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タスマニア 時を旅する その三

ストローン…流刑地と神秘の密林

 ホバートから西海岸のストローンまで、Googleマップでは約3時間半余りと表示されていた。しかし、実際には倍ほどの時間を覚悟した方がいい。
 新幹線で3時間なら、途中で弁当を広げたり居眠りもできる。本に夢中になったらあっという間だ。
 だが、Googleマップの時間計算は、制限速度通りノントップで走り続けるのが前提らしい。絶景での寄り道、道中でやっと見つけたカフェ、買い物、道路工事、慣れない無人給油所での戸惑いとかを含めると3時間半は実質、1日の道のりとみても言い過ぎではなかった。
 この距離感はオーストラリアの道路事情に詳しい娘ヒロコの夫ユウジのアドバイス通りだった。
 日没は遅いものの夕刻が迫ると、否応にも焦る。まだ日の高いうちに宿泊施設に荷を下ろしてまずは安心したい。

タスマニア西海岸近くの街というか村で一息入れようしたが、店は閉まっていた。レストラン、バー、酒屋、宿泊施設などと書いてあるものの、いつ開店するかどうか不明だった。ただどんな田舎町にも「Bottle shop」、酒屋があるのはさすがにオーストラリアだ

 ヨシオはネットでストローンのロッジを予約していた。確認メールに「ドアに鍵が付いていますから自分で開けて部屋を使ってください。チェックアウトは鍵をつけたままにしてください」となっていた。
 別荘風の家屋が平べったい岬に点在し、雑貨屋を兼ねた食料品店とカフェ、酒屋、ホテル、桟橋が小雨交じりの黄昏の中で静かに眠っていた。
 タスマニアは雨が多い。晴れ間とにわか雨が示し合わせたように交代でやって来る。

ストローンのロッジ。レンタカーを横付けにして、付けたままの鍵を開けて入室するというのどかさ。部屋には冷蔵庫やレンジ、食器類なども備わっていて快適だった

 ここの楽しみはほぼ1日がかりのゴードン川クルーズだろう。クルーザーで桟橋から湾入り口の獄門峡、最も過酷な入植地監獄と囚人たちに恐れられたセラ島、さらに川を遡って冷温帯雨林を巡るツアーだ。
 どれも密度の濃い世界遺産。
 「今日の乗客は?」
 「221人だ」
 スマートな双胴船のクルーはほぼ満員の盛況にご機嫌だった。ヨシオが驚いたのは、操舵室が乗客に開放されていることだった。船長が気軽に話しかけてきて、隣の席を勧めてくれる。船の位置や深度なディスプレーを見ながら、曲がりくねったゴードン川を遡る。

船長の隣に座ってクルーズを楽しむことができる。これは多分、日本では考えられないのではないか。船長は帽子を「どうぞ」と渡してくれるほどサービスしてくれた

 ゴードン川やストローンが面するマックォーリー湾の海は赤い。コーヒー色をしている。
 ゴードン川上流の植物に含まれる赤ワイン成分のタンニンが溶け出して、特異な色の水域となっているとされている。

セラ島の刑務所跡。巨大なシダと相まって時の流れを感じさせてくれる
パン焼き釜の跡。囚人たちの苦悶の叫びが漏れ聞こえるような錯覚を覚えた

 観光クルーズとはいえ、ストローンの桟橋からゴードン川を遡った雨林散策の上陸サイトまで50キロほどはあろう。セラ島ツアーの後、船内では弁当のようにパッケージされた昼食が配られた。
 乗船時、ベジタリアンかヴィーガンかなどと食事志向を問われたように、昼食はきっちり区別されていた。ヨシオの隣のインド系と思われる家族はベジタリアン弁当だった。
 それだけ食事に神経質なお国柄なのに、極端に肥満した方々が多いのもこの国の謎だ。

太古からの時間が苔となって積み重なっている
ゴードン川を取り囲む冷温帯雨林は苔と茸の天国。湿地や倒木が入り乱れた密林内にはしっかりした木道が整備されていた

 雨で膨らんだ苔やシダ類が地面や巨木を覆い尽くし、すべての音を吸い込んでしまっていた。ヨシオは鼓膜が痛いほどの静寂に包まれた。
 これだけ生命の気配が濃いのに、鳥のさえずりすら聞こえてこない。何万年もの森の世代交代に浄化された大気は肺胞の一つ一つに染み込んでくる。

静かなマックォーリー湾

シニアの旅に挑戦しながら、旅行記や短編小説を書きます。写真も好きで、歴史へのこだわりも。新聞社時代の裏話もたまに登場します。「面白そう」と思われたら、ご支援を!