな? 驚くだろうなァ…」
無意識に出てしまう言葉を誤魔化すように、ため息をついたり咳払いをしたり、平静を装ってはみてもハンドルを握る手はなんだか湿気っぽい。

「もう。さっきからそればっかり。いい加減、覚悟決めて」
「でも…。わかるだろう?」
「わかるから。だから、一緒に頑張ろう」

不甲斐ない俺をなじるでもなく、彼女はいつもやさしく励ましてくれる。それはまるで細く深い落とし穴の底に沈むコインを見つけるような、暗闇に絹の糸いっぽんで降りていくような、あり得ないことをやってしまえるようなたくましさを感じる。

「道、覚えてるかな?」
「ナビがあるでしょう」
「景色もだいぶ変わってるはず」
「田舎はそんなに変わらないよ」
「バカにできないぜ?」
「高速に乗ったら黙って出口まで連れてってくれるよ、曲がり角ないんだから」

車の運転が苦手なわけではない。自分の車を持つのは初めてだったが、仕事で車を運転しているし、高速道路だって初めてじゃない。ただ、これから向かう場所にはしばらく行っていないというだけ。

「なにか話をしてくれ」
「そんなんで、だいじょうぶ?」
「あぁ、多分」
「やっぱり引き返す?」
「そんなわけにはいかない」
「そうよね」
「行くって連絡してあるし」
「でも…」
「決めたことだから」
「うん…そうだよね」

車の運転が嫌いなわけじゃない。むしろ運転は好きだし、高速道路は普通の道路よりも開放感がある。だが、今日だけはなんだか居心地が悪いと感じるだけ。悪い予感はない。

「やっぱり普段着の方がよかったかな」
「途中で買う?」
「いや、いい。…これで、いいんだ」

そう、言い聞かせて納得してきた。

どれもこれもが、出掛ける一週間前からやり取りした会話だった。何度も何度も同じ言葉を繰り返す俺に、根気よく、何度も何度も励ましと笑顔をくれた彼女。そこだけは間違っていないと確信している。

「じゃぁ、しりとりしよう!」
「し、しりとり?」
「そう。しりとり。歌しりとり」

そう言って彼女は突然に歌いだした。

丘~を越えぇ♪ 行こうよ♬ 口笛吹きつ~つ…
空は澄み♪ あおぞら…

「はい。『ら』から始まる歌~」
「え~!? そんな途中から?」
「それがおもしろいんじゃない」
「え、続きわかんないだけじゃなくて?」
「失礼ねぇ…面白くしてあげようという努力を」
「てか、歌のチョイスな。久しぶりに聞いたぞ」
「だって、旅っていったらまずこの歌でしょー。ほら、早く。『ら』だよ、ら」
「ら…ね。ら、ら、らぁ…あぁ」

ら~ら~ら~♪ ららら、ららら、
ら~ら~ら~♪ ららら、ららら、
ら~ら~ら~♪ ららら、ららら…

「はい『ら』から始まるや~つ」
「え!? それはずるいでしょ」
「それがおもしろいんだろー」
「もう~やられたー」
「面白くしてやろうっていうどりょ~く」
「ら、ら、ら…」
「ラララはもうなしだぞ~」

それからしばらく、俺たちは高速道路の長い道のりを、歌しりとりをしながら時間を潰した。

くだらないと思いながらも大声で歌い、お互いの歌が「へたくそ」だと言っては笑い、とにかく途切れないよういろんな歌をうたった。
本音は途中の「出口」の文字を見る度に、引き返そうかと左に寄ってはやり過ごし、なにを歌っていたのか、緊張でどうしようもないほどだったのだ。だが、彼女の気転でなんとかうまいこと気持ちを繋ぐことができた。

時折、途切れた単語から言葉を紡ぐうち、ふと舞い込む学校唱歌や懐メロに、遠い記憶がよみがえることもあった。幼いころの思い出は、今となっては笑い話だが、当時はそれなりに心に刺さる出来事でもあったのだ。

俺は昔から人づきあいが得意な方ではなかったが、まわりの人間の機嫌を損ねるような真似だけはしなかった。父親が厳しいひとだったので、争いごとを避けるためか「顔色を窺う」という行為が身についていたのだ。
特に団体行動を伴う場所では、身を潜め極力目立たないよう努めた。時にその行為こそが相手を逆なでするようで、軽いいじめに発展することもあったが、そんな時は自分の意志を通さず意見を述べないようにしていれば、いつの間にか元通りになっていた。

父親にしてみれば、覇気のない息子の態度に感じるところはあったかもしれない。が、なんとなくそうすることが「生きやすい」とどこかで思っていたようだ。
だから大学で実家を離れ、だれも自分のことを知らない土地に出たときは本当に解放されたような気持ちでいっぱいだった。だが、さすがに長男であった自分は、そのまま地方に身を寄せることもかなわずに、Uターン就職せざるを得なかった。どうせ戻らなければならないのならと、それなりの大手の会社を選び就職したのだが、見返してやるつもりで選んだその道すら自分の実力ではなく、父親の配慮があったことを知った俺は、自分の無力さよりもいつまでも父親の思うままに動かされることに反発し、なんの考えもないまま仕事を辞めて家を飛び出した。

愚かなことだとは思う。そのまま甘んじていれば安泰な人生を歩めたのかもしれない。しかし、成人して社会に出てまでどこまでも義務教育のように父親の支配下で生きていかなければならないのかと思ったとき、いい加減自分の人生を憂いた。
好きで身を屈めて生きてきたわけではない。自分の思うようにできることが少ない子どもの頃と違い、大人になって「自立」すれば、いずれ身を潜めなくても思うように生きられる時が来るのだと信じていた自分の甘さに愕然とした。環境が変わっても、考え方や生き方を変えなければいつまでも抜け出せないのだと、自分に嫌気がさしたのだ。

だが、思い描いていたほど世間の風は生ぬるくはなかった。ある程度のことは覚悟していたつもりでも、実際浅瀬のぬるま湯で泳いでいた俺には、少しの風当たりも、自然の向かい風さえも荒波伴う嵐のように感じたものだ。

そうして逃げるように、隠れるようにして避けていた自分の生まれ育った土地に、ようやっと帰る理由ができた。

「ただいま…で、いいのかな」
よそよそしいとは思ったが、それはひと月前に帰郷を知らせる電話口ですでに経験済みだった。弱々しい母親の声から察するに、明らかに自分の知っている両親ではないと感じていた。

目の前にいる両親は、びっくりするほど小さくなっていた。

あれから何年経った?
俺を心配してやせ細る母親の体調も、老いさらばえて髪も顔つきまでもがさみしくなった父親の様子も解らないくらいの時間は経っていた。それでも俺には、必要な時間だったのだ。

長居は無用・・・・最初からそう決めていた。
今さらなにを話していいのか解らなかったし、とりあえず自分は元気で、これからも自分の思うように生きていくだろう。帰郷と言っても移り住むわけではない、お互いの無事と近況さえ解ればいい。今さら上っ面だけの感情のないやさしい言葉などお互い必要はないのだと思っていた。

当然ながら母親は「泊って行け」というだろうと思っていた。だが、その顔つきとは裏腹に俺たちを引き留めることはなかった。
相変わらずな父親は、口数こそ少なかったが、俺の知っている仏頂面だけではなく愛想笑いができるようになっていた。

そんな中、彼女だけがにこにこと、終始笑顔を絶やさなかった。

本当に「救われた」と思った。「ひとりじゃなくてよかった」とさえ思った。それと同時に、どんな思いで笑顔を振りまいているのか「申し訳ない」と思った。

「それじゃぁ、気をつけてね」
母親は話たりなそうに、俺たちを見送った。
押しつぶされるような気分だった。

「ねぇ。本当に、このまま帰るの?」
その時彼女は震える手で俺の腕を掴み、そう耳打ちしたのだ。

電流が走ったかのように振り向いた俺は、叫ぶように口を開いた。
「親父。俺…!」

一瞬、父親の顔がほころんだような気がしたが、気のせいだと打ち消せるくらいにすぐにいつもの仏頂面に戻った。

「いつでも帰ってこい」
仏頂面は、相変わらずだった。だが、その目はとてもやさしく、うるんでいるようでもあった。

「あぁ。また来るよ。…今度は3人で」

俺も、親父になるんだ・・・・。





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