見出し画像

「三重県の風土」三井財閥を生んだ伊勢商人の特殊性

伊勢商人は、大阪商人・近江商人と並ぶ日本の三大商人で、最も有名なのは三井財閥(旧越後屋)ですが、伊勢(三重県北中部)は、そのまま当地で暮らしていても何不自由ない豊かな土地だったのに、なぜ商業が発達したのでしょう。

朝熊山から伊勢平野を望む(2023年4月撮影。以下同様)

⒈伊勢商人の特殊性

一般に商売が得意なのは、世界を見渡せば土地を持てないユダヤ人や同じ流浪の民の中国の客家(ハッカ)、土地が痩せていて農業できない中国の福建人(=華僑の主な出身地)、土地がほとんどない干潟に住んでいたベネチア人のように当地に居続けてもメシが食っていけないので、外に出て行って商売せざるを得ない人々ですが、伊勢商人の場合は違います。

伊勢という土地柄は、海山に囲まれ、豊かな海産物や農作物はもちろん、紀伊山地では林業も盛んで、非常に豊かな土地。

紀北町「美乃島」にて

今でも産業が盛んで四日市のコンビナートや鈴鹿のホンダ技研や亀山のシャープ工場など、農林漁業に加えて工業も栄えているにもかかわらず、同時にイオングループ(四日市出身)を生み出す等、現代に至っても商業も盛んな土地柄。

四日市ポートビルより

このように昔から現在までずっと豊かな三重県ですが、どうやら伊勢商人が誕生したのには、いくつか理由があって、キーワードは「蒲生氏郷「東西の結節点」「伊勢神宮」「紀州徳川家」ではないかと思われます。

その前に伊勢商人とは一体どんな人々だったのでしょう。

⒉伊勢商人とは

伊勢商人は、江戸時代に江戸大伝馬町(今の日本橋本町)に軒を連ね、木綿・紙などの商売をした他、江戸各地に「伊勢屋」と称して団子などを売って商売していた商人のこと。主に伊勢商人は以下4つの地域に分かれます。

⑴伊勢商人の4つの地域

①射和(松阪市)

櫛田川上流では、当地にある丹生大師が象徴するように室町時代より水銀、つまり化粧品の白粉の産地。白粉で栄えた射和の地で、呉服を扱った豪商「富田家」が1585年に小田原に呉服店を出店してのち、江戸時代には江戸に進出。

富田家から暖簾分けしたのが、東京都中央区日本橋1丁目1番地に本社を構える商社「国分」。私も現役時代にお世話になった日本最大級の食品卸商社さんです。

今もある射和の国分家

②松阪(松阪市)

伊勢商人の中心は松阪(まつさか)※です。三井財閥を輩出した松阪の豪商は、金融(当時は両替)、伊勢木綿、紙などの扱いで財をなしました(詳細は後述)。

※まつさか
松阪を「まつか」と読むのは名古屋発祥の百貨店「松阪屋」ぐらいで、他は全て「まつさか」と呼びます。
 松坂牛も「まつざかぎゅう」ではなく「まつさかうし」。なお大阪同様、江戸時代までは「松坂」、明治22年の町政施行以降は「松阪」という漢字表記です。
 ちなみに「松坂」は戦国大名、蒲生氏郷が開発した城下町ですが、「坂」は、大坂を開発した秀吉に敬意を表して「大坂」から一字をもらって「坂」としました(「松」は松坂移転前の居城「松ヶ島」から)。

   鯛屋旅館にて松阪牛サーロインのすき焼き

③津・久居(津市)

「東の魯山人、西の半泥子」と呼ばれた川喜田半泥子も、津の豪商「川喜田家」の当主。川喜田家は三重県の地方銀行、百五銀行の創業者一族でもありますが、もとは木綿問屋で伊勢平野で栽培された綿花を木綿にし、主に江戸で販売するなど、江戸の木綿問屋のリーダー的存在。

津市千歳山、川喜田家の邸宅跡地に立つ、半泥子の作品を扱う石水博物館

④白子(鈴鹿市)

港を持つ白子では、伊勢産の物産を積み出す菱垣廻船の基地として繁栄。白子港では最盛期には廻船が50隻あり、伊勢木綿・伊勢茶・菜種油などを出荷し、肥料(干鰯ーイワシを干したもの)・昆布・大豆などを入荷していたそう。

いたってふつうの漁港だった今の白子港

菱垣廻船は大阪の豪商鴻池家、泉佐野の飯野家、山形県酒田の本間家(今は本間ゴルフの一族)、伊勢は白子の豪商(伊達忠兵衛家)が担っていたのかもしれません。

今に残る白子の豪商「伊達家油屋忠兵衛旧宅」

このような江戸時代に繁栄した豪商を産んだのは、江戸時代に開発された海路(東回り・西回り)とその海路を安全に使える狼煙などの情報含めた制度全体であり、この制度を開発したのが三重県南伊勢出身の河村瑞賢でもあるのです。

⑵伊勢商人の強み

伊勢商人が江戸においてこれだけ繁盛したのはなぜでしょう。その強みは以下の4つのように思われます。

①人事を掌握した当主が地元出身者だけで統治

経営で一番大事なのはやはり今も昔も「人」。そして人にまつわる信用。組織内のガバナンスはいかに人間関係が信用できるかによって左右されてしまうのは今も江戸時代も同じ。

旧長谷川家

伊勢商人の当主は、伊勢に住み続けながら(三井家は途中から京都)、江戸(主に大伝馬町)に出店し、店は信用ある従業員に任せて、規律を作り守らせ、定期的に報告させる、という仕組み。

例えば長谷川家では、江戸の5店舗、名古屋に1店舗、木綿仕入れ店を経営し、店は従業員に任せて当主は家族と共に松坂に滞在。

同上

従業員は全て松坂で雇い、各地に送り込み、経営方針を手紙で各地に伝え、稼いだ金は松坂に送らせました。「本状」という営業報告を毎月3回飛脚便で提出させ、これに対して当主から帰り便で指示がその都度出されていました。

従業員は、伊勢の農家の次男三男を雇い、12 〜13歳で江戸に送り込み、実力主義で出世させて都度都度使えない従業員はリストラしつつ(7〜8年ターム)、30年間働き続けられた優秀な従業員には手厚い退職金で隠居(または暖簾分け)させたといいます。その退職金は今の価値で4,000万〜5,000万円と相当の高額だったようです。

②商材の優位性

伊勢商人の主要な商材だった伊勢木綿は、日本各地の木綿と比較しても一等級の価値を認められ、最も高い値段でやり取りされたと言います(三河産の30%増しなど)。

松阪市立歴史民俗資料館

これも伊勢ならではの天候良く適度に雨も降る生産性の高い土地だからこそで、質の高い綿花が育つ土壌であったわけです。

江戸時代中期には伊勢平野の春は菜の花(油の原料)の黄色で染まり、秋は綿の花で白く染まったと言います。

更に伊勢型紙の産地(白子)ということもあり、デザイン性に優れ、伊勢銘柄は「粋」と江戸では評判に。品質良くセンス良いということで、商材としては最高の条件を揃えていたのです。

同上

③複式簿記の導入

伊勢商人は、2月末、8月末(今も主な流通業の決算期と同じなのは興味深い)に棚卸し=決算を実施。

江戸中期には貸借対照表(算用帳)、損益計算書(勘定仕訳目録)などを活用。現在の財務諸表と比較すると、減価償却費の概念以外はほぼこの当時で揃っていたらしい。

旧小津家

その報告は番頭が松坂に帰還して、当主の前で定期的に報告。

始末」が伊勢商人の真骨頂ということだから、とにかく節約してコストを最大限に省き、利益を溜め込んでいくという商売。

当主たちは地元の松坂で、茶などの文化に勤しむなどのことはしていたそうですが、芸者をあげてどんちゃん騒ぎのような派手な遊びはしなかったらしい。

なお、明治維新時に貸し倒れとなって江戸豪商たちの没落の要因となった「大名貸し」も厳禁とされたなど、堅実経営が伊勢商人の心得だったため、今に至るまで企業の形で残っている豪商も多い(三井グループと三越、小津紙業、百五銀行、東洋紡、国分、にんべんなど)。

旧三井家跡地にある三越伊勢丹から寄贈されたライオン像

④伊勢商人間の競争

伊勢商人はこぞって江戸に進出し、似たような商材で商売していたので、競争も激しかったらしい。

特に仕入れ独占権を持っていた江戸進出先発組の大伝馬町松坂組に対し、後発の津・白子組が価格競争を仕掛けて独占権の排除を江戸町奉行に訴えたと言います(結果、双方とも商売可能に)。

ただし、江戸末期には大坂や尾張などの新興勢力の台頭によってシェアは低下していく。

(「伊勢商人について(国立情報学研究所:平尾光司)」参照)

⒊ルーツは戦国大名「蒲生氏郷」の街づくり

まずは伊勢商人のルーツ。これは松坂グループのみですが、近江日野出身の戦国大名、「松坂」の名付け親でもある蒲生氏郷が伊勢に移封されたことが事の始まりではないかと思います。

もともとは松坂の海側にある松ヶ島を拠点とした氏郷は、近隣の小高い丘、四五百森(よいほのもり)に城を移し、ここで一から街づくりを始めました。

松坂城跡で咲き誇る藤の花

出身地の近江日野から近江商人中心に、近隣から商人を強制的に移住させ、武家を中心に町割りし、外延には神社仏閣を置いて防御。

育ての親とも言える信長を見習って楽市楽座を導入し、街を栄えさせました(その後たった2年で会津に移封→会津若松を開発⇔会津若松の名付け親にもなる)。

今もその子孫が住んでいるという「御城番屋敷」

これにより、移住してきた近江商人が商売のノウハウを提供し、楽市楽座の自由経済でその商売を発展させ、商人街としての立ち位置を確立。

⒋東西の結節点「伊勢」

伊勢地方は、秀吉の命によって静岡から関東に強制的に移封された家康が江戸という街を創造して江戸が政治の中心になって以降、東と西を結ぶ結節点として交通の要衝に。

東海道と伊勢街道を分つ「日永追分」

伊勢を起点に東西からさまざまな物資が流れ込み、そのことによって必然的に氏郷によって育てられた商売のノウハウは、伊勢型紙の行商人や伊勢恩師の形で全国展開。

三重の人に言わせれば、三重は関東でも関西でもないと言います。そして当然名古屋とも違う。三重は三重で独自の地域として東西の橋渡し役に。

東海道53次の47番目の宿場町「関宿」

ちなみに三重弁は北の桑名から南の熊野までさまざまあるものの、私のような関東人が聞くと、名古屋弁と関西弁が混じったような方言ですが、彼ら彼女らに言わせれば、関東とも関西とも、ましてや名古屋とも違う、独自の言語だということらしい。

長島町「輪中の里」の展示

⒌伊勢神宮のおかげで日本中の最新の情報が我が物に

松坂の豪商のうち、松阪市内には「小津家」「長谷川家」の邸宅が残っていて見学できるようになっています。

中でも「小津家」には巨大な飯炊の釜があります。これは伊勢参りにやってきた全国の参拝客にご飯を提供するためのもので、松坂市内を伊勢街道を通じて通過する参拝客は、ここで飯を提供してもらったと言います。

小津家の飯だき釜

もちろん、これは伊勢参りのしきたりで、道中の参拝客にはお布施の一環として無償で提供するわけですが、それだけが理由ではありません。

伊勢お祓い町

飯を食わせつつ、最新の日本全国各地の情報を収集していたのです。

特に江戸時代以降に盛んになった伊勢参りは、伊勢に日本中の最新の生の情報を手間暇かけずに収集できるという強みが、伊勢商人を強大にしたとも言えるのです。

皇大神宮(内宮)

⒍徳川御三家の領地という特権

鷹狩りが趣味の紀州初代藩主徳川頼宣は、紀州には鷹狩りに最も重要な獲物である鶴が少なく、鶴の多い一部大阪の加増を要望したと言いますが、津藩を預かる藤堂高虎は「鶴なら伊勢にもいますよ」ということで、伊勢の一部を与えるよう幕府に進言。

結果伊勢の一部(17万6千石=松坂・白子・田丸)が紀州の領地になったと言います。

松阪市で巣作りをする?「アオサギ」

この結果、松坂や白子の伊勢商人は徳川御三家、紀州徳川家の認定を受けることで、江戸での商売が非常にやりやすかったらしい。

紀州藩より「紀州様御用」といった文字を記した札のようなものを提供してもらい、幕府で公定した安価な費用で人足や馬を利用できたと言います。

その代わり彼らに銀札の発行や松坂城下の大年寄り(町役人の筆頭)を担わせるなど持ちつ持たれつの関係。

横山展望台から望む「英虞湾」

このように伊勢は豊かな土地にあって、商業も発展させたという特殊な土地柄で、世界でも稀有な存在かもしれません。

日本一の山林王といわれた桑名諸戸家の「六華苑」

*写真:紀北町「美乃島」の伊勢エビ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?