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小説「オーストラリアの青い空」14

 8月下旬、感染をほぼ抑え込んできたクイーンズランド州の保健省が突然「公衆衛生上の注意喚起」を発した。
 州都ブリスベンからシドニー経由で日本に帰国した女性が、日本の検疫で新型コロナウイルス陽性と判定された。保健省は女性の立ち寄り先の追跡調査を行い、ブリスベン発シドニー行きバージンオーストラリア航空便の日にちと便名、さらに女性が食事をしたブリスベン郊外のカフェの固有名詞、カフェに滞在した日時などを発表して、同便搭乗者とカフェの客全員に検疫を求めた。
 クイーンズランド州では、持ち帰り以外の飲食店利用客は、店で名前と住所、電話番号、メールアドレスの記入が義務づけられているから、接触者の追跡は可能だ。ただ、5月中旬の営業規制緩和時は、どの店もピリピリしていたが、次第に緊張感は緩み始めていた。
 オーストラリアでは、一人でも陽性者が出ると、ニュースはホットスポットとして映像を流して報道していた。

 続いて、ブリスベンの少年院でクラスターが発生し、連日ひと桁ながら感染者が出ていた。このため州政府は、ブリスベン市と周辺の広域に新たな集会制限を発令した。
 ヨシオとキョウコは果物や衣類を買うため、土日に開かれるゴールドコースト郊外のマーケットを度々訪れていたが、それまでより人出は減ったように感じた。

 9月初旬に帰国便を予約するかどうか――。
 感染防止と経済再開の狭間で、世界は揺れていた。規制を緩めてある程度の感染を許容した方が、社会全体へのダメージは少ない、とする専門家もいた。インフルエンザにはワクチンがあるものの、決して万能ではない。ヨシオはこの10年間、毎年予防接種を受けているにもかかわらず2回ほどインフルエンザにかかっていた。
 8月下旬、 シンガポール政府は新型コロナウイルスの感染リスクが低いニュージーランドとブルネイの2か国に限って、入国時のPCR検査などを条件に、9月から観光でも入国を認めると発表した。この緩和措置は、3月に外国からの観光客の入国を禁止して以降、初めてとなった。

 ヨシオらは毎晩のように帰国のタイミングについて、ヒロコやユウジと話し合った。
 安全を最優先にするなら、世界的には最も安全な地域と言えるゴールドコーストでもう少し様子を見るのがベターだ。ユウジもそうアドバイスしてくれていた。
 それは間違いない。しかし、長期出国の準備もなく、長い間日本を離れているリスクもある。いくつかの行政手続きも滞っているし、スマホに現地SIMを入れたため携帯番号が変わっているから、ヨシオに連絡がつかずに心配している知人がいるかもしれない。電話の転送手続きもアプリでできるが、試みたものの手に負えないため放ったらかしになっていた。
 施設にいる老母のことなど、連絡はしているものの、不安を数えればきりがない。逆に帰国してみて、「もう少しゆっくりでもよかった」となるかもしれない。

 シンガポール航空のブリスベン発チャンギ経由関空行きは、ホームページから金曜の便を予約することができた。
 ただ、平時とは違う対応が求められた。接触を最低限に抑えるため、オンラインチェックインが求められた。機内では食事時以外のマスク着用が必要で、機内食もパックされた特別仕様だという。
 平時ならチャンギ空港は、丸一日でも楽しめるほど、飲食店は言うに及ばず、映画館やフィットネス、マッサージなどが充実している。だが、トランジット客は指定エリアから出ることはできない。搭乗と降機、関空での入国と検疫などもどれぐらい時間がかかるか分からなかった。
 もし、普通の風邪で熱が出ていてチャンギ空港の検温で引っかかったら、そのまま隔離される恐れもあった。


「明日から春ですよ」
 小さなヘアサロンを一人で切り盛りするローラが、キョウコの髪を切りながらそう告げた。
 8月末日の午後、9月に帰国することをキョウコが話すと、「そう、やっと決めたのね。明日から9月だから、こちらは一気に暑くなる。春をすっ飛ばして、長い夏になる。短い春を楽しんだらいいのだけれど、そうも言ってられないのでしょうね。とにかく気をつけて」
 彼女はキョウコとヨシオがこの店に通い始めたころの早口の英語から、ゆっくり単語を区切って話してくれるようになっていた。
 「ところで、日本語は忘れていない?」
 ジョークも忘れずに。

 ローラのヘアサロンは、ヨシオとキョウコが買い物などで通りがかる小さな商店街に、6月ごろから開店していた。コロナ危機下、並びのレストランやミニスーパーが相次いで閉店する中、新規の店は珍しかった。
 黒っぽいインテリアの店内に、理容椅子が2台と待合のソファーがあるだけのシンプルなヘアサロン、というか、男性向きの散髪屋さんだった。前を通っても客を滅多に見かけなかった。実際、この国にはカフェと並んで美容院や理容店はどこかしこにもあるから、競争が激しいのだろう。

 ローラは豪州大陸南端の島・タスマニア州出身といい、メルボルンなどオーストラリア各地で様々な職を経て、ゴールドコーストで店を開いた。マルチーズの愛犬エリーと暮らしていて、客が来ると店の奥からエリーの鳴き声が聞こえた。
 ローラは灰色とブルーが混じった目に、多少のことでは動じない落ち着きを感じる女性だった。
 キョウコに続いて、ヨシオもハサミを入れてもらい、レジでクレジットカード決済をしていたヨシオは、棚の奥の箱を見つけ思わず笑ってしまった。
 四角い箱にはトランプ大統領の顔が印刷され、「Donald・Trump Toiletpaper」の文字が読み取れた。
 ローラは「ああ、これね」という表情で、箱を開けた。ビニールできれいにパッケージされたトイレットペーパーには、何やら叫んでいる大統領の顔が薄い青色でズラリと印刷されていた。いわゆる面白グッズだが、箱の裏にはオーストラリアの会社のウエブサイトと「Maid in China」の文字。
 「お土産にひとつあげる」

 9月に入って新型コロナウイルスの感染者は、世界で2555万人、死者は85万人を超えた。アメリカの感染者は600万人、死者は18万人となった。黒人が警官に暴行される事件は後を絶たず、激しい抗議デモが全米各地で繰り返されていた。

シニアの旅に挑戦しながら、旅行記や短編小説を書きます。写真も好きで、歴史へのこだわりも。新聞社時代の裏話もたまに登場します。「面白そう」と思われたら、ご支援を!