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ネオサピエンス 回避型人類の登場 岡田尊司著 書評

他者との情緒的な関わりに喜びも感心も持たない人類のことをネオサピエンス=回避型人類と呼び、回避型が2000年代以降急増して近未来には共感型人類(相手との関係性を重視する人類)がマイナーとなって回避型がメジャーになる社会が訪れるとの仮説を唱えた著作。

以下概要。
(1)これまでの経済単位と地縁血縁単位が一体化した社会構成から、産業革命によって経済単位と地縁血縁単位が分離し、特に血縁単位が子育てと心の安らぎに特化した工業商業中心社会を形成。

(2)権利革命(スティーブン・ピンカー「暴力の人類史」)によって、女性の社会進出が加速し共働き社会が標準となってこれまでの子育てと安らぎの血縁単位が崩壊し、愛着を軸にした人間関係が崩壊して少数派だった回避型人類が増大。

(3)2000年代以降の情報革命によるスマホ依存やゲームに加え、一人遊び・一人飯・一人旅などが当たり前になり、回避型人類の増加が加速。

(4)回避型人類は、遺伝的にも従来の共感型と異なった遺伝型。愛着感情を生み出すホルモン「オキシトシン」の分泌を促進するオキシトシン受容体遺伝子がメチル化(遺伝子はあっても身体に発現しない)するのではと想定(これはエビデンス不在の筆者の仮説)。

*遺伝子は狩猟採集社会から変わっていない説もあるが著者は否定的。程度の問題ではあるがアシュケナージ型ユダヤ人は600−800年前に起源を持つが、平均的人類よりもIQは12−15ポイント高い事例など「1万年の進化爆発(グレゴリー・コクラン&ヘンリー・ハーペンディング著)」などを参照しつつ、いくつかの事例をあげて人種の違いやラクトースの受容、アルコール不可の人の存在など、1万年の間の遺伝的変化は、これまでの100倍のスピードで、更に今後100年タームで加速していくのではと予想。


そして、ハラリの「ホモ・デウス」に対抗するかの如く、近未来社会を最終章で展開していますが、この辺りは(回避型が好む)エビデンスに基づくものではないし、仮説を導くためのロジックもまだまだ弱いので、著者のイメージといったところでしょう。

スウェーデンに関する考察に関しては、個人の権利が行き過ぎると人間関係の薄い冷たい国家になるのではと、これは別の意味での「啓蒙主義の危機」かと思いましたが、引用している著作が古すぎてあまり参考にならないかもしれません。

個人的に回避型で面白かったのは、彼らが「虚構不要の人類」だということです。「生きる意味を必要としていない人類」と言った方がいいのでしょうか?まるでアマゾンの狩猟採集民ピダハンのよう。

信念を不要としててプラグマティックな欲望のみを追求するイメージ。

もしこんな人類が大半になるのであれば、もう宗教や思想は不要ですね。ひたすら自分の欲望とエビデンスに基づく仮説に基づいて行動する人類がいるのみ。これはこれで不気味な社会ですが、あまり現実味がない。

自分の意志をひたすら追求できる社会で他人の干渉を忌避するわけだから、究極のリバタリアンということかもしれません。

ちょっとどうかなと思う近未来社会は、個人の意志の究極の相互承認を認める社会として、個人の意志が衝突した時はどうするのかと言ったらAI裁判で公平性を担保。

AI自身は判断の基準となる価値観は持っていないので、憲法はじめ法律や過去の判例をセットするのは当然ですが、最終的にこれらでは機械的に判断しきれない定性的なその時点の価値観の反映できない。AI裁判は、判断の材料としてのAI活用は非常に有効ですが、最終的判断は人間にしかできない。したがってこれも非現実的。

まさに弱肉強食の究極の格差社会となりますがその辺りの著者の言及はありません。政府の役割の一つは富の再分配ですが、これは個人に政府が干渉しないとできません。当然回避型は拒否するでしょう。他人の不幸にも無関心ですから。

現実的には、身の回りの回避型タイプの出現を踏まえた社会や人間関係を今後意識する必要があるのかなと想定しておけば良い。

とはいえ、あまり私の周りにはこのような人物がいないのでちょっとイメージしにくいです。

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