見出し画像

「アリストテレス」ゆかりの地を巡る

アリストテレスは現ギリシア領スタゲイア出身の人ですが、アテネのアカデメイアを出て以降、彼がアレクサンダー大王の家庭教師になるまで(BC347年−343年)、エーゲ海沿岸の古代都市アッソス→レスボス島ミュティリネに滞在していました。


アッソスで彼は『政治学』『ニコマコス倫理学』を構想し、ミュティリネで『自然学』を著したと言われています。

▪️聖地「アッソス」

聖地「アッソス」は、レンタカーでないといけない場所にありますが、別途紹介した哲学発祥の地「ミレトス」とは違って、地元向けにしっかり観光地化されています。

アッソス近くの道路に路上駐車

アリストテレスは、20年間プラトン主催のアテネの学校アカデメイアで学んでいましたが、プラトンの死の直前、反マケドニア一派が権力を握ったアテネにおいて身の危険を感じます(彼自身はマケドニア人ではないが、マケドニア一派と思われていた)。

そこでアテネを出奔してアカデメイア時代の学友ヘルミアスの支配するアッソス(アタルネウス経由)にやってきたのです。

入場門前までは、多数のお土産屋さんが軒を連ねていて、地元客向けの一大観光地になっています

一説では、アリストテレスが彼の義兄であり後見人であったアタルネウス出身のプロクセネスの縁故によるという説もあります(京都大学学術出版会『政治学』解説より)

またアッソス現地看板での解説では、

Aristotle resigned from the academy because of his resentment of Plato's choice of Xenocrates as his successor. In 347 B.C., Aristotle came to Assos upon the invitation of his friend Tyrians Hermias, from the academy that ruled the region between Assos and Aterneus,
アリストテレスは、プラトンがクセノクラテスを後継者に選んだことに憤慨し、アカデミーを辞した。紀元前347年、アリストテレスは、アソスとアタルネウスに挟まれた地域を支配していたアカデミーの友人、ティリア人ヘルミアスの招きでアソスに渡り、

DeepL翻訳一部修正

と書かれてありました。

ここアッソスでは、ヘルミアスがペルシャに捕まり、アリストテレスがレスボス島のミュティリネに逃れるまで2年間滞在。

ヘルミアスの姪とも結婚し、現地看板では

Aristotle prepared the first sketches of his Ethics and Politics in Assos.
アリストテレスは『倫理学』『政治学』の最初のスケッチをアソスで作成した

と書かれてあり、多分アッソスでは、アリストテレスは妻にも恵まれ、心の平安を感じながら、じっくりと自分の哲学の構想を練っていたのでしょう。

実際行ってみると、見事な景色です。レスボス島を奥にのぞみ、真っ青なエーゲ海の青と空。

アッソスの丘の頂上には、古代ギリシャ都市の例に漏れず、神殿があり、その下に海岸に向かって街が形成されていたようです。

こんな美しい景色を毎日見ていたら「哲学なんて考えないだろう」と思うのですが、アリストテレスは考えたんでしょうね。

アッソスにあったアリストテレスの像

▪️レスボス島ミュティリニにも行ってきました

アリストテレスがアッソスから移った地、ギリシア領レスボス島のミュティリニにも行ってきました。アイワルクという街からフェリーが出港しているので、事前に予約して乗船。ロードス島同様、パスポートだけで簡単にギリシア領(レスボス島)に入ることができます。

おおよそ1時間〜1時間半かかり、船の種類によってその時間が変わります。

ちなみにレスボス島は女性同性愛者レズビアンの語源ともなった島。

レズビアンという名称が、BC6世紀の詩人サッフォーの故郷であるレスボス島に由来するとされるからだそう。

ただ実際には、同性愛者の天国のような感じではまったくなく、エーゲ海ならどこにでもあるバカンス向けのリゾート地という感じでした。

そしてミュティリニには、アリストテレスの痕跡は残念ながらまったくないのですが、この地のラグーンでひたすら、あらゆる生物を観察し、ときには解剖して生物とは何か?探求していたらしい。

「これ以上の青はあるだろうか」というぐらい、真っ青な青の海がエーゲ海ですが、地中海性気候の夏らしい乾燥した空気と照りつける強烈な太陽光のコントラストが、まさにエーゲ海の夏。

日本の湿気の強いモンスーン気候とは対局にあるこの空気感を味わえたのは本当に良かった。

ちょっとだけ古代ギリシアの劇場跡地があるのですが、常時閉門していて入れない状態のよう。

それでも金網越しから撮影してみました。

▪️ウィキペディアにおける立花隆の引用の誤り

ちなみにウィキペディアのアリストテレスの紹介における立花隆の引用があります。

アリストテレスの誤りの原因は、もっぱら思弁に基づき頭で作り上げた理論の部分で、事実に立脚しておらずそれが原因で近代科学によって崩れたが、その後「事実を見出してゆくこと(Fact finding)」が原理となったとする立花隆の見解がある[3]

この引用は『脳を究める』という立花隆の著作からの引用で、私も本書が発売された1996年に読んでいますし、実際この引用はハードカバー版の12頁に記されています。

私の本棚に残っていたハードカバー版

「知の巨人」に対して異論をいうのはおこがましいのですが、学問の世界は「開かれたテーブル」なので、あえて異論を言わせていただくと、私がアリストテレスの著作を日本語訳で読んだ限り、彼の学問は「もっぱら思弁に基づき」とは真逆の方法を採用しています。

『脳を究める:脳研究に期待する』では「アリストテレスが西洋中世において、あまりにも権威化されてしまったが故に近代科学の発展が阻害された」というような主旨が書かれているんですが、アリストテレスの導き出した結論ではなく、アリストテレスのその思考方法・プロセスにもっと注目していれば、立花隆のいうようなことにはならなかったでしょう。

過去の私も同じですが「世界説明は全て科学で可能だ」と考えていた立花隆の限界は、こんなあたりにも見え隠れしています。

アリストテレスは「もっぱら思弁」ではなく、さまざまな知識や事実をちゃんと調べて、自分の考えを主張しているのです。近代科学的な手法は彼がすでに『政治学』で採用している手法です。

特に自然科学分野の功績に対して「観察の人」(出口治明)と言われたぐらいに事実を重視したアリストテレスに対して「思弁だけ」というのはいかがなものかと思ってしまったのです。

彼は、根っからの科学者で事実を調査して→分析して→カテゴライズし、物事を把握しようとする姿勢が、あらゆる領域において徹底しています。

むしろこのような科学的手法は、アリストテレス含む古代ギリシアに生きる賢人たちが発見した手法であり、それを近代西洋が受容して発展させたと言っても過言ではありません。

現代の学のルーツは、古代ギリシアにあるのであり、近代西洋にないのは明らかです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?