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和歌山県の風土:「穢れ忌避」がもたらした熊野の伝統

これまで、熊野に関する著作を読んできましたが、実際に熊野を訪れた印象とあわせてここで整理。

■熊野の自然環境

熊野の自然環境は何といってもその雨の多さ。日本有数の雨の多さで、新宮市の降水量は年間3,332mmと東京の約2倍の雨の多さ、山の深さと相待って熊野川をはじめとした清流が隈なく流れ、湿気のこもった山深い幽玄な環境をもたらしています。

田辺市 高原地区(2022年5月撮影。以下同様)

「熊野は死者の国(=他界へのあこがれ)」といった宗教民俗学者五来重の表現した熊野のありようは、奈良・京都からみて、南の山奥に位置することに加え、このような自然環境がもたらした鬱蒼とした深い森林地帯にその由来があるように思います。

田辺市 熊野古道 中辺路にて鹿に遭遇

一方で沿岸は、南からの熱を黒潮がもたらしてくれるので温暖で寒暖差の少ない、一見すると暮らしやすい環境に見えるものの、

由良町 衣奈の美しい海

モンスーン気候の影響で台風が通過しやすいエリアのため、たびたび水害に襲われ、南海トラフの影響で過去から数多の地震や津波を経験した過酷なエリアでもあります。

太地町でみた津波回避用の避難タワー

死者の国は、沿岸でも「補陀落渡海」の伝説となってあの世の世界につながっています。

那智勝浦町 補陀落山寺

このように熊野は山・海いずれも環境の厳しいエリアのため、我々が日常を過ごす生活世界とは「別の世界=あの世の世界」として認知されたのかもしれません。

復元された補陀落船(この船に30日間の水と食料を積み、補陀落浄土へ向かった)

■熊野詣の目的とは

熊野とは、神仏が習合した霊場、熊野三山(=熊野本宮大社+熊野速玉大社+熊野那智大社)への巡礼の聖地。

(新宮市 観光協会HPより)

熊野三山という「点」ではなく、巡礼のための「古道」と合わさった「」としての聖地であるところがポイント。

すさみ町 熊野古道 大辺路 長井坂のウバメガシ林(紀州備長炭で使用する木)

過去の日本列島住人=日本人は「衣食住の充足」は当然として「いかに現世の穢れを忌避することできるか」が一大関心事。

田辺市 熊野本宮大社(中の御社殿は撮影禁止)

なぜなら死や病気、怪我、不慮の事故や人間関係の不和など、人間の不幸の原因は全て「現世の穢れ(罪含む)」だと考えられてきたから

新宮市 熊野速玉大社

また、大小関わらず人間は悪事を働くものだから、何か自分が不幸に見舞われるとその原因は「過去の悪事」に求められ、また人間は、血や汚物、感染症患者に触れるなど、なんらかに穢れることによって不幸に見舞われるとも考えていました。

那智勝浦町 山成島(平維盛が補陀落船で停泊したという島)

現代の日本も、外国人から見ると、空港で降りた時点で「何かが違う」と言います。それは「あまりの清潔さ加減に」です。空港がキレイ(芸術的美しさではなくクリンリネスとしての美しさ)、電車やバスの床がキレイ、壁がキレイ、道端に殆どゴミが落ちてない、などなど、日本の清潔さの事例を上げたらキリがありません。こんな習慣もきっと古代からの穢れ忌避の伝統が今に息づいているからかもしれません。

那智勝浦町 熊野那智大社(この隣に神仏分離された青岸渡寺がある)

そんな「穢れ」を祓うには熊野詣は最高ランクの解決法だったらしい。

なぜなら「穢れ」を祓うには「水垢離(冷水をかぶる修行)」などの禊祓いや厳しい自然環境で厳しい道程を辿ることによって自分の身を清めることが当時考えられていた最高の解決策で、その解決には熊野詣はまさにピッタリだったから。

上富田町 富田川(岩田川)の水垢離場

修行が厳しければ厳しいほど穢れを祓うことができるので、行程がよりラクな伊勢方面からの熊野詣(=伊勢路という)は廃れてしまいます。より厳しい田辺から熊野本宮に向かう中辺路が一番利用されたのです(伊勢と熊野が仲が悪かったという説もあり)。

鎌倉殿の13人で登場する後白河法皇も、その保身を理由にあらゆる悪行をしてきたと自覚していたからなのか、その罪滅ぼしのために34回も巡礼したというのだから、相当の罪悪感があったのかもしれませんし、死後は地獄に落ちるかもしれないという恐怖感で一杯だったのかもしれません。

海南市 熊野古道 紀伊路:藤白王子近隣の有馬皇子史跡

意地悪にいうと当時、全国を遊行した熊野修験(山伏)や熊野比丘尼(女性の山伏)が貴族や武士・民衆を脅して、もともと日本人が持っていた穢れ忌避の観念を強烈に植え付けるのに成功したともいえます。「穢れを祓うには熊野詣するしかない」とし、彼らが熊野古道を案内した(先達という)というわけです。

今風でいえば「厄年」を宣伝して当該者に恐怖心を植え付け、「厄除け」に寺社に来てもらおう(寄進してもらおう)というような類です。

■なぜ西洋人に人気があるのか

現地の人に聞くと実は、コロナ前のインバウンド爆発状態の時は、殆ど観光するのは豪州人含む西洋人ばかりで、中国人等のアジア人は殆どいなかったらしい。これは前回の「高野山」と同じ。「巡礼」というキーワードでみると、西洋人からは、

西の「サンチャゴ・デ・コンポステーラ」、東の「熊野古道」の位置付けになるそう。

サンチャゴ・デ・コンポステーラとは、スペイン北西部「ガリシア地方」にある巡礼地で、キリスト教の三大聖地(ローマ、エルサレム、サンチャゴ・デ・コンポステーラ)の一つ。この巡礼地&巡礼路(バスク→ガリシアを巡るスペイン北部を通る路)が世界遺産になっていて、これに匹敵する巡礼地として熊野三山が位置付けられたのです。

「世界史の窓」によれば、

9世紀にイエスの十二使徒の一人ヤコブ(聖ヤコブ、スペイン語でサンチャゴ、英語でセント・ジェームズ、フランス語でサン・ジャック)の墓が見つかったとされて司教座が置かれ、それ以後聖地として、ヨーロッパ各地からの巡礼が集まるようになった。もともとはカスティリャ=レオン王国が国土回復運動(レコンキスタ)を国家統合の柱とする上で作りあげた伝説に過ぎなかったが、その伝説がピレネーを越えてフランスに拡がり、十字軍運動の熱狂の中で、この地への巡礼も流行となった。

とのことで、その正統性は怪しいものだったとはいえ、多くの人に信じられることが重要で、それが神話となって権威性を持つ、という典型。

西洋人からみれば、熊野古道の巡礼は、彼ら彼女らの伝統たる巡礼の道を辿ることであって、その先にサンチャゴ・デ・コンポステーラもエルサレムもなく、あるのは神仏習合の象徴たる熊野大権現を祀る熊野三社。

田辺市 熊野古道 中辺路 継桜王子跡「とがの木茶屋」

熊野古道のうち、主たる中辺路には、近露地区や高原地区などの「宿場町」があって、インバウンド向けに多くの宿泊施設がありますが、おおよそは移住者が運営する施設(複数の現地住民談)。高原地区なぞは超過疎化集落かと思うとそうではなく、住民の半数は「移住者」というから驚きです。

田辺市 近露集落
田辺市 高原集落

では熊野三社とはなんだったのか?それは「神仏習合の世界」。せっかく巡礼するのだから「神仏習合」という日本オリジナルの宗教観を認識してもらいたいものです(日本人含め)。

那智の滝&青岸渡寺(神仏習合時は熊野大社の如意輪堂)

以下ご参考まで。

*写真:田辺市 湯ノ峰温泉

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