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小説「オーストラリアの青い空」8

 ウイルスは半月ごとに遺伝子変異を繰り返し、5月中旬までには世界で17種類に分化していた。
 6月中旬には、世界の感染者は800万人に迫り、死者は42万人を超えた。1日当たりの感染者が14万人を上回り、半数が南北アメリカで確認された。とりわけブラジルでは累計80万人を超え、アメリカの約200万人に次ぐ世界2番目の感染国となっていた。アメリカの死者は11万人を超えた。
 ブラジルの指導者は相変わらず、感染拡大防止より経済活動を優先すべきだと主張し、反対する保健相を相次いで解任したり州知事を攻撃していた。

 アメリカでは5月下旬、白人警察官が座り込んだ黒人男性の首を、膝で押さえつけて窒息死させたことから、激しい抗議活動が全米を覆っていた。アメリカの指導者は「暴徒には銃撃を」と火に油を注ぐ発言を繰り返し、怒りの声は世界各国に広がっていった。
 コロナ危機を自宅で耐えていた人たちは、人種差別に怒り、正義を叫んで街に繰り出した。ニュージーランドの女性指導者は拡大する抗議活動に対し「理解するが、今は社会的距離の維持を破るときではない」と批判した。
 ニュージーランドでは、6月上旬、新規感染者が10日以上ゼロとなり、ウイルスに対する警戒システムを、最低のレベル1に引き下げた。政府は感染撲滅を宣言したが、「外国人の入国は厳格な制限を維持する」としていた。

 日本では5月下旬に緊急事態宣言が解除され、飲食店や遊園地も徐々に営業を再開し始めた。国内の新規感染者は二桁に抑えられ、1日千から万単位で拡大する諸外国からは、強制措置を発動しないにもかかわらず爆発的な感染が起こらない日本について、「不可解な謎」などとする報道もあった。
 日本の有力な指導者の一人は「日本は外国と民度のレベルが違う」と国会で答弁し、野党は「コロナと世界が戦っているときに、外国を見下した発言だ」と批判していた。
 しかし、東京や一部の地方都市では感染者が再び増える日もあって、だれもが第2波を恐れていた。

 ヨシオとキョウコのオーストラリア生活は、6月半ばには3カ月になろうとしていた。
 ヨシオらの観光ビザは、3カ月以上の滞在を認めていない。放っておくと不法滞在になるため、シドニーの日本大使館やブリスベンの総領事館は、短期滞在者にビザを延長するようメールなどで警告していた。
 ヨシオが日本の領事館に問い合わせると、ビザの手続きはオーストラリア政府内務省の所管事項なので、内務省の日本語通訳窓口の電話番号を紹介された。
 
 最長1年間の滞在が認められるビジタービザを申請することにしたのだが、実のところこの手続きが難物で、丸2日を費やさなければならなかった。
 まず、全て内務省移民局のウェブサイトで完結しなければならない。びっしりと質問項目が並んだ画面を20ページほどクリアして申請する。
 住所やパスポート番号を記入するのは当然としても、延長理由や日本の連絡先、過去の入国歴など多項目にわたっていた。「はい」「いいえ」を10カ所以上答えるページもあり、当然、全て英語である。
 日本語への機械的な翻訳はパソコンがやってくれるが、精度は低い。例えば、「Yes」「No」が「はい」「番号」となる。「No」を「いいえ」ではなく「Nomber」と認識するのだ。
 ヒロコの英語力がなかったら、ヨシオは手続きを途中で放棄していただろう。
 
 それに、申請者ヨシオが、オーストラリアで仕事をしていないことを証明する書類の添付が必要事項の一つとなっていた。
 日本の会社で定年を迎え、リタイアしているヨシオにとって、そんな証明などできる訳がない。現地事情に詳しいユウジによると、この国は自国労働者の仕事を守ることに神経質で、ビザ延長の申請者が労働者として定着することを嫌うためだという。
 日本語通訳窓口を通し、ヨシオが所管の内務省移民局に問い合わせると、離職証明を求めない申請フォームがある、と職員が教えてくれた。しかし、指示通りやっても必ず離職証明を求める画面が現れた。再び電話で問い合わせると、別の職員が違った説明をした。
 画面内に注釈を書くコーナーがあって、離職証明を添付できない理由を「正直かつ簡潔に書いてくれたらいい」とのことだった。
 もう一つの難題は、ヨシオに安定した収入なり資産があることを証明する書類の添付だった。観光ビザのまま生活に困って、闇で仕事をする外国人を警戒しての措置だ。
 ヨシオの収入は、年金しかない。日本年金機構のアカウントを登録していたから、ネットでアクセスして日本語の支給通知書をコピーした。ただ、日本語の文書は資格を持つ業者による翻訳を求められる可能性があるため、ネット銀行の残高証明を添付した。ネット銀行からは英語バージョンを取ることができた。
 そんなこんなで、キョウコの分と合わせ、ビザ延長申請手数料5万円余りをクレジットカードで決済して手続きは終わった。
 ただ、これでビジタービザが認められるかどうかは分からない。後は「追って沙汰を待て」ということらしいが、申請さえしておくと、ブリッジングビザが適応され不法滞在は免れるとのことだった。
 ただ、ブリッジングビザは、出国はできても再入国ができないものもあって、オーストラリアに滞在する外国人のビザコンディションは、複雑だった。


 このころ、ヨシオは帰国を詰めて考え始めていた。
 先が見えない中、この件は頭から離れなかったものの、具体的には先延ばしにしていた。
 当初は、入出国規制が緩和されLCCが復活するのを待っていたが、6月上旬になっても動きは鈍く、ヨシオは焦り始めていた。感染第2波が押し寄せると、下手をしたら年内は帰国できないかもしれない―。
 6月中は日豪間唯一の直行便、全日空シドニー・羽田便は飛んでいたが、7月以降はどうなるか情報はなかった。6月早々には、日豪間の国際郵便がストップしたこともあった。
 羽田に帰れば、PCR検査と14日間の自己隔離が求められる。しかもその間、タクシーを含む公共交通機関は利用できないと、厚生労働省は指示していた。
 問題はどこで自己隔離をしのぐかだ。厚労省は家族や会社の支援で自宅に戻ることを勧めていた。だが、リタイアした身で会社の支援は無理だ。東京からレンタカーで神戸の自宅に戻る手もあるが、国際線で帰国してから、8時間ほどの運転はきつい。東京のホテルに籠もることもできるものの、食事のことなどを考えると気が重い。
 このためヨシオは帰国をためらっていたのだ。しかし、羽田からレンタカーで帰るのが、一番ストレスなく済むのではないかと思い始めた。調べると、神戸の自宅まで歩いて10分余りのところに、大手レンタカーの支店があった。
 長時間の運転とはいっても、丸一日のドライブなどオーストラリアでは日常茶飯事だ。荷物を自宅に置いて、レンタカーを支店で乗り捨て、歩いて帰ればいい。これならバスや電車、タクシーは一切使わずに帰宅できる。後はネットスーパーで食材やお酒を宅配してもらい、家でゆっくりできる。
 これなら、PCR検査結果が出るまで空港で待機する必要はない。自宅で待てばいいことになっていた。

 ヒロコとユウジ夫婦との共同生活を、料理上手のユウジのお陰もあってヨシオとキョウコは快適に過ごしていた。とは言え、言葉が尖ることもあった。

 ゴールドコースト一帯は、真冬の6、7月でも最低気温が10度を下回ることはまれだ。しかし、真夏の余韻が残る3月に入国したヨシオらにとって、冬の訪れは体感温度以上に寒く感じられた。
 コロナ危機以前の感覚が皮膚感として残っているため、急激に変わる世界と日常に気持ちが付いて行かない。タイムマシンでいきなり、それまでとは似て非なる近未来に放り出されたような。

シニアの旅に挑戦しながら、旅行記や短編小説を書きます。写真も好きで、歴史へのこだわりも。新聞社時代の裏話もたまに登場します。「面白そう」と思われたら、ご支援を!