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「三重県の風土」庶民にとっての伊勢神宮

伊勢参宮に関して、そもそも伊勢神宮は天皇家の祖先神「天照大神」でありながら、天皇家が当地で直接参詣したのは明治天皇がはじめて。

明治時代に神道が国教化して以降、今に至るまで、皇族や総理大臣などの国のトップたちが、あたかも国家の守護神であるかのようにたびたび伊勢神宮を参拝していますが、五世紀に鎮座して以降、江戸時代までの伊勢神宮は、そのような性格の存在ではありませんでした。

むしろ天皇家や公家・武家などの支配階級よりも、被支配階級としての庶民・農民達の信仰を裏付けにした参拝者が特に江戸時代に隆盛を極めた、というのがお伊勢参りの真相。

伊勢神宮は政治権力者にとっての伊勢神宮ではなく、庶民にとっての伊勢神宮だったのです。

おはらい町(2023年4月撮影。以下同様)

だからこそ庶民の視点を重要視していた民俗学者、宮本常一が『伊勢参宮』を編著したのではないかと思われます。支配階級だけの神宮であるならば、彼が本書を編著する事はなかったでしょう。

それぐらい庶民に愛された伊勢神宮ですが、一体どんな歴史を持って、なぜ庶民がこれだけ参拝したのでしょうか?まずはその誕生から。

⒈伊勢神宮の誕生

伊勢というところは、海の民であった渡会氏の祖先の磯部氏がもともと支配していた地。磯部氏の 「イソ」が「イセ」の語源ではないかと言われています。

天皇家=ヤマト政権が伊勢にやってくるのは、神武天皇の東征の一環として。

出雲や熊襲などと同様、伊勢もヤマト政権が侵略によって先住支配者から権力を奪い取った地。これらの地はヤマト政権を正当化するための歴史書「記紀神話」では国譲り神話となって、記紀神話に残存。

伊勢も例外ではありませんでした。

内宮では、五十鈴川でお清めをします

宮本常一によれば、なぜ侵略の地に祖先神たる天照大神が祀られたかといえば(現代の伊勢神宮自身の説も含め諸説あるものの)、理由は2つと想定。

①天皇の支配下に入っていなかった荒ぶる土地を鎮めるため
②伊勢がヤマト(奈良盆地)からみて東方の地、つまり日出ずる地だったから

東へのさらなる征服の拠点としての日出る地たる伊勢に太陽神たる天照大神を据えることで、ヤマト政権の東の地の拠点としたのでは、といいます(ちなみに西の拠点は住吉大社)。

このような経過からみて伊勢神宮は、5世紀から6世紀にかけての時期に鎮座があったのでは、と推測。特に内宮は5世紀末には鎮座しており、ヤマト政権との戦いに敗れた当地の磯部氏がその管理を任せられ、711年に「度会」の姓を賜ったといいます(姓名の「姓」とは、元来天皇家が部下に賜る官位のこと)。

外宮(豊受大神)については、外宮は高倉山の麓にあるので、高倉山古墳の主人の海の民、磯部氏の神様もベースに、この地を新たに侵略したヤマト政権が、丹波国の「止由気(とゆけ)大神」をこの場に遷したのではないか、と言われています。

外宮

⒉なぜ天皇は参拝しなかったのか?

伊勢神宮は私弊禁止ということで、これは『延喜式』という平安時代の規則にも明確に規定されています。私幣とは皇族以外の人びとがお供えすること。

お供え物を供えて祈ることが神を祀るということなのに、天皇以外には禁止。ではなぜ天皇は、伊勢神宮に参詣しなかったかというと、宮本常一によれば、以下3つの理由が考えられるといいます。

①初期の段階では皇祖神として認められていなかった

②天照大神は分神であり、より大切な神産巣日神(カミムスヒ)、高御産巣日神(タカミムスヒ)は皇居内に祀られているからそれで十分

③皇居内に伊勢神宮と同体とされた内侍所があったから

つまり、天照大神のさらに上位の神々の方がもっと重要で、さらに三種の神器の一つ「神鏡」のあった内侍所が代替機能を果たしていたからということ。

あとは神宮の近隣に斎宮をおいて未婚の女性皇族を派遣・常駐させ、伊勢神宮への直接参詣は年3回の斎宮の参詣でよしとしたのかもしれません。

斎宮跡にある斎宮のミニチュア復元

⒊二十年周期の遷宮の意味とは

伊勢神宮の社殿は20年ごとに造りかえられます(次回は2033年)。これを式年遷宮といいます。式年遷宮については「外宮」の敷地内にある「せんぐう館」でその詳細を知ることができます(外宮にお参りしたなら、ここは拝観必須)。

伊勢神宮のほか、主なところでは住吉大社、香取神宮、鹿島神宮も20年ごとに式年改築しています。

古代の「都」も「歴代遷宮」といって7世紀までは天皇が変わるごとに都を別の場所に遷宮しており、その理由としては

①父子別居制
→男子は女性の元に通い、その子供は母の家にて育てられるという慣習から、母方の住まいの場所に遷宮していくという仕組み
②穢れ忌避
③建物の耐用年限
④即位の卜定(占い)
⑤王臣関係の再編成

の五つの説があります。

式年遷宮の場合、宮本は歴代遷宮の理由のうち、②の穢れ忌避、③建物の耐用期限、が大きいのではとし、20年ごとに遷宮することで溜まった穢れを清め、古くなった御心柱を取り替えるのが式年遷宮、ということです。

せんぐう館

ちなみに「穢れがすべての災いをもたらす」という日本人の価値観は、古代から今に至るまでずっと続いている価値観。

熊野信仰にしても、祇園祭・お盆などの各種祭にしても、被差別部落民の問題にしても、すべては日本人の「穢れ忌避」からきているものと思われ、式年遷宮についても同様に「穢れ忌避」という理由が一番大きいのでは、と考えられます。

加えて宗教人類学者の植島啓司著『伊勢神宮とは何か』によると、「擬似再生」ではないか、との説も。

さらに、宗教民俗学者の五来重著『日本人の死生観』によると、日本人には古来から擬似再生の考え方があり、熊野詣の目的は「擬似再生によって自らの穢れ(罪)を清めること」。そのためのツールとしての擬似再生をこの世で再現したもの。

「いったん熊野で死んで生き返ってまた戻る」という熊野詣は、死装束としての白装束を着用します(=四国のお遍路さんも同じ理由)。還暦の赤いちゃんちゃんこ着用も60歳でまた擬似再生=生まれ変わる、ということからきています。

以上のことから、式年遷宮は

「穢れの清浄」を目的として、20年ごとにおこなう擬似再生の儀式

ということではないかと思われます。

へんば餅のお祓い町店

⒋全国民的行事だった伊勢参り

伊勢参宮の浸透度合いは驚異的で、江戸時代初期にはすでに伊勢にお参りしていないと「人ではない」と言われたといいます(ルイス・フロイスの報告)。

1777年(江戸時代中期)の書物『私祈祷檀家帳』では、伊勢神宮の檀家が439万軒というから、5人家族として約2,200万人が伊勢信仰。当時の人口は3,000万人程度といわれていたから大半の日本人は伊勢信仰で、地域も青森県から鹿児島県まで、あらゆる地域から伊勢参宮されていたらしい。

宮本常一が調査した対馬(昭和25・26年)でも、ほとんどの村に伊勢講(※)があり、著者が直接話を聞いた長老たちも伊勢参りしていない人はほとんどいなかったといいます。

※伊勢講とは、
日本全国各地にあった伊勢神宮の信仰集団のことで、伊勢から遊行にやってきた御師(ツアーコンダクターを兼ねた伊勢信仰の宣教師:詳細後述)との関係をベースに、みんなでお金を積立して伊勢参宮したりお布施したりなどの活動をしていたコミュニティ。

そして著者が注目したのは、このような伊勢信仰は

もっとも興味のあることは、その信仰が政治の力によって強いられたものではなかったと言うことである。

宮本常一編著『伊勢参宮』99頁

伊勢神宮の信仰は庶民に愛され広まった信仰なのです。以下歴史を追ってどのように庶民に信仰が広がったのか、見てみたいと思います。

⑴天武天皇の中央集権化

なぜこんなに浸透したかといえば、まずは天武天皇の律令制の日本全国への普及がその端緒となったといいます。

天武天皇は列島に実質日本という国を造った天皇で、その一環として各地の神社を中央の支配のもとに統合。神社はそれぞれが所有する封戸=神戸からの徴税によって経済的に維持。

この神戸に関して伊勢神宮の神戸は1130戸と、奈良三輪神社の327戸と比較しても圧倒的で、相当の領地を伊勢神宮が保有。

お祓いまち

⑵荘園の普及に伴う各地からの開墾地の一部の伊勢神宮への寄進

さらに平安時代になって天武の中央統治体制が弱体化して荘園(支配層の私有地)が増大し始めると、神戸も下級神官=権禰宜(ごんねぎ)層が、土地を新たに開墾(御厨・御園という)。

平安時代には神仏習合も浸透して、天照大神が太陽神であることから、天照大神は大日如来の化現(大日如来が天照となって、この世に出現)であるとされるなど、大日如来の化身として信仰が深まります(実際、内宮の近くには神宮寺もあった)。

さらに各地方の在地の新興層が、開墾した土地の一部を伊勢神宮に寄進。この結果、伊勢神宮の神領が全国各地に拡大し、これらの神領=御厨・御園には神明社(伊勢神宮を祀る地方の神社)が勧進され、伊勢への信仰が浸透。

ふくやの伊勢うどん

⑶室町時代から戦国時代にかけての混乱で御厨・御園は崩壊

室町時代以降になると荘園制度は衰退し、御厨・御園からの徴税も未納が常態化して、式年遷宮も約100年間できずじまい。

その間、各地の信仰者は檀那(檀家のこと)として各地に点在していましたが、伊勢神宮周辺を拠点とする権禰宜層との関係は維持されていたと言います。

宇治橋

⑷江戸時代になって代参講が普及し、伊勢参宮が全国的規模に

代参講(※)というのは、伊勢講を通じて積み立てたお金を使って公の代表者が伊勢参りすること。

※代参講というのは、講仲間が銭や米を持ち寄るか、または一定の財産を持ち、その徳分を積み立て、それを参拝の費用にあてて、仲間の中から代表をたてて参拝してきてもらうものであるが、講に長く加入しておれば、一生の一度以上は伊勢へ参ってくる仕組みになっているものである。つまり伊勢参拝できるという魅力が多くの人を惹きつけることになる。

宮本常一編著『伊勢参宮』133頁

伊勢講が盛んになったのには御師の存在が大きく影響。

御師(おし)とは富士信仰や熊野信仰、出雲信仰でも活躍した宣教師兼ツアーコンダクター。御師のうち、伊勢御師のみが「おんし」と発音。かつての高野聖で有名な「聖(ひじり)」的な存在で、御師も聖も名前は違えど、同じような職業?ではなかったかと思います。

伊勢御師は、先述の下級神官権禰宜層に加え、地元商人なども取り込み、内宮・外宮それぞれの神主として神宮近隣に滞在。各地の檀那に対して手代を派遣して神宮のお札(大麻という)を配って初穂料をうけ、伊勢参宮を勧めます。

御師は伊勢に限らず、建前上は全国を行脚する宣教師としての位置付けでしたが、実質的には旅行業者的な存在で、伊勢参宮をプロモートして各地の庶民の参宮を促し、参宮にまつわる各種手続きを代行して、伊勢まで来れば宮川まで出迎え、宿を提供して道案内するなどして営業活動していました。

実は檀那に配るお札(大麻)も、伊勢神宮自身が発行したものではなく、御師自身が神宮の許可もなく発行したもので、何ら神宮の裏付けのあるものではありませんでした。

内宮

また、伊勢神宮の神様は、天皇の祖先神としての信仰というよりも、食や穀物の神たる外宮の豊受大御神、太陽神たる内宮の天照大神だから、伊勢参りの大半を占める農民たちにとっても親しみやすい神様だったのです。

実際、今は立ち入り禁止になっているエリアも江戸時代までは立ち入ることもできていたらしい。

そしてお参りとセットで古川(外宮と内宮の間にあった)という遊郭含めた歓楽街で遊び、余裕のある人は京都・大阪・金毘羅見物も合わせて楽しんでいたというから、信仰(聖)と娯楽(俗)は、今も昔もセットで楽しまれているのでは、と思います。

外宮と内宮の間にある現在の古川

⑸若者たちもみんな伊勢参り

伊勢参宮の中には「ぬけ参り」というのがあります。成人していない丁稚奉公や農家の少年少女など、未成年の若者たちが突然家出して、伊勢参りに行ってしまうのです。

同居する親などは、多分明日から「ぬけ参り」だなというのは、薄々わかったようですが、基本的には見逃していたらしい。というのも引き止めてしまうと、禍が起きるのでは、と恐れたから。

各集落には後見人みたいな人がいて、親に内緒で手伝っていたそうです。

柄杓を持って、いかにも伊勢参りだと分かれば、街道の人たちは皆、競って施行してくれるので、泊まる宿にも食料にも困りませんでした。施行すればするほど穢れは忌避され、現世も来世も幸福になる、と信じられていたので、みな積極的に施行したのです。

一方で「若者には旅をさせよ」ということで、親承認の若者の伊勢参りも多く、毎年村ごとに人数を決めて伊勢参宮に行かせていたらしい。

おかげ横丁の伊勢うどん「ふくや」

このように爆発的に普及した伊勢参りですが、明治時代以降は伊勢講が急速に下火になります。

というのも明治政府が御師の制度を全国的に廃止したとともに陸運の交通機関、鉄道などが普及して旅行が圧倒的に簡単になり、経済的にも豊かになったので、わざわざ積み立てをしなくても簡単に伊勢参りできるようになったから。

内宮

とはいえ、今でも伊勢参宮者は、コロナ前は年間800〜900万人と、相当な参拝者数で、日本の庶民にとっての親しみやすい身近な神様。

信仰のカタチはだいぶ変わったものの、今でも伊勢神宮への日本人の関心は続いているのでは、と思います。

*写真:伊勢神宮外宮

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