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奈良の風土:北部中世は、興福寺の独立国家

奈良北部(=奈良盆地)の中世(鎌倉時代→安土桃山時代)は、戦国大名が台頭するまでは興福寺が統治する事実上の独立国家でした。

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西洋でいえば「教皇領」みたいな存在か。今の興福寺は最高峰の仏像群(阿修羅像・阿吽・銅造仏頭など必見です)を保管しているお寺としてしか存在感がありませんが。。。

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(2021年 興福寺伽藍)

もともと平城京遷都は、日本の国家体制の礎となった大宝律令(701年)具現化の一環。

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(2021年 平城京跡:太極殿)

大宝律令の具現化を目的に
→政治体制の整備
→その結果としての行政組織の箱物の必要性
→藤原京に代わる理想のスペースと場所
→藤原氏の領地=山科により近い平城の地に遷都
という流れ(「奈良謎解き散歩」より)。

平城京遷都の主導者=藤原不比等は、平城京遷都に伴って藤原氏の領地=山科にあった高階寺を平城京を見下ろす平城京西側の奈良湾曲崖という台地の先端に移転。平城側からみると、JR奈良駅から徐々に春日大社に向かって緩やかな坂が続いているのがよくわかります。

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(2021年 JR奈良駅から猿沢池に至る三条通。同じ斜度が続く緩やかな坂道)

ちなみに近鉄奈良駅前の通りは「油坂」といいますが、興福寺の富の源泉の一部となった「油売り」からその名が由来しているとか。

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(2021年 油坂)

一般的にお城は、防御上の観点から台地の先端に建てられることがありますが(江戸城=武蔵野台地、大阪城=上町台地、金沢城=小立野台地など)、街全体を見渡せるという意味合いもあったのではと思います。そのような意味で興福寺も平城京全体を見渡せる位置付けだったのかもしれません。

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(2021年 大阪城)

不比等の屋敷自体は、今の法華寺の場所ですから宮殿東隣ですが、宗教=権威づけの意味合いでも、自分の氏寺をそのような場所に設置したというのは、そんな意味合いがあるのかもしれません。

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(2021年 法華寺)

■なぜ興福寺が奈良盆地を独立支配できたのか?
興福寺は、平城京が都でなくなって以降も皇族と一体化した権力者:藤原一族の氏寺としての位置付けは不変でした。したがって一地方としての位置づけではあっても、宗教的な権威としての位置付けは残存し、そのことで宗教独立国家としての特殊な立場が戦国時代まで続いたということではないかと思います。

(1)政治面
①公家のトップたる藤原一族の氏寺だったから
興福寺は、興福寺塔頭の藤原氏の近衛家系統の一条院門跡寺院、九条家系統の大上院門跡寺院によって運営(奈良県の歴史166頁)。

両院とも明治維新政府の廃仏毀釈によって無くなってしまいましたが、大上院は今の奈良ホテルがある場所。庭園だけ残ってます。一条院は、今の奈良地方裁判所。

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(2021年 奈良ホテル)

②春日大社を活用した政権への脅しが効果的だったから(神木同座)
公家の大半を占める藤原氏にとって「神木同座」は、ローマ教皇による「破門」のような効果があったらしい。興福寺の要求に応えなければ春日大社の神木を京都に向かわせ、京都内に入れば、藤原氏一族郎党みな謹慎しなければいけない。しない場合は「放氏」。つまり氏神たる春日大社から勘当されてしまう。興福寺と春日大社は神仏習合で一体化した存在だから、春日大社の神木を使った宗教的脅しによって時の政権への牽制が可能だったのです。

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(2021年 春日大社)

*ただし室町幕府の足利義満以降はその効果が薄れたらしい。

③源氏に味方したから
平安末期に興福寺(=摂関家=藤原氏一族)の敵対勢力「平氏」が台頭し、平清盛は摂関家の勢力を削ぐ一環として平重衡を奈良に向かわせます。この際、平家の同士討ち回避のための民家への放火が延焼し、興福寺や東大寺の伽藍が、ほぼ全焼。

一方で興福寺は、平氏の対抗勢力たる源氏(源頼朝)に与したため、鎌倉時代以降も藤原一族に加え源氏の庇護もうけ、アンタッチャブルな地域として、奈良盆地支配を続けることが可能に。

④領民への宗教的脅し「籠名(ろうみょう)」によって年貢を徴収できたから
興福寺は、年貢を収めないと領民に対して籠名という処罰を行いました。政権に対しては「神木同座」、領民に対しては「籠名」という脅しを使ったということ。

籠名とは、氏名の書かれた紙が五社・七堂に収められ、呪詛されるというものです(奈良県の歴史第2版204頁)。「籠名」という言葉がGoogleで検索かけてもなかなかヒットしないということは、新しい研究成果なのかもしれませんが、こんな恐ろしいことを興福寺が行っていたとは、なんとも「宗教の本質とは何ぞや」と問いたくなってしまいます。

織田信長が比叡山焼き討ちしたのは極悪非道の行為として歴史ドラマでも登場しますが、実は宗教勢力も巨大な利権組織として、領民から年貢を徴収していたわけです。

そしてその年貢からなんとか逃れようと奈良の領民が活動していたことを思えば、武家政権だろうが宗教団体だろうが関係なく、善政を施せばそれで良いというのが領民の思いだったかもしれません。

(2)軍事面:強力な増兵と大和武士を有していたから
松本清張「奈良の旅」によれば、興福寺は南都北嶺の南都と称された如く、北嶺の比叡山延暦寺と同等の増兵を擁する強力な軍事集団でもありました。強力な軍事的勢力だったからこそ平氏からの侵攻(=伽藍焼失)を受ける一方、あらゆる権力から頼りにされる存在でもありました。

権力の裏付けは軍事力(暴力)であり、独立した政治権力を維持したければ軍事力を持たざるを得ないのは今も昔も同じ厳しいリアル。後に鎌倉時代には大和武士も統率して彼らを直接雇用。

ローマ・カトリック教会の場合は興福寺のような直接雇用ではなく、傭兵を活用して軍事力をキープ。今でもバチカンではスイス傭兵がバチカン全体を警護。

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(2007年;バチカン市国のスイス衛兵)

(3)経済面:同業組合「座」を興福寺が掌握していたから
鎌倉幕府から認められた統治権に基づき、各種業種ごとに商人たちが組織化された「座」という同業組合を統制。

前述の油はじめ、地産の木綿による奈良晒、三輪そうめん、墨、日本酒などの各種組合を統制して、しっかり稼いでいたらしい。このほか、ちゃんと領民からは年貢も徴収していたというから、農工商にわたって、産業育成・発展させるとともに、その成果をしっかり自分の手元におき、軍事力を強化するとともに伽藍を整備しつつ、今の興福寺にある各種国宝含め、各種文化を庇護・育成。

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(2021年 箸墓古墳近隣の三輪山本そうめん)

仏教の振興はもちろん、彫刻・絵画・能楽から茶の道に至るまで、興福寺の庇護による日本オリジナルの芸術は数多あるらしい。

今の奈良市の興福寺近辺の繁華街も、この時の興福寺の隆盛がそのまま街として徳川幕府の庇護に至るまで続いたからこそ、とも言えます。

このように、中世の奈良北部は、松永久秀や地元の豪族・筒井順慶などが勃興するまで、興福寺という宗教団体によって統治された日本史的には珍しい地域でした。

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(2021年 松永久秀の居城だった信貴山城跡)

*写真:2021年 興福寺


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