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大阪府の風土:環境編

■大阪の気候

(気象庁のデータより)

大阪市は、全国平均と比較すると真夏は酷暑になるものの、冬は温暖で1年中雨が少なく日照時間が長い暮らしやすい土地。

大阪市の夏は平均気温29℃(2020年、以下同様)と、福岡市(28.1℃)などと比べても暑さが厳しい一方、冬は最低平均6.1℃(1月)と高め。平均気温も日本平均の16.5℃に対し、17.1℃と全般的に気温は高い。ちなみに隣の奈良市と比較すると、奈良市は盆地のせいで最低気温が1月0.1℃と大阪市と6℃も気温差があり「生駒山地を挟んだだけでこんなにも違うのか」という印象(奈良市の標高は100m前後とほとんど影響なし)。

降水量は、全国平均年間1,500-1,800mmに対し、1,338mmと少なく、このためか年間日照時間は全国平均1,889時間に対し、なんと2,049時間と150時間も長い。

ちなみに地球温暖化とヒートアイランドアイランド現象の結果、この100年で大阪の平均気温は14~15℃→17℃と、2~3℃上昇しているという驚くべき温暖化が進んでいますが、日本平均では1.26℃上昇しているので、大阪市の場合はヒートアイランド現象の影響も大きいといえます。

■大阪の地形(自然要因)

地形的には、大阪府は三日月のような形をしており、かつては摂津・河内・和泉の3地域。

以下、簡単に大阪府の模式図を作成。大阪は大阪湾を背景に山に囲まれた地域ではあるものの、兵庫県との県境は連続していて旧摂津の国として連続性があるほかは、地形的にも、ある程度独立した一地域。

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大阪はかつて、大阪湾と河内湾に囲まれた砂嘴(今の上町台地)に淀川・大和川水系から流された土砂が上町台地周辺に堆積した地域。したがって大阪の地形上のキモは上町台地であり、歴史・文化的にもこの地形的特徴が大阪を特徴づけてきました。

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(縄文時代前期の大阪:大阪府HP より)

上町台地が突き出したことで、大和川や淀川等から流れ込んだ土砂が河内湖を埋め、干潟となって、さらに陸地化。なので縄文・弥生時代の遺跡は、北摂山地南麓の千里丘陵(高槻市の安満遺跡、上町台地の森之宮遺跡、生駒山地山麓に多くみつかっていますがかつて湖だった河内には存在しません。

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(2021年撮影:以下同様)

難波や大阪という地名も、諸説あるものの、上町台地の存在、がその名のいわれの要因となっています(「大阪府の歴史」2-4頁あたり)。

*ナニワ

大阪湾から河内湖に流れ込む海流が速いことによって「なみはや」と呼ばれ、これが浪速=ナニワの語源となった。

*オオサカ

上町台地から大阪湾にかけての崖を「小さな坂」つまり「おさか」と称して、これが「オオサカ」の語源となった。江戸時代以前はオオサカは「大坂」とするのが一般的ですが、実は「坂」よりも「阪」の方が縁起がいいということで、江戸時代以前も「阪」を使う場合も多かったらしい。明治以降は「阪」に統一されていますが、大漢和辞典によれば「坂」も「阪」も本来同じ意味だそうです。

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大阪市の市歌にもなっている高津宮=上町台地への坂)

■大阪の地形(人工要因)

現代人は忘れがちですが、災害対策・治水対策を目的とする大土木工事によって、地形は人工的に大きく改変されています。大阪も同様で、その一番大きな土木工事は、新大和川の付け替え(1704年)と新淀川の掘削(1909年)です。この結果、大坂一帯を不定期に襲った水害は大半は解消し、多くの人々の命と生活を守ったのです(このあと室戸台風などもあって完全ではない)。

〇大和川の付け替え

上の縄文時代の地図をみてもわかる通り、大和川は、石川と合流してからいくつかの川に枝分かれしつつ、最終的には淀川に合流していました。しかし川が集中することによって大阪市街含む摂津はもちろん河内でも、たびたび大雨による水害に悩まされ、河村瑞賢が淀川の拡幅工事を担うも、抜本的な解決には至らず、とうとう大和川を付け替えして直接大阪湾に流すという大工事が行われました。

そして大阪府を流れるほとんど、つまり柏原市以降の大和川は人間の手によって掘削された人工の川=放水路なのです。今年5月に遣唐使の気分を味わおうと思って住吉区付近から奈良までの大和川サイクリングロードを走ったのですが、この自転車道は江戸時代に掘削された放水路沿いで奈良時代にはなかったのです(がっかり)。

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(放水路としての大和川と二上山)

ただ、大和川が堺市北方に河口が出来た結果、堺港は大和川がもたらす土砂によって水深が浅くなってしまい、港としての機能が失われ、ますます堺は衰退してしまったのです。

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(現在の堺港)

〇新淀川の掘削

より詳しく知りたかったので、枚方市にある淀川資料館(国土交通省)に行ってきました。入場者は私だけだったので、ゆっくりじっくり拝観させていただきましたが、明治日本人の治水にかける心意気に感動せざるを得ません。是非とも地元の方にももっと訪れてほしいなと思います。

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(淀川堤防脇にある淀川資料館)

江戸時代の大和川の付け替えや川村瑞賢による拡幅によって大きく改善したとはいえ、まだまだ水害は収まらず、明治時代に西洋の技術(堤防づくりで有名なオランダよりヨハネス・デ・レイケ技師を招聘)を取り入れて、計画をしたのは豊岡出身の「沖野忠雄」でした。内務省の技師として淀川はもちろん日本全国の治水に貢献した立派な方ですが、地位や名誉にも無頓着な一方、部下思いの方だったらしい。

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(毛馬閘門にあった沖野忠雄の銅像:その部下達が建てたそうです)

そして何よりも新淀川掘削計画を国会で可決させたのは地元出身の大阪府議会議員「大橋房太郎」。可決を取り付けた後は、改良工事によって土地を手放さざるを得なかった3,000人もの人たち一人一人を説得して工事を実現したといいます。

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この結果、もともと淀川は、今の大川がその河口域だったのですが、毛馬あたりから大阪湾までを放水路として掘削し、

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(淀川放水路の部分:人力で掘ったとは思えないほどの広さです!!)

毛馬には閘門(こうもん)が設けられて、

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市内に流入する大川(旧淀川)の水量を調節可能にしたといいます(大阪府の歴史270頁)。

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(土佐堀川の八軒屋:京都→淀川→大阪の船着場)

最後に大阪と東京との比較で、勤務時代の上司だった大阪人に

「東京では、電波をいきわたらせるために東京タワーを、そしてスカイツリーを建設しましたが、なぜ大阪は通天閣のような低いタワーしかないのですか?」

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と尋ねたところ、

「何を言ってんだ。大阪にはスカイツリーのような高い塔は不要。なんといっても生駒山があるからね」

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(奈良側から撮影した生駒山)

そうですね。大阪には生駒山があって高いタワーは不要。確かに生駒山の山頂にはテレビ塔がたくさん建っていました。

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*タイトル写真:淀川&大川の毛馬閘門から北摂山地を遠方に望む(2021年10月)

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