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奈良の風土:修験道と天皇家に守られた「南部」

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吉野川を境にした奈良県南部は、我々が一般にイメージする奈良とは異なる別世界。

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古代から近世にかけて、修験道の聖地たる金峯山寺を主とする修験道の聖地「大峰山」や、天皇家から1200年に渡って免租地になった十津川など、歴史的にも興味のつきない地域です。

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(吉水神社から金峯山寺を望む:2021年5月。以下同様)

■修験道の聖地

地理的には、盆地特有の雨の少ない乾燥した奈良盆地に比して、日本一雨の多い紀伊山地を起点に大量の水をたたえつつ流れる吉野川以南は、奈良盆地に住むヤマトの人々にとって垂涎の場所でもあったらしい。

吉野に住む人々は「神仙境 吉野の謎に迫る」によれば、

古来ゴツゴツした厳しい岩山を、神の住まう山として崇めて来た。この山々で修行する人たちのことを、神霊を宿す験力を修めた者として崇め、後代に「修験者」、或いは山に伏して修行することから「山伏」と呼ぶようになっていく(74頁)。

という修験道のルーツ。

西暦868年、吉野で修行した修験者「道珠」が天皇に招かれたというのが「修験」の文字の初出らしい(日本三代実録)。

古代人は、穢れることによって神が怒り、その結果として疫病や地震・洪水などの災いが起きると考えていたわけだから、穢れをいかに削ぎ落とすか、が災いから逃れる最も重要な方法だと考えていました。

どうやって削ぎ落とすか、それを「禊ぎ」といい、その一環として山中での難行苦行=修行によって、禊ぎとしての効力=験力を得ることができると考えました。そのような難行苦行の場として、神の住まう急峻で山深く雨の多い紀伊山中の吉野山は最適な場所だったのです。

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(吉野町 金峯山寺蔵王堂)

現代に生きる修験者、塩沼亮潤さんの大峯千日回峰行などの修行について記録したNHKBSのドキュメンタリーを観ましたが、究極の荒業苦行で、ちょっと信じられない世界です。このような修行は一般的に

入峰者が象徴的に一度死んだ上で母胎とされた霊山で十界修行を行い、成仏した上で再生することを、擬死再生を示す一連の所作によってリアルに会得させる仕組み(同96頁)

だとのこと。

修験道といえば、その開祖たる役行者(えんのぎょうじゃ:7世紀末)という呪術者が有名ですが、これは鎌倉初期に事後的に開祖となったらしい。一般的に宗教の教祖や改組は伝説に彩られていますが、修験道の場合は役行者を開祖として伝説化し、数々の修験道の伝説は開祖役行者を中心に整理。そして役行者は江戸時代(1799年)に光格天皇より「神変大菩薩」の諡が贈られたといいます。

修験道の本拠たる金峯山寺は、古代吉野宮に関係する水分(みくまり)信仰が起源ではないかと言われています。乾燥地域の古代奈良の人々にとって雨乞いは重要な儀式。吉野川の上流は神から水を与えられたその核心的地域だと考えられ、日本書紀や続日本書紀によれば各時代の天皇による吉野宮来訪=雨乞いは、天皇8代45回に及ぶと言います。

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(吉野川:川上村)

その源泉たる場所が吉野山最高峰青根ヶ峰だとされ、その尾根沿いに水分神社が創建され、金峯山寺が創建されました。

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(金峯山寺仁王門:改修中のため阿吽の金剛力士像は国立奈良博物館で展示中)

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(奈良国立博物館 仏像間に展示中の金峯山寺仁王門:金剛力士立像):写真撮影可です!

そして空海によって紹介された真言密教と合体し、真言密教の菩薩や仏が、リアルな世界に権現として登場したのが蔵王権現だ(本地垂涎)としてこれを本尊とする神仏習合の信仰が誕生したといいます。

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■天皇家によって特別扱いされた十津川郷

十津川郷の人々は、古代壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に味方して援軍を送って勝利に貢献したという実績から、その後1,200年間ずっと免税の恩恵を受けた土地。明治維新政府に課税されるまで、本当に租税勅免の土地だったというのは驚きです。

実際に現地に行ってみると以下のような碑がたっていました。

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(とんと十津川御赦免どころ 年貢いらずのつくりどり)

このような特別な土地柄だったために、十津川の人々は天皇家への忠義心に溢れ、こんな山奥にあっても誇り高く、狩猟を生業としている関係か、武術に優れて自主自衛の精神が強かったといいます。今でも剣道有段者が多いとか。

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(十津川村:谷瀬の吊り橋)

なので北朝と対立した南朝は吉野に拠点をおきますが、後醍醐天皇の息子「護良親王」も身を隠したということだから、南朝にとっての最後の砦としての役割を担っていたのではないかと思われます。

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(十津川:十津川温泉付近)

江戸時代には、代官所にいく際には武士の正装で訪問しつつ、幕末には京都御所の警護等で活躍したこともあり、明治時代には十津川郷士は士族としての待遇を受けたといいますから、スパルタのように戦士がそのまま郷士となった土地なのでしょう。したがって税金は免除。

有事になれば、武芸達者な援軍として命を賭けて参戦してくれるのですから権力側からみれば、税を免除する以上の恩恵を十津川郷士から享受していたわけです。

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(スイス ルツェルンの嘆きのライオン像:2014年)
ブルボン王家に雇われたスイス兵は、フランス革命によって700人以上が戦死。山国のスイスは、痩せた土地でかつ平地も少ないため、成人男子の多くは傭兵として近隣国に出稼ぎしていたといいます。当然戦死する人も多く命を賭して故郷を守っていたのです(現在のバチカン:スイス衛兵もこの一環としての傭兵です)。

同じ山国としての十津川郷にも通じるエピソードではないかと思います。

*写真:2021年5月 北山川


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