薬膳

苦手意識

最近、自分の苦手意識について気付いたことがあります
それは「なぜ嫌いだったのか」というところを追及して遡ると「できない」「わからない」から嫌いということだったみたい

例えば、今は楽しい工作だったり、お絵かきだったりは、その昔は大嫌いな分野でした。なぜなら、お手本のようにきれいに「仕上がらない」し、みんなのようにうまく「作れない」し「描けない」から。だから大嫌いだった
几帳面ではないわたしが作る工作は、糊がはみ出ていてべたべたしていたり、指紋がいっぱいついていたり、正しい形ではなかった
不器用なわたしの描く絵は、ちっとも被写体によせてはいなかったし、陰影もなければ遠近感もないただの落書き、もしくは平面図だった。だから図工の時間が嫌いだった

そして多分、その醜態をさらされるのがイヤだったから「嫌い」を行使した
醜態をさらす…図工に限らず学校でやることにはすべて結果評価がついてきた。それは当たり前なのだけれど、わたしが小学校の頃の夏休みの宿題は、体育館に並べられ、金や銀の紙が貼られた。さらに飽き足らず金や銀の紙には「優秀」とか「特別」とか記されていたりもした。わたしはそれを得たことがない(運動会でも同じことが言える)。これを得られない人生は当時にしてみれば「落伍者」そのものだったのだ。学生時代のこうした苦い思い出は、だれにでも少なからずあるのではないだろうか。そして卒業したからといって解放されるわけでもない
その結果評価呪縛の刷り込みが、その後の人生においてなににつけてもついて回るようになるからだ

ある程度の評価(運動会なら3等賞以上)を受けて育った人には、そこまで感じないかもしれない「劣等感」や「嫌悪感」が、結果や評価と同じように心を縛る(ひょっとしたらわたしだけかもしれないけれど…)
もしかしたらわたしは、いや多分、とてもプライドが高くて見栄っ張りなのだろう

時にわたしは、イケメンと年下が苦手だ
なぜなら、イケメンと対等であるだけの容姿でもなければ、年下に誇れるような技量がないからだ。ここ、別にってことないように思える。でも、わたしには結構つらたんポイントなのである

だいたいが思い込みからくる
美人はイケメンと話をしても釣り合いが取れるからいい。だが、わたしがイケメンと話していると「絡んでいる」ようにとられる。年下に至っては、充分にわたしよりも「しっかりした人」や「できる人」がいるので以下同文

わたしも昭和の人間で頭が固いんだと思う。特に自分に対して上下関係を気にすることはない。けれど、常識レベルの情報を知らないままに会話をしていると自分が情けなくなるというだけのことなのだが

だからこれは「イケメン」と「年下」が嫌いと言ってしまった方がいいのかもしれない

と、おもった
いいや、嘘・・・・だ

本当は大好きだ。無茶苦茶絡みたいし、別に馬鹿にされようとも若人と絡みたい。あ・・・・ただ絡みたいだけなのかもしれない、ヤバイ
でも絡みたいからこそ知的でありたいのかもしれない。他に誇れるものがなにもないから…あぁ結局、やっぱりただの見栄なのかぁ…なんかちいせぇな

このお話は、下記の紹介文に基づいて「自分探し」のつもりで書いています

なんだかだんだん、わたしってこんなちっせぇやつですよ…って、恥をさらしているような気分になってきた・・・・(-_-メ) ヤバイ⁉

いつもお読みいただきありがとうございます とにかく今は、やり遂げることを目標にしています ご意見、ご感想などいただけましたら幸いです