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森乃央歩論1


ここnoteで異常な日録を発信している森乃央歩。彼(もしくは彼女)の日録にアクセスすると、整然と並んだ明朝体の群れがスクリーンの白を眩しく演出している。くろぐろとした白。ゴミ捨て場で置きっ放しにされたバケツの中に、ボウフラの群れを見つけた時の、あのゾゾゾとする感覚。

つまりあの得体の知れない、組み合い方がまったく分からないものと出くわした時の感じが、森乃央歩の日録にはあるのだ。もしこの日録が一般的な紙の本で読めるなら、こんな喩えにはならなかったと思う。インターネットは速くて眩しい。紙の澱んだ白、ページをめくる重みと速度の世界に還れよ、と説教したくなる。

だけど、彼は確信犯に違いない。これらの異常な日録はnoteというシステムが生まれた時から抱えていたバグであり、思ったよりも(おそらく20年ほど)早く現れた、招かれざるお客さんなのだ。noteで文章を書いている人のほとんどは奉仕人で、ぼくたちにごちそうを振舞ってくれる。ところが森乃央歩はぼくたちの目の前で、自身で作った料理にむさぼりつき、「お前の分はお前が用意しろ」と唾液と食べかすを撒き散らしながら迫ったあと、不機嫌そうに大いびきをかいて寝る。

だいぶ失礼な表現になったけど、そうなのだ。この訳のわからない一連の行為がなんなのか、ぼくはこの態度こそ純粋理性批判、もしくはそれに似た何かだと理解している。

森乃央歩の中では自己批判の精神が力強く駆動していて、推し進める力と引き止める力が同居している。日録は文章のリズム、音楽的な力を頼りながら綴られ、”ここではないどこか”に行き着く。繰り返し。

計画は複雑にしろよ。ぼくはごたごたがすきなんだ。 
カニスバーグ作 "クローディアの秘密"

分かりやすくて、論理的に見えて、思い切りのいいモノがぼくたちは大好きだけど、そうやって生きづらさの押し付け合いをしていても虚しいだけだ。いま世界に必要なのは革命家なのか、各人の哲学する態度なのか、考えなくちゃいけない。

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