ラクダ

砂漠の激走500キロ

アリススプリングスその1 アリススプリングス―。何ときれいな響きを持った地名なのか。アリスの泉。岩と土くれ、乾いた砂ばかりが延々と続く荒野で、こんこんと湧く泉を見つけた19世紀の探検家たち。彼らの喜びが伝わってくるようである。
 アキボーとキョウコの豪州30日の旅も、ウルル(エアーズロック)でようやく後半に入った。もう半分? まだ半分も残ってる? シドニーからゴールドコースト、ブリスベンを経てウルルへ。虫にやられ、カメラをなくし、道に迷い、胃腸の不調、たまる洗濯物、レシート類の分厚い束---、シニアの個人旅行は、楽ちんの大名旅行ではない。出発前、長旅に備えてかかりつけの内科医にいろいろと薬を処方してもらったとき、アキボーが「富山の薬売りみたいになってしまいますなぁ」と言って大笑いされたっけ。
 それぞれの節目ごとに「もう帰ろか---」との思いがもたげたこともあった。しかし、「次はどんなところや」という好奇心よりは、実際には予約のキャンセルは「もったいない」「もう面倒くさい」との単純な理由に引っ張られていった。行き当たりばったりの旅は、時に野宿もいとわない若者の特権だろう。シニアにはシニアのスタイルで旅をするしかない。
 さて、アリススプリングスはこの旅の泉となるか。

△さらばウルル。もう会えないやろな---

ウルルと見まがう「隠し球」か

 エアーズロック・リゾートからアリススプリングスまで、Googleマップで468㎞、5時間40分となっている。昼飯や休憩をはさむと、一日仕事となるだろう。ガソリンを満タンにして、飲料水も買った。
 ウルルの磁力から逃れようとするかのように、アキボーは車のアクセルを踏んだ。
 対向車も先行車もまれにしか現れない気楽な道ではあるが、未知の地図に足跡をつけていくドライブはスリリングな高揚を伴う。大豪州大陸のど真ん中に、たとえ米粒にも満たない一点としても、本当にここに居るという実感は旅でしか得られない。

 ――そう言えば、あのときは焦ったなぁ。ハンドルを握りながらアキボーは5年前、初めて海外でレンタカーを運転したドイツ旅行を思い出した。慣れない部門に配属されたストレスから、気分転換のため「アウトバーンをドイツ車で走りたい」という子供じみた動機をヤケクソで実現させたのだ。
 フランクフルトでアウトバーンに入ろうとして、車のリミッターが解除できずに時速35キロでウロウロしたこと。200キロ以上で飛ばしていくポルシェやアウディーの豪快な走り屋たち。アウトバーンを南下していると突然浮かび上がるバイエルンアルプスの美しさ。片側一車線の一般道にもかかわらず制限速度は何と100キロ、センターラインは消えていて対向車の大型トラックが道の真ん中を突進してきたこと---。
 何より、ミュンヘンで車を返却する直前、カーナビで確認していたガソリンスタンドがなくなっていて、満タンにするためにスタンドを探してミュンヘンの市街を恐る恐る走ったこと。夕闇迫る大都会、右も左も分からない。道路の白線もほとんど消えていて、自転車レーンや訳の分からない標識に混乱して、あのときは疲れたなぁ---。もう、二度と外国で車は運転せんと決めたのに。

 青空と荒野だけの道を1時間ほど走り、最初の休憩地カーテンスプリングスでトイレ休憩をとった。ガソリンはまだ十分。伸びをして体をほぐしていたら、地平線にウルルが見えるではないか。そんなアホな。とっくに100㎞は離れているはず。
 オーストラリアには、まだ知られていない「隠し球」があるのか。後ほどネットで調べて分かったことだが、これはマウントコナーといい、海抜はウルルとほぼ同じ859メートル、幅はウルルよりでかいのではないか。私有地のため入ることはできず、ヘリコプターによる上空からの観光ツアーはあるらしい。
 アキボーらとは逆コースで、アリススプリングスからウルルへ向かう人たちは、ウルル到着の前にマウントコナーを目にするため、ウルルと間違うことが多いという。山の線が真っ平らで、ウルルと形は違うものの、まさかの威容である。

△ウルル―アリススプリングス間の数少ない給油地カーテンスプリングスで。左奥、木立の向こうに長細い影のように見えるマウントコナー。これでも地面からの高さは300メートルもある。たまたま写っていた

水鳥遊ぶ池が

 単調な舗装道路が果てしなく続く。道路標識といえば「FLOODWAY」と「カンガルーの絵文字」ぐらい。前者は「冠水注意」とのことだろう。こんな乾燥した砂漠で「冠水」とはどういうことかと思うが、雨が降ると一気に水没してしまうという警告だ。 
 カンガルー標識は野生カンガルーとの衝突に注意してください、という意味。原野に目を凝らしてカンガルーを探しながら運転していると、対向車線の路肩に停まっているトラックがあった。すぐ脇には、ひっくり返ったカンガルーの脚がニョッキリ。その生々しさにはドッキリさせられた。衝突現場の目撃である。本当におるんや―。 

▽舗装のメンテナンスは行き届いていて、ストレスなく走ることができる。カンガルーの飛び出しだけでなく、眠気も怖い 

 カーテンスプリングスの先は、アリススプリングスまで2カ所の給油地があるだけである。『地球の歩き方』の地図にエルドンダというポイントは載っているが、エルドンダとアリススプリングスの中間にはもう一つ休憩場所があった。現地でもらった地図にしか出てこなかったスチュアート・ウエルである。
 エルドンダで給油と昼食を手早く済ませ、距離を稼ごうとスチュアート・ウエルを目指す。カラカラの川を越え、アキボーはひたすら飛ばす。ときたまキャンピングカーやツアーバスを追い越すぐらいの単調なドライブ。のどが渇くが、キョウコもトイレが気になって水を控えめにせざるを得ない。
 強い日差しが傾きかけたころ、スチュアート・ウエルがあった。給油とトイレ、小さなカフェ、ラクダがいるオリ、そして驚いたことにユーカリの林に囲まれ、水鳥遊ぶ池があった。
 ウエルとは井戸の意味もある。19世紀、初めて大陸を縦断した探検家ジョン・スチュアートにちなんだ地名だろう。荒涼とした世界にいきなり現れた水辺の世界だった。

△スチュアート・ウエルの池。砂漠の中に現れた幻か。オーストラリア政府観光局のホームページにも出てこない不思議なところ


▽未舗装の平地に駐車スペースとガソリンスタンド、休憩施設があった。トイレには鍵がかかっていて、売店でキーをもらわないと使えなかった

不思議の街のアリス

 やっとアリススプリングス。複数車線の道路、コンクリートのビル、街路樹、商店、公園、犬と散歩している人もいる。たどり着いた安心感はそこそこにして、とにかく、日没までにはホテルに入りたい。場所は地図で目星は付いていたものの、早速Googleマップのお世話になった。
 レンタカーの旅ではいつも、ラストワンマイルでアキボーは強い疲労感に襲われる。張り詰めていたものがゴール寸前、一気にあふれようとする。夕闇迫るミュンヘンで、ガソリンスタンドを探して迷走した悪夢---とまではいかないけど。
 ホテルには着いたものの、どうも駐車場が分かりにくい施設で、まごついていたらどこからともなく女性が近づいてきて、「ここに停めて」と数メートル先を仕草で指示した。アキボーがサイドブレーキを引いてドアを開けると、その人が「20ドル」と言って手を出した。「20ドル?」。1500円ぐらいではないか。チップとしたら額が大きい。ためらうアキボーに「のどが渇いている」とたたみかけてくる。
 ここまでトイレと水をじっと我慢していたキョウコが叫んだ。「わたしも生ビールが飲みたかったんや!」。余りの剣幕に、その人は姿を消してしまった。そこまで言わんかてええのに---。
 不思議の街で、アリスの歓迎であった。
 

シニアの旅に挑戦しながら、旅行記や短編小説を書きます。写真も好きで、歴史へのこだわりも。新聞社時代の裏話もたまに登場します。「面白そう」と思われたら、ご支援を!