文章を核
こんにちは。
ペジ男ことガタリのギターボーカル、グンジマです。今回ブログ代わり、客寄せ代わりに文章を書いていこうかと思い立って筆を取っています。
今回は文章を書くとはどのようなものか、について僕が考えていることを垂れ流していきましょう。
僕は例えば曲を作るときや絵を描くときなんかもモチーフやテーマ性とかを先に決めずに直観とか思いつきと勢いとかで全て決めるようにしている。
その時の気分とか言葉になる前の気持ちとかをかなり大事にしている自負がある。
僕の場合、言葉が言い訳的に駆動することが多いからフレームワークした後の感性をあまり信じられないという消極的要因が大きい。
寂しさを描きたいとかそういうものは全て後出しで決めていて、根っこのところの「かっこいい」と思った反射的な感性に思いを委ねているのだ。
それだけが、僕の中にあるホントウだと信じる信仰がある。
俗に言う衝動性だ。
ロックは初期衝動の音楽だという言説を十代の頃から信じている節があって、その為にジャンルに囚われずに別の生き物のように振り続けられる無作為な志向性に自分自身が振り回されているような日々を送っている。
つまり何を嗜好するのかとかを気分に任せて手放して、自分の中の他者として取り扱っているという自覚のことを言っている。
そういう雰囲気で適当に生きているとどうなるかというと、いろんなことに無責任になる。
その時の自分はそう思ったのだから仕方ないというふうないい加減な男が出来上がるのである。
対外的にはちゃんとしようとする我が人間性がかろうじて社会性を保ってはいるものの、本質は猿みたいなもんだと自覚している。
そしてそんな自分が嫌いではない。
そんな無責任な人間にとって文章を書くということはどんなことかというと、それもまた衝動性でしかない。
つまり文章が目的を持たない、浮遊した遊びの延長線なのだ。
それは僕自身の好みである、詩集やその他のわかりやすい情報の取捨選択ではない形の文章なのだ。
この書き方は異論を呼びそうであるが、明らかに詩作は合理性とは一線を画すものとして現前している。
だが一方で、僕はこうした書き物のほうが合理的であるようにも感じている。
ここでいう合理とは、人間とは何ぞやというふんわりしたテーゼに対しての科学的でないしかたによる一貫性だ。
今書いているものも、走り出しからここまで全く構造に目を向けずに書いている。
厳密に言えば起承転結の雰囲気を横目には見ているが、その程度だ。
この書き物が良いものか悪いものか、伝わりにくいものかという是非についても興味がない。
単に自分の話を書いてみるのは気持ちの良いものなのである。
そうした衝動性とか志向性とかにもう少し目を向けてもいいのではないだろうか。
僕の言う脱目的性とは、単に目的を捨てることではなく、例えば集客とか小説を書くとか自己開示をするとかにおける書き方に終始する以外の方法を模索して、文章と言葉を自分の面白いと感じる方向に拡張していく仕方を勧めているのである。
簡単に言えば、自分に素直になっちゃえよっていうことだ。
今日はこの辺で。
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