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心の中に平穏を

ヨガの目的の一つに心の中に平穏をもたらすことがある。シャンティというサンスクリット語がある。平穏を意味する言葉。私の理解の範囲ではそれは全世界の人や鳥、花や魚がみな平穏であることではない。私が今ここにいて、私は今平穏であるという感覚。これは世界平和でないわけではないにしても、世界を今ここの自分とすること。よりミクロの感覚だと思う。

私は私に対してさまざまな期待をしている。だから、その期待が騒音となって私のシャンティを奪う。さらに、その期待を満たさない要因になった私の体の外側のさまざまな事象も私に取っては略奪者になる。それらに対する怒りが体の中に生まれてまたシャンティを失う。私は私に取って略奪者になる。

この期待を捨てることもシャンティを得るための方法だと思う。でも、私は全てを捨てられない。だから、シャンティを得るために私は期待を満たす必要がある。私は私のシャンティのために勤めたい。そのために人の役に立ったり、お金を稼いだり、沸き立つ情欲を満たしたりする。そして、私のシャンティを得たい。

社会は私にさまざまな結果を求める。お金を稼げと、結婚しろと、子を設けろ、人を助けろと。それを満たさないと私はシャンティを得られない。私は私にさまざまな結果を求める。ものを作れと、美味いと思え、眠れ、飲め、女を抱けと私に求める。それを満たさないとシャンティを得られない。

私はシャンティが欲しい。

盆休み、サッカーの練習もないあの夕方。体は暑さで少しのだるさを覚えて活力はそこになく。何もしないことを求めて求めたその瞬間にそれは得られる。他人が海に行ったり、遊園地に行ってることすら頭の中にない。ただ、何もしないを受け入れて何もしないまま時間が流れる。軽い脱水さえも私の平穏のために働く。床に寝ている体は快適でもなく、不快でもない。扇風機の風が断続的に体を撫でる。

そんな時間を、そんなシャンティが欲しい。次の瞬間、空腹や情欲が湧き出て、母が帰ってきた時にしてない家事の数を数えて怯える時間が来てしまったとしても、私は私のシャンティが欲しい。

オー、シャンティ、シャンティ、シャンティ

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