見出し画像

「さかのぼり日本史」奈良・飛鳥時代 書評

<概要>
日本列島において、外圧によって中央集権的なクニの形が整えられていった飛鳥・奈良時代を簡潔にわかりやすくまとめた良書。

さかのぼりの西暦換算では、

752年の聖武天皇による開眼供養 → 592年 推古天皇即位まで 

の期間。

<コメント>
古代も今も、鎌倉時代も、戦国時代も、明治維新も、民主国家の今も、日本は全て外圧で歴史が動く、というのが面白かった。

日本列島は、程よい距離感で大陸や半島と海を隔てているので、なんらかの外圧が加わらないと変化しようとしない、ということなのか? 逆にハワイなどの完全な孤島だと、人的交流も難しくまた違った歴史になる。一方で地続きの朝鮮半島では、隣国に侵略され侵略するという、外圧などでは済まない状況に陥ってしまう。

池田信夫(空気の構造)も以下書籍で同じようなことを主張。やはり大事なのは「地理」。


■聖武天皇:平城京の整備と仏教の大衆化による律令的支配体制の確立
聖武天皇の治世は、相次ぐ災いへの克服を目的とした統治力強化の歴史。聖武天皇誕生前に始まった外圧を契機に内政固めを完成させたのが聖武天皇。戦国→江戸時代に読み替えれば聖武天皇は徳川家光的といったら良いのか。。。

724年:聖武天皇即位
    天智天皇の負の遺産である長屋王などの他豪族の存在
729年:聖武天皇による藤原家と連携した長屋王排除
737年:天然痘の大流行
740年:地方豪族の反乱(九州:藤原広嗣)
740年:恭仁京「遷都」による豪族や他宮家の既得権益排除と疫病回避
745年:天然痘再流行による求心力低下克服のため平城京「還都」&仏教の大衆化
749年:聖武天皇出家して仏門へ。娘「孝謙天皇」に譲位
752年:開眼供養で仏教国家完成

■天武天皇:唐のベンチマークにより日本&天皇が誕生した時代
著者によれば、天武天皇が古代の徳川家康で、天智天皇が織田信長だそう。つまり天武天皇は兄のおこなった改革をベースに、ここで初めて(古代)日本という「社会の虚構」が創造されたわけです。

681年:律令制定・記紀神話の編纂開始
具体的には、中国文明(唐)を見習い、文明性担保のための正史としての「日本書紀」、天皇家の正当性の根拠としての神話「古事記」を編纂することによって内外に「日本」という共同体認知を企図。同時に唐の律令制をマネた統治機構・徴税制度・戸籍を整備開始(のちの701年:大宝律令で完成)

672年:壬申の乱
なるほどな、と思ったのは、天武天皇は、他天皇のように譲位によって獲得した権力ではなく、暴力(壬申の乱)によって獲得した権力のため、権威性の根拠たる虚構(ストーリー性)が弱く、別途強力な大義名分が必要だったことが、日本というナショナルアイデンティティを生んだ要因となっている点。

また、天武天皇が壬申の乱の時に協力した諸豪族に恩賞として都を飛鳥に戻し土地を与え「八草の姓」を定める(旧来の臣・連よりも上位の姓)。これが後々に聖武天皇による中央集権国家樹立の禍根となって長屋王の事件につながっていきます。

■天智天皇:白村江の戦い「危機が生んだ大改革」
この辺りまで古代史をさかのぼると外圧の影響が出てきます。乙巳の変から続く畿内の権力闘争が、白村江の戦い参画を誘発して大敗。この結果、唐・新羅から列島への侵略による政権崩壊を阻止すべく、ハード面での防衛策、及びソフト面での豪族&支配民のデータベース化による直接支配強化策を講じます。

*乙巳の変では、最近の研究成果により孝徳天皇も首謀犯だとする説が主流だそうです

642年:高句麗でクーデター(唐と敵対)
645年:百済が新羅侵略(唐と敵対)  →半島情勢が緊迫化
645年:百済派の蘇我氏と唐・新羅派の孝徳天皇の対立が深まりクーデター勃発(乙巳の変)。
646年:改新の詔:公地公民、中央集権、戸籍と班田収授、徴税制度の導入(成功せず)
651年:孝徳天皇が難波に遷都するも、百済派の皇極天皇・中大兄皇子(天智天皇)が従わず
653年:孝徳天皇崩御。百済派の皇極天皇が斉明天皇として即位し、飛鳥に還都
663年:白村江の戦いで百済を助けるべく遠征し、唐・新羅に大敗
664年:唐・新羅の列島侵略を阻止するため、太宰府移動・防人配置などの各種防衛策処置
664年:甲子(かっし)の宣:豪族庶民の直接支配と日本初の官僚政治導入(転勤&昇進あり)
667年:近江大津京への遷都→唐・新羅防衛策の完成
668年:天智天皇即位(斉明天皇崩御)
670年:庚午年籍の作成(日本初の戸籍):文書行政の開始

■推古天皇&聖徳太子:文明国への仲間入りを目指した国作り
天武天皇が「天皇」という称号を創造するまでは、ヤマト政権トップは、列島各地に展開する「王」の中で一番大きな「王」として「大王(おおきみ)」と呼ばれていたらしい。したがって推古天皇も本来は大王。

*なお、平城京までは天皇(大王)が交代のたびに遷都(歴代遷宮という)

592年:推古天皇即位(初の女帝)。飛鳥、豊浦(とゆら)宮遷都
600年:遣隋使派遣。隋から野蛮国としてバカにされ、トボトボ帰国
603年:小墾田(おはりだ)宮遷都。遣隋使の知見によるハード面の文明化
   :冠位12階&17条憲法。遣隋使の知見によるソフト面の文明化(聖徳太子)
607年:名誉挽回の遣隋使。小野妹子が日出る国と称して隋の皇帝煬帝の怒り誘発
608年:隋からの使者、裴世清(はいせいせい)を迎え、文明国としての立ち位置
    を確保

マット・リドレーの名著「繁栄」によれば

「人間は、物々交換・情報交換、さまざまな交換を行うことにより、加速度的に進歩していく」ということだから、外圧とはいえ、列島も程よい距離感で大陸や半島と知識の交換(というか、一方的享受)があったからこそ、進歩していったということ。「交換」が「進歩」を生むという、現代にも通じる歴史の知恵です。

*写真:2013年 奈良 秋篠寺



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?