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近世ヨーロッパとユダヤ人

『物語ユダヤ人の歴史』より、今回は15世紀から18世紀までの「近世」のヨーロッパにおけるユダヤ人(とその社会)について。

カトリックが支配した中世のヨーロッパ社会は、十字軍を契機にしたイスラーム世界との出会い、黒死病流行による人口激減などを経て農民の力も増幅し、さらに大航海時代と宗教改革によって崩壊(一方で東欧の一部ははイスラームの強大な軍事国家オスマン帝国が支配)。

そしてヨーロッパは近代に向けた新しい時代「近世」を迎えます。近世は商業主義と資本主義が拡大すると同時に啓蒙主義が芽生え、近代の「=キリスト教」よりも「=経済・民族・個人」が優先される時代へと変わりつつある時代。

ラウターブルンネン(スイス:2014年撮影。以下同様)

15世紀以降、カトリック一強から宗教改革や軍事国家オスマン帝国の強大化によって宗教の権威が混沌とし始めます。

中世のユダヤ人たちは、度重なる迫害と追放によってオスマン帝国内やヨーロッパ中に拡散し「金貸し業」「小規模な質屋」「古物の売買」などを生業にして生き延びてきました。

が、近世になって市民社会の萌芽が芽生えて以降、西欧ではユダヤ人をユダヤ社会と地域的な閉鎖社会の住民としてではなく、国家を形成する一市民として考える見方が出てきます。

グリンデルバルト

⒈ユダヤ(アシュケナジム)を招聘したポーランド

今と違ってヨーロッパの大国の一つだったポーランド(+リトアニア)では、特に広大な領地を経営する専門家や遠距離貿易のできる商人が不足していたことからユダヤ人の移住を促進。

特に十字軍以降、ドイツから東欧の各地に分散していたアシュケナジムは、こぞってポーランドに移住し、安住の地を得ます。地方の領地で暮らすことを嫌ったポーランドの貴族たちに代わってユダヤ人たちが彼らの代わりに地方の領地に住み、その経営にあたりました。

17世紀はじめにはポーランド全土にわたって居住するようになり、職人、農民、商人、税の取り立て人、関税の徴収者として生業をたてました。

彼らアシュケナジムは、その土地の言葉であるドイツ語を話していたものの、東欧のスラブ語や彼ら自身の書き言葉であるヘブライ語も混ざって、イディシュという独自の話し言葉を生みます。

しかし1648年にウクライナのコサックがポーランドに反旗を翻してポーランドに侵攻を始めると、またもやユダヤ人たちは、ギリシア正教への改宗を求められ、十字軍の時と同様、改宗を拒んで集団自殺の道を選択するか、大量虐殺(ポグロムという)の憂き目に遭い、人口が激減。

さらに1770年にポーランドがプロシアとオーストリアとロシアの間で分割されると、ユダヤ人が住む地域はロシア領に編入。ロシアはユダヤ人の住む土地を制限するとともにユダヤ法を制定。土地を借りることやアルコール飲料を農民に販売することを禁じるなどの制限を設けます。

ジュネーヴ

⒉ユダヤ人を排斥した宗教改革

1517年にマルティン・ルターによって始められた宗教改革は、キリスト教聖職者の反ユダヤ教的な態度を強化する方向に向かいます。

ルターは「聖書以外の権威を認めない」という立場からユダヤ人をキリスト教に改宗させるべく動いたものの失敗に終わった結果、ユダヤ人を「不愉快な害虫」と呼んで、逆に反ユダヤ的態度を明確にします。

同時にローマ教皇庁の方も、中世には生命と財産権の保持をユダヤ人に認めていたものの、プロテスタントに対抗して、より原理主義化したためにユダヤ人もその犠牲となってしまう。

そして西欧では「近世版アパルトヘイト」ともいうべきゲットー(壁に囲まれたユダヤ人だけの居住区)を新設し、ユダヤ人の隔離政策を推し進めます。

ベルン

⒊近代市民社会の一員としてのユダヤ人

16世紀後半になると宗教改革の進行によってオランダ・ベルギーなどはカトリック・スペインから独立。その間ポルトガルがスペインに併合されたため、ポルトガル在住のセファルディム(新キリスト教徒&マラノも含む)の多くがアムステルダムに移住。17世紀半ばにはドイツからのアシュケナジムも加わるもののセファルディム中心の社会を形成。

彼らの中にはベネディクト・スピノザなどの哲学者も輩出(スピノザ自身はユダヤ教から破門される)する一方、30年戦争(1618−1648)での財政資金供給先としても活躍するなど、ユダヤ人たちの西欧における地位は確固たるものになっていきます。

ゴルナーグラート鉄道

ヨーロッパ近世は、啓蒙主義の進展の結果、国家と市民についての新しい概念、すなわち、国家は単一の方の元に支配される個々の市民によって構成されるとの近代市民社会の考え方が、自治あるいは反自治の集団(当然ユダヤ人社会も含まれる)の連合体とする考え方よりも次第に優位になってきた時代。

この結果ユダヤ人を個々の市民として見る好意的な見方も現れ、彼らの経済的、社会的、政治的状態の改善に寄与。

ユングフラウ鉄道

フランス革命(1789)においても、ユダヤ人に対しては、フランス人として文化的に同化するならばフランス市民としての完全な権利を認める、という態度。

オーストリアの皇帝ヨゼフ二世(1741−1790)も、彼らに相応しい教育を受けさせることができれば、ユダヤ人を国家の一員として完全な市民権を与えるとの考え方を示します。

マッターホルン

以上、啓蒙主義が生まれつつある中で近世のヨーロッパは、キリスト教の呪縛から脱却し、ユダヤ人を異質の人間(=ソト)と見るのではなく、同じ領域に住む仲間(=ウチ)としてみる社会に変わってきたのです。


*写真:1536年にカルヴァンが宗教改革を行ったスイス、ジュネーヴ(2014年撮影)


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