「死の国」熊野と巡礼の旅 関裕二著 書評
<概要>
独自の歴史的視点から、伊勢から熊野、和歌山に至る紀伊半島の古代史を紐解く紀行文的著作。
<コメント>
引き続き「熊野」関連の著作を読む。著者の関裕二先生については、先日NHK文化センターの講義「古代史を彩った三大豪族の謎 物部氏、蘇我氏、藤原氏の正体」でオンライン聴講。
彼の独自な古代史の視点は大変興味深く、他の著作も読みたいのですがまずは「熊野」。
本書は、展開の仕方が「アラ還オヤジ二人旅」みたいなスタイルになっているので、この辺りはあまり好みませんが、古代史や記紀神話に絡めた奥深き熊野の物語と旅路を疑似体験することができます。
■外房と紀伊半島の不思議な縁
生まれも育ちも千葉県の私としては、和歌山県(特に紀南)と千葉県(特に外房&銚子)に縁を感じざるを得ません。本書でも「不思議な縁」としていますが、近代以前(=江戸時代以前)の流通はヒトも物資も陸運ではなく「海運が中心」なので、徳島(阿波)→和歌山(紀州)→房総(安房)→銚子は、黒潮文化の連続性の中にあります。
銚子に関しては以前「銚子の風土」として、銚子には紀南出身の多くの人が黒潮に乗って移住し、醬油の製造や干鰯(化学肥料が発明される前の主要な肥料だった干した鰯)の生産を営んでいたと紹介しましたが、それ以外にも盛沢山。ちなみに朝ドラ「澪つくし」の沢口靖子演じる薫の父は紀州人という設定)。
紀伊半島沖で船が遭難すると黒潮に乗って、北からの親潮に衝突する外房に流れ着いたらしいので、外房の「勝浦」などは、那智勝浦の人が住み着いてかつて暮らしていた土地の名前を付けたのかもしれません。
■熊野詣という修行による罪滅ぼし
熊野詣は、安易な詣でになってしまうと修行にならないため、中辺路など、あえて厳しい路を進んだらしい(というかどの路もそれなりに険しい)。厳しい路をはるばると進んでいくことで、現生の罪滅ぼしのための修行とし、熊野という「死の国=黄泉の国」を訪れることで、現世における罪深い人生をリセットするのです。
熊野詣が流行った時代は、平安後期(院政の時代)ですが、この時代の権力者たちには、西北インドから伝わった終末論「末法思想」が流行し、末法の世に入る西暦1052年(釈迦入滅後2000年)以降、
ということで、新約聖書のハルマゲドン、ノストラダムスの予言などにもつながる世紀末思想。
熊野詣によって自らを再生することで、権力と財を握った院政の有力者たちが「自分だけは救われたい」という安寧を求めた結果が、熊野詣を盛んにした要因ではないかとしています。
これは院政の敵対勢力だった藤原氏も同じで、権力を握る過程で多くの罪なき人を容赦なく殺してきた結果、藤原氏が繁栄したその代償としての、「罪の意識」「犠牲者の祟り」の禊ぎを目的に、修行を伴う熊野詣を敢行したのでは、としています。
■紀ノ国における「紀直」と「紀臣」の2大勢力
今の和歌山県、紀ノ国には「紀直(きのあたい)」と「紀臣(きのおみ)」の系統の異なる2大勢力が存在していましたが、元は同じだったのではないかとの仮説。
⑴紀直(きのあたい)
紀伊国造家で、大化の改新による律令制定後、国造の制度がなくなって各地の国造もいなくなったのですが、出雲と紀伊国だけは、なぜか国造が続き、出雲では出雲大社、紀伊では日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)神宮の神官として血統が継続。
明治維新後も華族に選ばれ、一族から和歌山市長(紀俊秀)誕生するなど、今に至る名家中の名家。
「紀伊続風土記」によれば、神武東征ののち紀伊国造に任ぜられた天道根命の末裔だとされています。
⑵紀臣(きのおみ)
天皇が紀伊に行幸するにあたり、占いで吉と出なかったので代わりに屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと、一説に武猪心)が紀伊の阿備柏原(和歌山市相坂、松原付近)で天皇に代わって神祇を祀る。その後9年間滞在するうちに地元の娘を娶って生まれたのが、武内宿禰(たけのうちのすくね)。
この武内宿禰が紀臣の先祖で、地元の娘は紀直の血縁らしいので、繋がっているらしい、というのが、この2族の関係。
ちなみに土佐日記で有名な紀貫之は、紀臣の系統で京都に進出した一族。
⑶総括
この辺りは、いろいろな説があって明確ではないらしいのですが、少なくとも紀氏は、紀の川河口付近の豪族で、海人集団として瀬戸内海まで海上を行き来していた一族。
「和歌山県の歴史」によれば、紀氏集団には紀の川を挟んで、南岸と北岸の2大勢力に分かれていたらしい。
北岸勢力が「紀臣」で、住吉を拠点にしていた大伴氏と共に朝鮮半島で活躍。ただし朝鮮半島進出失敗で、大伴氏はヤマト政権の中でその勢力を減退し、北岸勢力もそれに伴って衰退。その後、大和の平群谷に移住し、中央貴族の紀朝臣として、勢力拡大→紀貫之に繋がっていくという構図。
一方、南岸勢力が「紀値」で、ヤマト政権と連係して国造制度の中に取り込まれ、ヤマト支配下に取り込まれるも、紀国造として任官するとともに日前・国懸神宮の宮司として今に至るまでその血統を維持し続けている、
と解説しています。
*写真:三重県熊野市 瀞峡(2021年5月撮影)
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