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ショーペンハウアーの国家論

現在教わっている小坂国継先生の近代哲学講義がドイツの哲学者ショーペンハウアーからだったので、復習も兼ねて「意志と表象としての世界(西尾幹二翻訳版)」読了。

通読すると厭世主義で有名なショーペンハウアー「ここにあり」という感じで、「ニーチェ思想の源流」というのがよくわかる内容だったのですが、それは後日詳述するとして、意外に本書の中では国家のことも論じているのです。

「国家は共同的になっているこの万人のエゴイズムに奉仕するためにのみ存在する。そもそも純粋な道徳性、すなわち道徳的根拠からの正義(※)に適った行動を誰からも期待することはできないという正当な前提のもとに、国家は創設されているのである(意志と表象としての世界第4巻62節より)」

※正義=意思肯定の境界を侵すような侵犯をしない事(自分のエゴで他人に迷惑をかけない事)

そして、これ以上に国家に役割を任せるのは余計なことだとも言っています。個人のエゴイズム(=意志)を調停する機能が国家の役割ということで、そうすることが個人の幸福を守る事になる。更に哲学の先人たち、アリストテレスやホッブズも同様だとして、最終的な国家の目的は個人個人の幸福を守るためだとしています。

「国家というものは、理性を具備したエゴイズムがエゴイズムそのものに降りかかってくるそれ自身の悪い諸結果を回避しようとするための手段であり、人は誰でも、自分の幸福が万人の幸福のうちに共存していることを見届ける以上、国家は万人の幸福を促進するための手段に他ならないということをわれわれは知るに至ったのである」(同)。

「自由の相互承認」という近代市民社会の原理につながっていく政治思想をショーペンハウアーであっても同じように論じているのは非常に興味深い。

結局西洋人は、まず個があって「個を起点に国家はどうあるべきか」という思考方法。そもそも個に意志がなければ調停する必要もありませんし、国家もいらない。個が集団行動をしたときにこの自由意志の衝突する場合があるので、それを調停するために国家がある、という感じ。

スイスの歴史を勉強した時も、これに近くてスイスという国は山間の小さな村落がハプスブルグ家からの侵略を阻止するためにまとまって国を作ろうとなったわけで、国家の発生が常にボトムアップのベクトルなのです。

反対に東洋では、特に中国ではまず皇帝がいて、そしてトップダウンで「マス」としての臣民を統治するという感じで、起点は常にトップで、日本も中国の思想を輸入してできた国なので同じ発想。例えば日本は常に「オカミが」となります。

西洋はボトムアップ、東洋はトップダウン。

そんなベクトルを改めて感じさせてくれたショーペンハウアーでした。

*写真:スイス連邦 ベルン ブンデスハウス(連邦議事堂)


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